青蟬
何かのアンソロジーだったと思うのだけど、吉川宏志さんのこれまでの歌集から抄出された歌の並んでいるものを読んだとき、『青蟬』の歌のほとんどすべてに印をつけた。こんなによい歌ばかりの歌集があるのか、と思い早速手に取ろうと思ったら、そう簡単には手に入らなかった。2022年のことである。それから1年して砂子屋書房から新装版が出て、無事に読むことができるようになった。基本的には「新装版」という商法への懐疑心が強いのだけど、気軽に手の届く場所に再び本が現れてくれるのであれば、こんなに嬉しいことはない。
通して読んでみて、ぼくはやっぱりこの歌集が好きだ、と思った。若さ、性欲、そういったものの最中にありながら、それらに対しておいている距離の遥かさ。それにもかかわらず、それを短歌にしなくてはならない、という切迫した感じ。
この距離感だ。自らがその最中にあるはずの性欲を、限りなく透明に近いブルーに眺める自分がいる。「抱く」という動詞の多さについてはおそらく多くの言及があるのだろう。この現象っぽい言い回し。無骨な言い回し。まるで状態の記述だ。性行為をする、というのには様々な類語がある。中でも、この突き放すような「抱く」という言葉にはあたたかさや剽軽さはない。さまざまに生起する感情を総括するように起こってしまう現象としての「抱く」。この言葉の多用には、あえて痛みの場所に挑んでいくような苦しさがある。フラットに愛になったときに、抱く、抱かれる、という能動と受動になってしまう、男性性の暴力性。飽きてしまうのはわかっているのに、逢いにいってしまう。そういうつもりでないのにそうなってしまう、という不条理にも思える因果。そのことをずっと短歌にしているような気もしてくる。
「青蟬」とはエピグラフにもあるように李賀の詩からの引用である。盛唐の李白、杜甫ではなく、諏訪哲史に言わせればマニエリスムの詩人・李賀。せっかくなので、「青蟬」を含む「南園十三首」の「三」の全文を引用してみよう。
自らの荘園の風景をうたったものだけれど、「琥珀」や「青蟬」にやはり李賀を感じる。続く「四」はこんな風にはじまる。
二十歳を越えて、三十にはならない微妙な年。「三十にして立つ」には足りない、今でいうならばモラトリアムの季節。李賀がこの詩を書いたのは二十三、四歳のときのことだった。官吏への道を鎖された李賀はときおり、絶望とともに自らを述懐する。「二十にして心已に朽ちたり」というのはその最たるものだろう。早熟の詩人、李賀は絶望のうちに二十七歳で病死する。
若さという苦々しさ。李賀に引っ張られるわけではないけれど、李賀に共鳴するように青蟬の声は響く。ただ、この歌集の光はそのまま破滅に傾くのではなく、「君」との生活を受け入れていく確かな足取りにある。
こうした歌は、やはり希望のように思える。「ほどの」という認識を持ちつつも、肩を並べているその状況を、ゆるやかに受け入れる。ちょっと話はずれるかもしれないけれど、旧劇場版の新世紀エヴァンゲリオンで、惣流・アスカ・ラングレーが「気持ち悪い」と碇シンジを拒絶したこと。すなわちわたしとあなたは別な存在である、ということの提示。それは、あの物語では究極的な救いだった。同じ風を浴びながら、君は目を閉ざし、私は開けている、という同化できなさは、やはり救いなのだ。暗夜の中にあるとき、金粉の数ほどの嘘をつく君は、月光のように明るいはずだ。