短歌研究2024年5-6月号
ものすごい量ですね、と毎回毎回思う。300歌人の歌をひととおり読んで、五首を選んでみた。
しかしながら、とちいさな傘をひろげつつあなたは星の降る都市へゆく/井上法子「逆説」
だとしてもつづけてほしい誰ひとり幸せにしない夜更けの手品/魚村晋太郎「港」
カノープス見ることももう諦めて如月は過ぐまたたける間に/大辻隆弘「ナチュレモルト」
喉にいつもお粥のような白い声 立ちどまったら泣いてしまうよ/大森静佳「梅と風刺画」
薔薇の小道 いまからこれが終わるのが楽しみで仕方ない 夜の道/堂園昌彦「最近の五首」
一首一首の評、またその他にもいいな、と思った短歌の評については、七月七日のスペース以降に追加していきたいと思います。(7/6現在)
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昨夜のスペースはありがとうございました。文字起こしはされるかもしれないし、されないかもしれないし、ということですが、ぼくの選んだ歌については少し詳しい感想を書いておこうと思います。お酒を飲みながら放談のように短歌のことを話すのって、楽しいですね。
しかしながら、とちいさな傘をひろげつつあなたは星の降る都市へゆく/井上法子
連作のタイトルは「逆説」だけど、この歌は逆接の接続詞からはじまる。逆接というのは、もちろん順接ではないということだ。まず大きな物語があり、そこに順な接続をするのでなく、抵抗をする。よく現代文の読解として、逆接の接続詞のあとには筆者の主張がくる、というあれだ。この「あなた」が何に対して「しかしながら」を突きつけているのかは省略されていて、ただその態度だけがここには表現されている。そして、その態度は「傘をひろげ」ることと響きあっているように思う。傘は雨粒や日光から、天気という大いなる一方向性から身を守る手段。「しかしながら」という声は、世界へのちいさな抵抗だ。星の降る都市、という常套句は目に見える「美しさ」のようなものなのかと思った。ひょっとしたら実景としての星だけでなく、「美徳」の跋扈する世界かもしれない。美しさに取り巻かれるところ、おそらくそれは遠いどこか、へあなたは行く。でも、あなたは傘を、抵抗の言葉をもっている。傘は『メアリー・ポピンズ』のような飛翔する道具である、という一面もある。その傘は小さいかもしれないけれど、空中を切り飛翔する可能性をもっている。
だとしてもつづけてほしい誰ひとり幸せにしない夜更けの手品/魚村晋太郎
「だとしても」ではじまる短歌。さっきの短歌と似た構造で、まずこうした技法が好きだ、というのが直感の癖なのだと思う。それ以前の、何百、何千という試行錯誤が想起される。まるでループものの作品みたいだ。「手品」という名詞にぐっとくる。手品って「マジック」ともいうけれど、魔法ではない。奇術であり、技術であり、極限まで高めた技術が魔法のように見えているだけだ。本質として、それは魔法ではない。あえて強い言葉を使うなら、魔法の偽物で、虚構だ。でも、限りなく魔法に漸近できる技術でもある。人を幸せにしない、というのは誰かに笑ってもらえない、というだけでなく、例えば切断マジックで本当に人を切ってしまったり、何か取り返しのつかなさが潜んでいるように思える。谷川俊太郎の「詩人の墓」のような。もしかしたら手品は創作というものの比喩であるかもしれない。「誰ひとり」ということは、当然自分自身も含まれている。だけど、続けてほしいという率直さが率直にいいと思える。
カノープス見ることももう諦めて如月は過ぐまたたける間に/大辻隆弘
まず知識の話をすると、カノープスは「布良星」などとも呼ばれる一等星で、シリウスに次いで二番目に明るい星である。でも、日本では水平線間際までしか昇らず、冬に空を見れば一発で認識できるシリウスに比べると、ひどく見るのが難しい星だ。二月は、そんなカノープスが夜の早い時間に高く上がる時期で、観測には向いている。ビル群のようなところではなかなか見つけられないカノープスを、丘に登るなり開けた場所を訪れるなりで見よう、という気持ちはあるのに、結局その時間もとれず、気力もわかず、短い二月は過ぎていってしまう。共感性が高いのに加えて、語順や助詞の省略などで音楽性が獲得されている。例えば「カノープスを」「布良星を」のような「を」を省略することで、ロマンチックな嘆息のようにカノープス、と呟く。日本語の文法としては「またたける間に如月は過ぐ」であるのを、認知の順序に沿って「如月は過ぐまたたける間に」と入れ替える。「過ぐ」と一部だけ文語を差し込む。そうしてそれらをあっさりとやっているのがかっこよくて、力の抜け方にどこか諦観を感じ取ってしまう。
喉にいつもお粥のような白い声 立ちどまったら泣いてしまうよ/大森静佳
「くるしみは共有できず白粥のひかりを炊けどひかりを置けど」は雨宮雅子の短歌だ。お粥は病人、ないし弱っている人間の食べ物。仏陀に乳粥を差し出したスジャータの逸話なども思い出す。お粥はやさしさで、たおやかさで、やわらかさ。どこか聖性すらもつようなお粥の、更にその白さのような声。たとえばおにぎりみたいな形のあるものとして届く声ではなく、光のようで、べちゃっとして潰れてしまうような声。言い淀み、のようなものなのかとぼくには思えた。他者へ向けられていつつ、銃身に留まったまま形を失っていく声。それをいつもいつも抱えている。でも、下の句では実際の発話に移っているように、形の上では見える。「しまうよ」という発話は、しかし、他者ではなくて自らに向けられているようでもある。銃口は自分に向いていたのである。内省的な、内側に反響し続けるような声。立ちどまったら泣いてしまうから、常に動き続けていなくてはならない。この苦しみがまた、いっそう声をお粥のような白さにしていくのではないか、と思えてならない。
薔薇の小道 いまからこれが終わるのが楽しみで仕方ない 夜の道/堂園昌彦
薔薇の小道の「小」が抜群にいいと思う。六音で字余りなのだけど、この「小」の音が入ることで、非対称性が生まれ、薔薇の幾何学が脱臼されて散歩の実感が出てくるように思う。終わるのが楽しみ、というのはとても寂しい。これから何かが起こる、というアドベンチャーに心が動くのではなく、終わってしまったもの、経験となったもの、もう動くことなく確定したもの、そういうもののことを真っ先に考えてしまう苦しみのことを思う。薔薇の小道は、夜の小道に包括され、大きな夜の小道という記憶に流し込まれていく。この暗い多幸感といえばいいのか、この質感がたまらなく好きだ。
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その他にもいいな、と思った短歌はいくつもあって、そのうちの何首かも紹介したいと思う。
あおさぎの ぼくはふいに訪れたぼくをふいに失っていく/阿波野巧也
阿波野さんの連作は全部よくて、このリフレインの感覚がいい。歌集の「だいなしの雨の花見のだいなしな景色のいまも愛なのかなあ」のことも思い出す。一字空けや字足らずにすることでの休符の創出。その隙間に喪失感が生じてくる。
心時間論、心存在論。たましいの新元素はマインド惑星をイデア海惑星に置く/大滝和子
なんだか物凄くよかった。このよさって、名詞のフェチズムみたいなもので、塚本邦雄の「ディヌ・リパッティ紺靑の樂句斷つ 死ははじめ空間のさざなみ」をはじめて読んだときのインスタレーションとしての、静謐な対象物としての文字列の尊さ、みたいなものだと思う。今回の特集だと藪内さんの短歌も、名詞に惹かれていいな、と思った。「骨のやうな花束を棄て旅に出る口付けや恋や愛の廃墟を/藪内亮輔」。
しづかなる夜の暗きは浸されて大島てるのほむらを見つむ/門脇篤史
これはもうあるある、という共感性だった。大島てる、という事故物件のデータベース。そこでは事故のあった物件は炎のマークで指し示される。眠れないと、何故か大島てるや交通事故のドライブレコーダーの動画ばっかり見てしまう。それは静かな夜に無理やり炎を灯そうとする鋭意なのかもしれない。
花びらの白さ貼りつくところだけ欠けたわたくしりんご飴買ふ/川野里子
この歌もバランスが好きだった。白い花びらが貼り付いた部分、というのはとても些細な一部だと思うのだけど、その欠落を補うのは大きな、びかびか光るりんご飴というのが失うことへの恐ろしさが現れているように思えた。
季節狂へば新しき名を ひらがなをふたつ並べて呼ばむとすれど/川野芽生
春夏秋冬なんてもうなくて、夏夏冬冬だ、みたいなことが言われて久しい。そういうこととはまた違うのかもしれないけれど、もう新しい名前を与えてしまえばいい。すでに存在し、存在し続けてきた歴史性にいま/ここの唯一性を連関させることへの否定の意志を感じる。名付けること、名指すこと、ができるのに、それはすぐに歴史性に回収されてしまう。
忘るるなおまへの頸に闇よりも冥きあまたの掌の伸びくるを/楠誓英
インターネットをしていると、こういうことばかり考える。善意の形すらとっていない悪意さえも蔓延っている。そしてそれは形を見せることもなく、ぼくたちを冥府へ送ろう、送ろうとしてくる。
冥府、と口に出すとき声は葉の緑それから夢の紫/笹川諒
色をもちいる短歌ってすごく難しいと思うのだけど、こんなにばっちりと決まることってあるんだ、と思う。冥府、と何度も口に出したくなる。「めいふ」は五月のMayであり現実ではないIfでもある。緑の葉で、紫の夢。
グラウンドにやかんの水で線を引く先生ふたり春の夕べの/染野太朗
圧倒的に情景が浮かんできた。石灰や足じゃなくてやかんの水で線を引いている、という、この現実感はなんだろう。
寝なくては。大塚愛になりたいとおもっていたのはとおいむかしの/田村穂隆
大塚愛、って定期的に思い出してしまう。シンガーソングライターで、アイドルみたいになっていて、あの時代でも自由な「可愛さ」だった。大塚愛に憧れ、なりたい、と思っていた日々は過去へ行き、とにかく現在をやっていくために身体を休ませる。その身体をもっとも憎んでいるのに、というどうしようもなさを感じた。
昼の部はぜんぜんだめで創業が明治四年のもんじゃを焦がす/土岐友浩
この、後半で取り返さなくては、という焦燥感と、そのことを考える余裕もなく失敗で頭がいっぱいになってしまう、まさにもんじゃ焼きのようにぐちゃぐちゃな状態は身に覚えがありすぎて、絶望感にとらわれてしまった。
円柱になれたらいいね洗練された家電がやがてそうなるように/平岡直子
体ってそこら中に凸凹があって、それらが身体嫌悪の原因になっている。だから、つるつるになって、幾何学的物体になりたい。でもこの歌は「なれたらいいね」という少し突き放したような言い方になっている。ドライな、それでも突き放しきらない距離のとり方が心地いい。それがまさに洗練された家電みたいで。ルームシアターとか掃除機とか扇風機以外に何の家電があるだろう。
暴力から生まれた暴力太郎から生まれた暴力太郎太郎、あたしは/山中千瀬
文字通りの暴力性のことかもしれないし、性行為の暴力性のことかもしれない。暴力が暴力となり、暴力へと連なっていく。ミトコンドリア・イブもまた暴力である、というのは絶望で、それが御伽噺であるように祈っているようにも思えた。
涅槃図をみにゆくみにゆかなくてよいものをみに 酔客のごとくに/正岡豊
ぐにゃぐにゃした韻律が酔客の足取りのようで面白い。コナトゥス、恒常性は、実は死ベースなのではないか、という文章を読んだことがあって、酔っ払って本音が出た結果が涅槃図を見に行くことなら、死ぬこと、死後へいく、というのが願望なのかもしれないな、と思う。