親父と俺(8)決して忘れないこと
ここまで7回書いてきて、こう思う人がいるんじゃないだろうか。
かみぽこさんは、ちょっと挙動不審のがり勉タイプのおぼっちゃま。まあ、どの学校にも1人か2人いたタイプ(笑)。
そうだったんですよね。それは否定しない。ただ、俺の場合は、親父に
「体育会系養成ギプス」
のようなものを無理やりはめられて、強制的に矯正されたようなもんだ(笑)。
まあ、大洲のような田舎においては、「おぼっちゃま」のような存在だったのは否定できない。両親が学校の先生で、品のいい家の育ちであることは間違いないのだ。
ただ、俺の場合は、子どものころから、絶対にひとときたりとも忘れないことが一つある。
それは、、自分がちょっとええとこのおぼっちゃんだとしても、親父とお袋さんは、決してそうではなかったということだ。
私は、少し気にしてるところがあった。自分はおぼっちゃまでも、「大洲の街の子」ではないということを。そう周りに思われてないということを。
親父は、山の上の村の出身だった。お袋さんは、海の村の出身だった。街で、「上久保さんは大洲の人じゃない」というのを、聞いたことがあった。親父やお袋さんも、そういう会話をしたことがあった。どちらかといえば、お袋さんがそういうことを気にしていたと思う。親父は、まあそんなことには頓着しない、無邪気なところがあったかな。お袋さんがそういうことを言うと、親父は「つまらんことを言うな!」と一喝していたなあ。
お袋さんから話をすると、海の村から大洲にきた。ただし、生まれは神戸。
お袋さんは、苦労人なのだが、どこか品があって、教養人。趣味も多彩で書道は師範。神戸生まれだからかなあと思うところがある。
村から出て外洋航路の船乗りになったおじいさん。戦前はハイカラな仕事だったらしい。神戸におばあさんと、5人姉弟ですんでいたのだが、戦争で仕事がなくなった。一家は村に戻り、おじいさんは酒量が増えた。夢破れたということだろう。病気になり、戦後まもなく46歳の若さで亡くなる。
それからは、おばあさんが養鶏業で子ども5人を育てる。養鶏業は、大量の鶏をケージに入れて、毎日、卵を集めて農協に持って行ってお金に換える。
毎日、毎日がんばって、子どもたちを大学に行かせた。末っ子のおじさんは、大学を出てエンジニアになった。
今じゃ~機械の~♪ 世の中で~♪
おまけに僕は~♪ エンジニア♪
苦労、苦労で♪ 死んでった~♪
かあちゃーん!観てくれ、この姿♪
ヨイトマケの唱、そのものの生活だったわけだ。
お袋さんは三女だが、大学の教育学部を出て小学校の先生となった。
次女、三女(お袋さん)、四女と大学を出て、学校の先生になった。
働きに働いたおばあさんは、典型的な戦後の母だった。
そして、その母の苦労に報いようと、自らも苦労したお袋さんがいた。
親父は、4年生の大学を出ていない。そこから、校長にまでなった人だった。
親父は、山の村の農家の生まれ。なんと9人兄弟の次男だった。おじいさんは厳しい人で、「次男に学問はいらん。大学にはいかせない」と親父は言われていた。
親父は山からでて、大洲市内に下宿して、私と同じ「大洲高校」に通った。大学には行けないので受験勉強はしていなかったが、優秀だったのだろう。
村会議員がおじいさんを説得した。「大学に行かせてやれ」と。それで、急遽受験することになったのが「神戸大」。まだ、大学に行く人が少なかった時代だ。受験勉強もしてないのに、急遽受験するのが神戸大なのだから、よほど頭がよかったんだろうと思う。
しかし、そう甘いものではない。あえなく不合格。親父は浪人することになった。
ところが、浪人中、村会議員が今度は「代用教員になれ」と言ってきた。村会議員さん、よほど目をかけていたんだろうね。昔は、田舎にはそういう人がいて、お金のない家の賢い子などを何とか面倒みて、一人前にしようとするところがあった。
それで、代用教員になった。そして、正式に教員免許を取るために、玉川大学の通信課程で学ぶことになった。
華やかな、楽しいキャンパスライフなどない。一方、正規の学生以上に、課題を毎月出し続けることでしか、単位は取れないし、教員免許も取れない。
後年、教頭試験の時、その論文審査の時、親父の教育理論の深さに驚嘆した試験官が聞いた。どうしてこんなにすごい理論を作り上げたのかと。親父の答えは「通信課程だからです」。
ごまかしの利かない環境で、ひたすら課題を出し続けたから、大学に普通に行くよりよかったというのだ。
正式に教員になってからも、その姿勢は変わらない。昼間は子どもたちに真剣に向き合い、夜は書物をあさって、教育論を極めた。
あ、野球は観てましたけどね(笑)。
俺は小学校のころ、親父に無邪気に聞いたことがある。「どこの大学出たん?」って。はっきり覚えている。親父は無言。何も答えなかった。
いろいろ思うところがあったのだろう。どんなに努力しても、大卒が優先されることもあった。苦労があったと思う。
俺は、親父から学んだのだ。学歴など重要じゃない。本当の努力をし続けること、実力をつけること。それが何より大事なことだと。
だから、今でも俺は、高学歴とか、権威があるからとか、だからなんですかという。反権威の姿勢を貫いている。不断の努力を続け、誰にも頼らない真の実力をつけることを目指している。それは、この両親をみてきたからだ。
確かに、俺はおぼっちゃま育ちかもしれない。しかし、この両親の苦労、努力を一日たりとも忘れたことはないのです。