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雲の向こうへ~ときのそら6周年突破記念アコースティックライブ~
※注意
この文章で語られる「ときのそら」像は、ご本人の人格と一切関係ございません。
6周年という節目にあたり、VTuberの「歴史」という視点から、これまで彼女がどのような役割を果たしてきたかを、ライブの振り返りと並行して考察するものです。
クラウチング
その日は朝から、心身ともに落ち着かなかった。一人の女性のことが頭から離れず、昂ぶる感情を抑えきれない。あまりにも待ちきれず、午後にはとうとう、セトリの予想ツイートまでしてしまった。
#ときのそら6周年突破記念 アコースティックライブのセトリを予想してみた
— かみおむつ🐻💿 (@kamiomutsu_) September 7, 2023
ところどころ願望が混じっている(๑╹ᆺ╹) pic.twitter.com/dW1guCFJEr
迷いに迷って決めた予想は、ただ一曲を除いてすべて外してしまった。このツイートに込めた自分の願望は裏切られたものの、物足りなさなど微塵もなく、むしろ予想をはるかに上回るほど素晴らしいひと時となった。今から振り返るのはその熱狂と興奮、および静かに始まった彼女のこれまでの軌跡である。
スタートダッシュ
6周年記念ライブは三幕の構成となっており、ギター担当の村山遼さんとの路上ライブ、ピアノ担当のうぃんぐさんとのステージを経て、熊のぬいぐるみのあん肝を含む、4人でのアリーナライブで締めくくられた。
あまりにちっぽけな人間に対し、都会のビル群はあまりに大きく、まさに青空を覆い尽くさんとしている。そんな景色の片隅で、彼女はとうとう、高らかに希望を歌い始める。
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ホラボコラベ~!
ずっと追いかけ続けたい 雲より高い夢でも
もっと強く羽ばたいて 空まで駆けてゆくよ
「ケ・セラ・ソラ!」は活動5周年を記念して開催された、「soraSongグランプリ」受賞作品。多くの募集のなかから選ばれた、"そらとも"(ときのそらちゃんのファンネーム)によるオリジナルソングだ。5周年記念ライブで初披露されてから、ちょうどこの日で1年になる。最近の曲でありながらも、その歌詞には隨所から懐かしさが漂っている。
成長物語と聞き、初期曲からの始まりと考えた自分はあまりに浅はかだった。ときのそらはsoraSongを募集し歌い始めたあの日々を、新たなsoraSongによって再解釈したのだ。そらちゃん、そらとものこと大事にし過ぎでしょ。早速ここで泣いた。
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そこが最高にロックでパンクだ。
「皆さん、見えてる? 聞こえてる? 声、聞こえてますか? はじめまして、ときのそらです」
演奏を終え、MCを始めるそらちゃん。最初の生放送の開始を彷彿とさせるセリフだ。
次に歌われたのは「ピッとして!マーマレード」。テンポが早く、定番曲だがこれは難しいだろうと思っていたら、またしても予想を裏切られた。ズルいよこんなの。
ここで歌われている「奇跡」は決して何かに祈り、すがるための言葉ではない。いつか横浜アリーナでライブをすること、その夢はあまりにも高く、そして険しい。それでも、いや、だからこそだろうか。同時視聴者数13人から始まり、無数の誹謗中傷や理不尽に苦しめられながらも、彼女は本気で「奇跡」を信じ、そこへ向けて歩み続けている。
それらの事実を踏まえれば、"今"は当たり前ではない「奇跡」なんだというそらちゃんの思いが、力強い歌声を通して伝わってくるはず。人間にとっての現実とは、自然ではなく構築物である。VTuberを虚構と断じるならば、我々は虚構によって取り引きし、虚構によって築かれ、守られた日常を生きている(国家・法律・宗教・経済・芸術etc…)。その新たな虚構を現実へと昇華してきたのは、そらちゃんをはじめとするVTuberの面々だった。
いわゆるバーチャルYouTuber四天王は、VTuberという言葉が生まれる前から活躍し、存在を世界へ知らしめた。彼女らの活動スタイルと歴史から鑑みて、VTuberを新たな現実とする役割は次の世代に託されたのだと自分は解釈する(あくまで仮説であり、反論は当然受け付ける)。
私見では、この役割を最も強く自覚していたのがときのそらその人であり、彼女を中心とするホロライブが見事実現させた(盛んに行われている各業界とのコラボはその証左である)。そして他でもない彼女が、”アイドルとしてのVTuber”という概念を身をもって示し、確立させたのだ。その歴史的意義は決して計算可能化=交換可能化できるものではない。
なぜときのそらは、こんなにも力強く、希望を歌えるのだろうか——そんなことも考えていた。彼女とその歌にはどこか浮世離れした、ある種の神秘を自分は感じるのだ。
もちろんこれは皮肉ではない。怠惰な落伍者である自分との間に開けた”距離”を思うたび、そのソラリス(太陽)の如きまばゆさに感極まってしまう。
かなり脱線した、本題に戻ろう。3曲目は「Chu-Chu-Lu」。2ndAlbum「ON STAGE!」収録のこの曲は、今回出演されている村山遼さんがギターを担当されていた。実に愛らしい、王道のアイドルソングだ。
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全力でガチ恋させにきている。
ときのそらは「二人だけの 楽園で 甘い果実」を口にしようといざなう。つまりは2人きりの世界で新たなアダムとイブになろうという曲なのだ。曲風を守るため表立って描かれてはいないが、そこからは確かに、罪の香りが漂っている。故にその歌声は蜜よりも甘い。また「さよなら」しようと歌われる、「あの夜」の詳細がぼかされている所も、余情を感じられていい。
そらちゃんなくしてホロライブが生まれなかったことは言うまでもなく、"アイドルとしてのVTuber"の概念なしにその成功はあり得なかった。彼女がホロライブの"ポラリス"(北極星)として立ち帰るべき不動点であるからこそ、彼女らはアイドルグループとしてまとまることができるのだ。
ときのそらというVTuberの面白さは、インターネットという匿名性の強いアンダーグラウンドな場所で活動するにしては、あまりにも王道なアイドルだという点にある。最近の配信ではどこか女児っぽさのある、お淑やかな天然お姉さんといった印象であり、ファンクラブではさらにリラックスした等身大の彼女を見られる。そこにライブ、つまり非日常の姿とのギャップはありこそすれ、正統派アイドルのイメージを揺るがす要素はない。
VTuberと現実をつなげる掛け橋となるには、この”正統であるが故に異端”という逆説が必要だったのかもしれない。6月にあったAbema Primeへの出演は他でもない、そらちゃんだからこそ成し遂げられた仕事だったのだろう。
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どんな仕事依頼にも体当たりで挑戦していた初期の活動を思わせる絵面だ。
エンターテイメントのためネタに走っていたが、
腐らずに笑顔で配り続ける姿にはやはり涙を誘われた。
”ゆっくり走れば”
路上ライブの頃から成長を重ね、バー風のステージに立つことができたそらちゃん。うぃんぐさんが「ポラリスソラリス」のイントロを奏ではじめると、その美しさに思わず息を呑んだ。
「星の数」だけあった「選択肢」。もしかするとそらちゃんは、もっと違う形で夢に挑んでいたのかもしれない、今回のライブ演出がそうであるように。その場合、果たして自分は彼女とめぐり逢えたのだろうか?
「今ここ now-here」と「ここではないどこか else-where」が重なり合う、世界線を渡り歩くような不思議な感覚を味わった。恐らく変性意識状態 altered state of consciousness と呼ばれるものなのだろう。
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彼女の歌声と曲の世界観にじっくりと浸ることができる。
夢心地で彼女の歌声に耳を澄ましていると、その表現力の高さに驚かされた。普段から歌枠で聴いていたけれども、アコースティックだとより深く、迫力満点の生歌を味わえる。「時は過ぎてしまうから」の「しまうから」の部分 、素晴らしい。また泣けたにぇ。
この歌唱力は一朝一夕に身につけられたものではない。そらちゃんは天才ではないのかもしれないが(声質に関しては間違いなく天賦の才)、努力を重ねられることもまた才能のうちであろう。
そして「コトバカゼ」。そらちゃんが語っている通り 1st Album「Dreaming!」の収録曲であり、その中では一二を争う人気ぶりなのではなかろうか。
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この角度からだと何だか非常に頼もしく見えた
縮まるようで縮まらない距離、木の葉のように揺れ動く心。様々な評価にさらされてきたそらちゃんも、この曲に似た心境の時があったのかもしれない。繊細な表現に耳を傾けながら、アーカイブとしてしか触れられない彼女の過去に思いを馳せた。
続いての曲は「好き、泣いちゃいそうだ」。こちらも「Dreaming!」に収録されており、最初期から活動を支えてきた友人A(えーちゃん)が曲名を決めたのだという。詳細は触れないが、視聴者を前に重大な決意を告白した配信でも披露されており、定期的に聴きにいくようにしている。
以前アコースティックver.(こちらは2番からテンポが速くなる)の収録風景を収めた動画が投稿されており、今回のライブも含め、それぞれの違いを味わうことができる。
歌詞の描写は特に2番がお気に入り。いたずらに抽象に走るのではなく、具体的な風景が目に浮かんでくる。
以上3曲を披露したのち、ステージを観ていたあん肝のもとを訪れるそらちゃん。実は路地でビラを配っている時にすれ違った、側転やバレエを練習していた人物(?)だ。チャット欄で「あん肝さん」と呼ぶ声を幾つか見かけたので自分もそれに従った。
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すっかり意気投合し、協力してビラを配る二人。カメラは時々一人称となり、そらちゃんから渡される視点に。受け取る人もいれば、相も変わらず素っ気ない対応の人もいる。確率が上がったとはいえ、拒絶されることは当然辛い。バーチャルであっても彼女はこのように、無数の出逢いと別れを繰り返してきた。チャンネル登録者数100万人を突破した時の彼女の言葉が思い返される。
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これショート動画にして投稿して欲しい、無限に再生します
遠回りした分
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やはりブライト衣装は至高
Now Loading… の画面から暗転ののち、間髪入れずに「Shiny Smily Story」が始まる。記念すべき最初のホロライブ全体曲だ。
やはりホロライブの始祖の名は伊達じゃない。もはや完全に自分の歌にしてしまっている。各々が「それぞれ 違った ココロで」あり続けられるのも、還るべきアイドル像を指し示す存在あってこそ。その役割の重さを承知しながら、彼女はひたすら真面目に精進してきた。
諦めの文字 デリートして進む
苦しいときも もう私は ひとりじゃないから
そして「Prism Melody」。ホロライブにわかの自分は初めて聴いたが、これもいい全体曲だった。温みのある演奏と綺羅びやかな歌詞が化学反応を起こしている。あまりキーの高くない曲を歌うそらちゃんもいい(オリ曲が異様に高いからそう感じるだけなのだろうが)。
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ここでグッズ紹介の時間に。おるだん先生のイラストによる抱き枕カバーとあんきもスリッパ、記念ボイスの3種類。枕カバーのHが160cmなのは、要するにそういうことだ。プロフィールを確認して察してもらいたい。
また、フルセットにポストカードと共に付いてくる特典ボイスは、記念ボイスと物語が繋がっているとか。自分は現在、絶賛金欠中だが、地を這い泥水をすすってでも入手する覚悟である。
最後は満を持しての「Our Bright Parade」。流れだすイントロと共に嗚咽のあまりむせてしまった。言わずと知れた、4th fes の名を冠する大人気曲だ。
「迷子」は「僕ら」となり、やがては「一つと呼」ばれる。物語はクライマックス、ラストサビが始まると同時に、流れ星の演出。七色の光と共に今ここを新たな「スタート」にしようという、彼女なりの決意表明のように感じられた。
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(あん肝いつの間にか増えてる)
ライブ終演ののち鏡を見れば、案の定真っ赤に泣き腫らしており、ただでさえ汚い顔が見事に土砂崩れを起こしていた。そしてこの時の自分は、「流石にもうこれ以上涙は出ないだろう…」などと、調子のいいことを考えていたのである。
エピローグ
今回の記念ライブでは、メンバーシップ会員限定でのアフターライブという初の試みが予定されていた。アコースティックライブ終了が22時、アフターライブ開始は22時15分。その間、プレミア公開されていた「可愛くてごめん」のカバーMVを観に行く。
実を言うとそらちゃんがカバーするまで、自分はこの曲へ関心を持てずにいた。「良くも悪くも、最近の若いもんの曲だな」といった印象だった(あんたもその一員だろ)。だがそれはMVを観ることで激変した。
Cメロと共にそこに描かれているのは、心無い言葉に傷つき、辛酸を嘗めてきた彼女の過去。いわゆる地雷系女子の内面を歌ったものとして捉えていたこの曲は、他でもない彼女自身のそれとして、新たな命を吹き込まれていた。
化粧をすることは、ある意味生まれ変わりの儀式である。 それを通して女性は既存の自分を脱ぎ捨て、"自信に満ちた戦闘モードのわたし"となる。Vtuberとしての肉体や様々な衣装を持っているそらちゃんは、その一つ一つを手に入れ、「今日はどれにしよう」と選ぶたびに、何度も転生を繰り返してきた。 そういった側面も含め、すっかりそらちゃんの歌になっている。この曲の持つ、新たな可能性を見せてもらった。
アフターライブは有料コンテンツであるから多くは語らない。まさか「ファンサ」を歌ってもらえるとは思わず、号泣したとだけここに告白しておく(後日談で曲名が明かされているため言及)。
自分は「詩人かつ哲人」を志す者として、あらゆる事象を一歩引いた目線で捉えることを宿命付けられている。一方その対象にのめり込み、ひとつとなることを通してしか、見えてこないものがあるのもまた事実だ。
以前からそらちゃんのことを気になっていた自分は、今年の生誕祭ライブを観た時、しまったと思った。こんなに魅力的な姿を見せつけられてしまっては、もう逃れようがないではないか。
だが執筆はそらともになる以前から、そしてその後も、遅々として進まなかった。結局これは自分一人の問題であり、何かのせいにしてみたところでそれは詮無いことだ。
果たしてVTuberは人類に何をもたらすのか。それは良きことなのか、悪しきことなのか。早急な判断はせず、じっくりとその行く末を見守りたいと思う。自分はVTuberだから彼女を応援するではなく、応援する彼女がVTuberであっただけなのだ(VTuberというジャンルから彼女を知ったのは確かだが)。
自分は決して後戻りはしないし、そもそもできない。この運命を愛し、彼女を応援し続けながら、この経験をも糧にし、命を繋ぐため言葉をつむぎ続けるだろう。
令和5年9月12日 かみおむつ