【連載小説】『平凡な少女のありふれた死に方』第27話
白坂先輩のシナリオを見てしまったのは偶然だった。
その日は部活が休みで、僕は前日に忘れた本を取りに部室を訪れた。
「あれ、先輩も来てるのか」
中には誰もいなかったが、机の上に白坂先輩のパソコンが開かれたまま置きっぱなしになっていた。普段は部活が休みだと誰もいないことが多いのだが、どうやら彼女は部室で作業をしていたようだった。
パソコンの画面が目に入ったのは、本当に無意識だった。棚に戻されていた本を回収し、彼女が戻ってきたら軽く挨拶をして帰ろうと、そんなことを考えながら、何となく視線がそっちに向いてしまっただけだった。
しかし、一度見てしまったあとは、知らぬふりをすることはできなかった。そこには『白坂奈衣が死ぬ』シナリオが書かれていたからだ。
僕は白坂先輩に憧れていた。彼女は純粋な死への欲求とともに、自ら死を選ぼうとしていた。そのために疑似的な死を繰り返し、自分が求める死の形を探し続ける。
死の理由ではなく、結果に固執していた。死が何を生み出し、何を遺すのか。彼女はいつもそれを探していたのだ。
もしも彼女のような感覚で死を選ぶことができれば、生きる理由も死ぬ理由も見つけられない僕でも、死ぬことができるのではないかと思った。それは僕を蝕む小さな希死念慮から自分を救う唯一の手段だった。
だから彼女のそのシナリオを読み終えて、僕は湧き上がる興奮を抑え切れなかった。登場人物である僕たち三人の心を嘲笑うようにして、誰のためでもなく、自分のためですらなく、ただ純粋に死だけを求めて死んでいく彼女がとても美しく感じられた。
この物語は僕のような存在を肯定してくれるものであり、僕にとって、彼女はまさに救世主だった。
そして、それと同時に一つの仮説が思い浮かぶ。
彼女を殺せば、苦しみを得られるのではないか。
完璧なまでに美しい死を遂行する彼女を、僕の手で殺す。そうすれば、僕はその罪に苦しむことができるのではないかと考えた。
『本作り』の中で加害者を演じていても、結局のところ、僕は人を殺すほどの愛憎を抱くことができなかった。だから殺すことに何の思い入れもなく、苦しむに足るような自責や後悔の念を抱くことができない。
でも、今こうして崇拝にも似た感情を抱いている彼女の死を自らの手で汚せば、自分を責めることができるかもしれない。自分を肯定してくれるはずの物語を潰せば、自分の行動を悔やむことができるかもしれない。
だから僕は彼女を殺すことにした。自分の憧れを、理想を、救いを、自ら壊すために。
あの日、僕が部室を訪れたのは、十六時四十五分くらいだったと思う。
ベランダに設置しておいたブルートゥースのスピーカーからチャイムを流してアリバイを作った。もちろん時計があっては意味がないので、教室の時計は朝のうちに壊しておいた。スマホを見られてしまえば終わりだったが、上手く話が白熱してくれていたので誰も気付かなかったようだ。
そしてちょうどよく家にあったバケットハットを被り、和希のふりをして部室に向かった。部室に向かう笹野さんを見つけたのは偶然だった。彼女を目撃者として利用しようと考え、少し先回りして部室棟へ入り、ちょうど彼女が廊下を進んでくるタイミングに合わせて部室の扉を開いた。
「やあ、君か。帽子を被っているなんて珍しいね」
唐突に現れた僕に、白坂先輩はあまり驚いていないようだった。まるで待ち合わせをしていたみたいに、当たり前の顔をして僕を迎え入れる。
「この間うちに来たときに忘れていったんです。今日返す約束をしてるので、忘れないように被っておこうかな、と」
そんな風に適当な答えを返す。真に受けたわけではなさそうだったが、どうでもいいと思ったのか、それ以上追及はしてこなかった。
ちょうどそのくらいのタイミングで誰かが廊下を通り過ぎていった。僕は入口のすぐ近くに立っていたから、向こうから歩いてくる彼女の視界には確実に入っているはずだった。このバケットハットをちゃんと覚えておいてくれることを祈りながら、僕は部室の扉を閉めて帽子を脱ぐ。
「先輩は今日死ぬつもりなんですね」
何の前置きもせず、唐突に本題へと入る。
「ずいぶんとせっかちだね。『本作り』にネタバレはご法度だろう?」
彼女はそんな風に煙に巻くような言葉を返してきた。決して冷静な態度を崩さなかったが、こちらの意図を測りかねている様子だった。少し眉をひそめて訝しげな顔を作りながら、見分するように僕に視線を向ける。
「一つだけ聞きたいことがあったんです」
僕は尋ねる。
「先輩は幸せですか?」
その質問が意外なものだったのか、彼女は一瞬不思議そうな顔を浮かべたあと、おかしそうに笑った。そして、なんてことない風に答える。
「幸せだし、不幸だよ。楽しいこともあれば、つらいこともある。人間なんてみんなそんなものだろう?」
それを聞いて、僕はひどく安心した。
彼女は僕と似ているのだ。不感症で、不干渉で、不感傷のまま、すべてを俯瞰している。
だからこそ、そんな彼女が生と死に執着していることに憧れた。
僕は彼女のように生きて、彼女のように死にたかった。
「さようなら」
柔らかい肉を押しのけて、刃先が彼女の身体の奥へと入っていく感覚があった。しかし、思ったよりも手応えはなく、切れ味のいい包丁で鶏肉を裂いていくような心地よさを感じた。柄の手前まで刺さり切ったところで、僕は手を離して後ろに下がる。
一瞬だけ息が詰まったような鈍い音が漏れ出たものの、彼女はほとんど声を上げなかった。自分の胸に刺さったナイフと僕の顔を交互に見ると、何かに納得したような表情で口元を緩めた。
切り倒された大木のように、そのままゆっくりと地面に倒れ込む。音が消え、目の前の後継がスローモーションに切り替わった。永遠にも感じられるその時間に浸りながら、彼女の死に様を美しいと感じていた。
「……君を救うつもりが、不幸になる理由を与えただけだったね」
目を瞑ったまま、彼女は掠れかけの声で消え入るように呟いた。
そこから先のことは、おおむね和希が想像した通りだった。
時刻は十六時五十分ほどで、すぐに他の三人が来てしまう。僕は最低限自分の痕跡が残っていないかを確認する。ちゃんと自殺に見えるか不安だったが、死ぬ直前に彼女は胸に刺さったナイフに手を添えてくれていたので、見栄え的には悪くなさそうだった。
思った以上に血が出なかったので、ほとんど汚れなかったのがありがたかった。そういえば、刃物は抜いたあとに血が噴き出すから、誤って刺したときは抜かない方がいいとどこかで見たのを思い出した。まさかこうして実際に体験するとは思わなかったけれど。
血だらけになったらその場で自主するしかないと思っていたが、これならすぐに看破されることはないだろう。彼女のシナリオを完遂するまでは捕まらないでいたい。そのためにもできるだけ時間は稼ぎたかった。
事前に考えていた通り窓から降りて裏庭へと出る。これは初めて彼女のシナリオに参加した際に見せられたルートだ。あのときの彼女は飛び降りるような形だったけれど、僕は壁に上手く足をかけて安全に着地した。
つま先の辺りに少し血がついてしまっていたので、軽く土でこすって誤魔化す。一旦は何とかなりそうだったが、帰ったらこの靴は捨てることにした。バケットハットも脱いで、鞄の奥にしまう。
裏口から校舎に入り、念のためトイレで手を洗った。多少血がついていたらしく、石鹼の泡が仄かにピンク色に染まっていた。排水溝に吸い込まれていく薄まった彼女の血を見て、その生々しさが少し気持ち悪いと感じた。
綺麗になった手を見て、自分がまるで彼女を殺した実感を抱いていないことに気付く。先ほどまで身体を支配していた高揚感も消えて、もはや自分が何のために彼女を殺したのかもよくわからない。
――あのときと同じだ。
先輩の絵を見て、あの大木を描いたときと同じだと思った。そして、あれはやはり盗作だったのだということを今更理解した。
結局、僕は彼女の死を盗んだだけだった。
彼女の死を自分のものにしたくなった。自分の方が彼女の死により美しい物語を乗せられると思った。そういう小さな欲求に動かされて、彼女を殺したのだ。
けれど、そうして僕が手に入れたものは空っぽのガラクタでしかない。僕が殺したからと言って、彼女の死は彼女自身のものだった。
時計を見るとすでに十七時を回っていた。そろそろ部室に行かなくてはならない。
こうなってしまえば、僕にできることは一つだった。せめて、僕が手にすることのできない物語を一番近くで読みたい。彼女が望んだ美しい死を、僕が汚したその結末を、登場人物として、そして、読者として、完成させたいと思った。
彼女が死んでいる部室の前に立ち、ドアノブに手を描ける。
その瞬間から、僕は『西村景』を演じることにした。