【連載小説】『平凡な少女のありふれた死に方』第23話
その日もやはり友利先輩は僕よりも先に部室にやってきていた。そういえば、彼が集合時間に遅れているのを見たことがない。いつも洒脱な空気を漂わせていて、何かに追い立てられているような姿が想像できなかった。
「高野部長に会って、色々話を聞きました。白坂先輩のお姉さんについて」
僕がそう告げると、彼はわざとらしく身体をのけぞるようにして天井を仰いだ。
「そうですか。決して隠していたわけではないですが、あまり気持ちのいい話ではないですからね」
どうしても語りたくないのか、ここまで来てもまだはぐらかそうとしている様子だった。つまりは予想していた通り、そこに彼の核心が隠されているということだろう。そして、それは白坂先輩の死にも繋がっているはずだ。
「僕は白坂先輩の死を解き明かさなければいけないんです。それが僕に割り当てられた『西村景』という役であり、彼女が望んでいることでもある」
彼はじっと僕の顔を見つめた。こちらを品定めし、真意を探っているような、それでいて自分がどうすべきかを迷っているような表情だった。
「あなたもこのシナリオの参加者でしょう? 逃げようとしたって、キャスト一覧からあなたの名前が消えることはない。それを書き換える人は、もういなくなってしまっているんですから」
そう言って、そっと白坂先輩が遺したシナリオを彼の前に差し出す。それを黙って持ち上げると、彼は何かを諦めたような、ひどく虚しさに満ちた顔で笑った。
「……昔から何でもできてしまうタイプだったんだ」
ぽつぽつと語り始めた彼は、突然雰囲気が変わっていた。先ほどまで恭しい敬語だった口調は普通になって、張り付いたようなわざとらしい笑みも消えている。きっとこれが本来の彼の姿で、ついに演じ続けていた役を降りることにしたのだろう。
この『友利成弥』という人とは初めて会うはずなのに、不思議と今までで一番親しみを覚えていた。ずっと奥底に彼の存在を感じていて、探していた人に会うことができたような感動があった。
「だから何かに思い悩んだりすることもなかった。自分のことは好きでも嫌いでもなかったし、そういうことを考えようという発想すら湧かなかった。ただ毎日を楽しく過ごせればよくて、おおむねそれを達成できている人生だった」
まるで嫌味のような言葉だったが、そういった意図がないのはわかった。あくまで事実を伝えるためだけの淡々とした語り口で彼は話を続ける。
「人の気持ちを考えることも苦手だった。というより、必要がなかった。相手とのコミュニケーションを円滑にするための技術みたいなものは、感覚的に掴めていたから、わざわざ考えようなんて思わなかった。相手のことを考えなくても、シチュエーションを紐解けば、どう行動すればいいかは明確なんだ。結果的に相手を思いやったような行動だとしても、そこに相手への想像力は皆無だった」
自分が思いやられたいと思うからこそ、相手を思いやる気持ちが生まれる。そんな当たり前のことに、僕はこのとき初めて気付かされた。自分に興味がない人間は、他人にも興味が持つことができない。
「そんな風に生きてきた僕にとって、あの人はフィクションの世界に生きているみたいに見えた。いつも自分のことと世界のことばかり気にして、幸せについて考えすぎて幸せがわからなくなって、生きづらさを何とか紛らわすために小説を書く。色んな歯車同士がお互いをせき止めるように噛み合って、身動きが取れなくなってしまっている感じだった」
友利先輩と玲衣さんは部活の先輩後輩として出会い、徐々にその仲を深めていった。最初は玲衣さんの方が、彼の自分にはない前向きさに惹かれていったらしい。そうしていつの間にか、ただの先輩後輩から恋人へと関係性が変わっていた。
ちょうど二人が出会ったのは、玲衣さんが二作目の制作に難航している頃だった。創作に苦しみ続ける日々の中で、友利先輩の明るさに救われる部分があったのだと思う。
しかし、彼女の生みの苦しみが大きくなっていくにつれて、二人の間の温度差は許容できないほどのものに変化していく。
「奈衣が新人賞を取ったのはそんなときだった。あの人は妹が自分を追い越されることを恐れ、そんな風に身内の成功を素直に喜べない自分を責め、いつまでも作品を完成させられない自分の才能の無さに絶望し、それまで以上に塞ぎ込むようになってしまった」
ひどく繊細な人だったのだろう。だからこそ、普通なら諦めて手放してしまうような感情まで拾い上げて、必要以上に傷ついてしまっていた。息をすることすらままならなくなるほどに。
「でも僕には彼女の苦しみが理解できなかった。だから励ますつもりで言ったんだ。そんなに死にそうな顔して必死にならなくても、僕たちはまだ高校生で、未来がある。焦らず少しずつやっていけばいい、って」
それはどうしようもなく綺麗事で、彼女が一番言われたくないことだった。
「そうしたら彼女は苛立った様子で、まるで自分に言い聞かせるように言った」
――今書けない人間は、十年経っても二十年経っても書けない。そして、一度書き始めてしまったら、書き続けなければ一生心にしこりを抱えたまま生きることになる。私は何としても、書き続けられる人間になりたい。そうじゃなくちゃ、生きる意味がない。
それは玲衣さんが抱え続けている呪いだったのだろう。自分が自分にかけた呪い。それに蝕まれ続けるしかない人生だったのだ。だから彼女は苦しみ続けていた。
「自分には本当に彼女のことが理解できないのだとわかった。彼女のように命を懸けて何かに取り組むということがなかったから、そんなにも苦しんでまで小説を書く意味がわからなかった。自ら望んで不幸に落ちていっているようにしか見えなかったんだ」
全く自分にはない価値観を持っていたからこそ、玲衣さんは友利先輩に惹かれたのだと思うし、最終的にそのことが彼女を残酷なまでに傷つけることとなった。
「それから何となく彼女と距離を置くようになった。恋人と別れてしまうことへの悲しさはあったけれど、じゃあどうして彼女と付き合っていたのかと聞かれたら、たぶん僕は答えられない。だからそれで終わっていればよかった」
彼は相変わらず他人事のように淡々とした口調を変えない。
「しばらくして、彼女が数週間ぶりに部室へやってきた。目元には真っ黒い隈がべったり付いていて、顔色も明らかに体調が悪そうな土気色をしていた。それなのに見たことないほど元気そうな笑顔で、ようやく良いものが書けたと嬉しそうに語っていたよ」
「でも、その小説は没になったんですね」
すでに部長から聞いていた結末を先取りして言った。
「そう。それはもう凄まじい落ち込みようだった。それこそすぐに死んでしまってもおかしくないほどに。そんな彼女に対して、僕はなんて言ったと思う?」
その質問は僕に答えを求めるものではなかった。僕は何も答えず、彼はそのまま続ける。
「『次がんばればいい』って、そう言ったんだ。そして、次の日に彼女は自ら命を絶った」
一体どれほど彼女を傷つける言葉だったのか、僕にもわからなかった。もしかしたら、彼が言った「次」という言葉に、これまで続けてきたすべてを否定されたように感じたのかもしれないと思った。ただ、どんな言葉だったら彼女を救うことができたのかもわからない。
「僕はずっとそうだった。それらしい言葉を発することができても、そこには実感がこもっていない。そういう適当な言葉というのは、偽りなく生きている人の心を傷つけてしまう」
彼はそれを悔やんでいるというよりも、どうしようもないと諦めていた。
「そんな僕を奈衣は責めなかった。姉を救うことができたはずなのに、むしろ死への後押しをしたような人間に対し、何事もなかったかのように接した。そしてそのときから彼女は自分を殺すシナリオを書き始めた」
白坂先輩は玲衣さんのことをとても慕っていたのだという。そもそも彼女が小説を書いたのも、文演部に入部したのも、すべて姉の後を追いかけた結果だった。それが逆に姉を死へと追いやることになったというのはひどい皮肉だった。
どうやら友利先輩は、白坂先輩が自分のことを恨んでいたのだと思っていたようだった。決してそれを表には出さなかったが、彼女が書き続けていたシナリオは、すべて姉の死を忘れさせないための復讐だと受け止めていた。
「奈衣のことも僕が殺したようなものなんだ」
枯葉投げやりな言い方で呟く。
「創作に命を懸ける意味が分からなかった僕に、創作の中で死んでいくことこそが、彼女なりの当てつけだったんだと思う。彼女の死は、僕への復讐だった」
すべてを聞き終えて、ようやく『白坂奈衣』の死の全体像が見えてきたように感じた。そして、やはりこの物語は彼女自身のもので、僕たちはあくまでも傍観者でしかない。
住野さんも、和希も、友利先輩も、もちろん僕も。彼女に侵されてしまっているせいで、その死を自分事にしたがっているだけだった。
「白坂先輩が死んだのは、先輩のせいじゃありません」
それは慰めの言葉ではなく、むしろ判決を言い渡すような気分だった。
「僕たちは何ら彼女の死に関与していない。彼女は自分の意志で、自分のために、自分から死んでいったんです」
唐突に語気を強めた僕に驚いた様子だったが、一瞬間をおいて納得した表情に変わった。きっと彼もまた、心のどこかで同じようなことを感じていたのだろう。でもそれを見ないようにして、自分で刺した偽物のナイフを大事に握っていた。
「……結局僕は、玲衣さんの死も奈衣の死も、素直に悲しむことさえできていなかったんだね」
遠い目をして笑う彼に、僕は初めて親近感を覚えた。
「最後に聞いてもいいですか?」
これまでの話で解決しなかったことが一つだけ残っていた。それは彼自身の口から聞かなければわからないことで、僕はどうしてもそれが気になってしまった。
「どうして自分を捨てて、色んな役になり替わり続けようと思ったんですか?」
部長の話によれば、友利先輩は玲衣さんが死んだ後からずっと誰かを演じ続けていた。異常に思えるその行動の理由がまだ語られていない。彼に残されたその謎が明らかになれば、あとはもうこのシナリオは結末へと向かっていくだけだった。
「誰かになり続ければ、人の心がわかる気がしたんだ」
まるで遠い昔を懐古するような言い方だった。
「でも上手くいかなかった。そんなに考えなくたって、僕はそれらしく演技することができてしまう。人の心と向き合う必要がなかった」
おそらく彼はそのことを悲しんですらいなかった。悲しむことができないことに、どうしようもない虚しさを覚えているように見えた。
「器用であるなんていうのは、本当に嫌なことばかりだよ」
そんな彼を僕は少しだけ哀れに思った。