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日本男子バスケ代表・ジェイコブス晶選手 アメリカの無名の少年が日本代表に

 パリオリンピックが始まりましたが、日本男子バスケットボールの最年少代表である20歳のジェイコブス晶選手の記事が良かったので紹介します。

アメリカにいた“無名の少年”がなぜ日本代表に? 男子バスケ代表の最年少・ジェイコブス晶(20歳)とは何者か「運命を変えた母の助言」
posted2024/07/27 11:06
宮地陽子

パリオリンピック初陣が迫るバスケットボール男子日本代表。八村塁ら渡邊雄太ら実力者が揃う中で、チーム最年少の20歳でメンバー入りを掴んだのがジェイコブス晶だ。ドレッドヘアをなびかせ、恵まれた体躯を生かしたプレーでトム・ホーバスHCに猛アピール。直前の成長過程を取材してきたジャーナリスト宮地陽子氏に、ここまでの歩みを振り返ってもらった。【NumberWebノンフィクション全2回の1回目】

 運命は不思議だ。

 前に進んでいたはずが、いつの間にか曲がりくねった道に入りこんでしまうこともあれば、行き止まりだと思ったところから新たなチャンスを見つけることもある。

 パリ五輪男子バスケットボール日本代表チームの最年少選手、20歳のジェイコブス晶(ハワイ大)の運命は、この4年ほどで大きく変わり、彼も大きく成長した。

 4年前の彼はまだ、アメリカの高校にいた無名選手だった。それが、今では八村塁や渡邊雄太を擁する“史上最強”の呼び声高い日本代表のメンバーのひとり。激しい競争を勝ち抜いてロスターの座を勝ち取り、パリ五輪で世界のエリート選手たち相手に戦おうとしている。

 身長は八村と同じ203cm。体格やプレースタイルはどちらかというと渡邊に近い。サイズがありながら外からのシュート力を備えており、大会前の強化試合ではリバウンドでも光るものを見せていた。若いながらに、日本が大会ベスト8という目標を達成するためのXファクターになりそうな存在だ。

個人プレー重視の米バスケに馴染めず
 ジェイコブスはアメリカ人の父と日本人の母の間に生まれ、生後まもなく渡米すると、カリフォルニア州ロサンゼルス郊外で育った。子供のときにNBAを見てバスケットボールに夢中になった。高校に入った頃から身長も伸びたのだが、同じようなサイズの選手が多くいるアメリカでは目立たず、身体の強さも追いついていなかった。何よりも、1対1の個人プレーが多いアメリカの高校バスケットボールが性に合わなかった。

「アメリカにいたときも、チームワークの方が好きだった。でもアメリカのバスケは全然違って、チームメイトともあまり仲良くできなかった気がします」と振り返る。

 子供の頃から、NCAA1部に進学してNBA選手になりたいという夢を持っていたが、高校ジュニア(日本の高校2年)になっても、まだどの大学からも声がかかっていなかった。海外に暮らす有望な若手日本人選手の発掘を進めている日本バスケットボール協会は、彼の存在こそ知っていたものの、代表級の選手なのかどうかはわかっていなかった。

 そんなとき、世界は新型コロナウイルスで一変した。そして、ジェイコブスの運命も急展開した。

 カリフォルニア州は感染予防のための行動規制が特に厳しく、いつも使っていた体育館はすべて閉鎖され、屋外のコートも、人が集まらないようにゴールが取り外されてしまった。それまでバスケットボールをする場所に困ることはない環境だったのが、シュート練習すらできなくなってしまったのだ。

 そんな中で冬休みに日本に一時帰国したら、日本では体育館でバスケットボールをしていたのだ。

「日本にいればバスケットボールができる」

 そう思ったジェイコブスは、冬休みが終わった後も、アメリカに戻らずに日本に残ることを決断した。コロナ禍で、さらに海の反対側の日本では、いくらプレーしてもNCAAのコーチたちに見てもらえる可能性はなかったが、それでも、とにかくバスケットボールがしたかったのだ。コロナ禍でなければ考えなかった選択肢だった。

「どうせ、今はアメリカではバスケットできないし、ちょうど日本にいたし、日本でちょっと頑張ってみたら、そこからどうにかなるでしょうと思っていました」

「同じ努力を日本でも続けなさい」
 後から考えると、これが運命の分かれ目となった。ジェイコブス自身、「運命ですね」と言う。

 日本に残る決断をしたときに、母からもらったアドバイスがある。

「これまでアメリカですごく努力しても見てもらえなかったけれど、それと同じ努力を日本でも続けなさい。見てくれる人が1人でもいれば、うまくいくから」

 コロナ禍前のアメリカのように多くの人に見てもらえる環境でなくても、誰か1人に認められることで道は開けていく。誰も見ていなくても、結果が出なくても努力を続けていけば、必ずいつか実を結ぶ。そんなアドバイスだった。

 そのアドバイスに従って、どんなときでも練習に真剣に取り組んできた。そして、その姿勢がジェコブスを成長させてきた。

 祖母の家の近くでバスケットボールができる場所を探して、横浜ビー・コルセアーズのユースチームを見つけた。アメリカでは埋もれてしまっていた彼だが、日本では目立つ存在だった。長身で器用な彼はすぐに頭角を現し、1年もたたないうちに、ビー・コルセアーズのトップチームで特別指定選手となり、Bリーグの試合に出場した。17歳7カ月、当時史上最年少での出場だった。

 その後、22年8月には、NBAとFIBAが共催するバスケットボール・ウィズアウト・ボーダーズ・キャンプ・アジア2022にも参加。そこにいたコーチからの情報が伝わり、オーストラリアにあるNBAグローバルアカデミー(NBAが運営する若手育成機関)のトライアウトを受けることができた。トライアウトに合格し、その秋から1年間、世界の若手トップ選手たちが集まるNBAグローバルアカデミーに進んだ。トントン拍子だった。

 さらにU18代表、U19代表として日本代表を率いる活躍もし、その活躍によっていくつものNCAA1部の大学から声がかかるようになり、ハワイ大に進学した。本当に、運命とはわからないものだ。
(後編に続く)

アメリカにいた“無名の少年”がなぜ日本代表に? 男子バスケ代表の最年少・ジェイコブス晶(20歳)とは何者か「運命を変えた母の助言」 - バスケットボール日本代表 - Number Web - ナンバー (bunshun.jp)

「2年前、ホテルをウロウロしてた少年が…」20歳ジェイコブス晶が“飛び級”パリ五輪をつかめた理由「八村選手や渡邊選手はずっとアイドル」
posted2024/07/27 11:07
宮地陽子

パリ五輪バスケットボール男子日本代表の座を掴んだ、チーム最年少のジェイコブス晶(20歳)。ジャーナリスト宮地陽子氏に、ここまでの歩みを振り返ってもらった。【NumberWebノンフィクション全2回の1回目】

 2022年12月、ジェイコブス晶は広いホテルの中を歩き回っていた。

 当時、オーストラリアにあるNBAグローバルアカデミーに所属していた彼は、世界各地のNBAアカデミーチームと試合をするためにラスベガスを訪れていた。同じ会場では、NBA傘下のGリーグによるショーケース大会も行われていた。若い有望株の選手たちと、即戦力になりそうなGリーグの選手をまとめてスカウトできるとあって、多くのNBAスカウトたち注目のイベントだった。

憧れの馬場雄大に会いたくて
 そんな場所で、ジェイコブスがホテルの中を歩き回っていたのには理由があった。当時Gリーグのテキサス・レジェンズに所属していた馬場雄大に偶然、出会うことを期待してのことだった。

 エレベーターに乗ってロビーに降りたり、チームメイトにも、もし馬場らしき人を見かけたら連絡をくれるように頼んだりもした。NBAを目指すジェイコブスにとって、NBAの一歩手前のGリーグにいる馬場は憧れの存在だったのだ。

 SNSを使って連絡を取らないのかと聞くと、ジェイコブスは「メッセージを送るのは緊張します」と言う。アメリカ育ちとは思えないほどシャイで謙虚な彼らしい。結局、NBAのスタッフが馬場のチームのスタッフに連絡を取り、馬場がジェイコブスの試合を見に来て、試合後に2人の対面が実現した。

 馬場と話した後、ジェイコブスは嬉しそうに言った。

「とても嬉しかった。ちょっとびっくりしたけど、本当に会えてよかった。日本人選手で、こういうNBAやGリーグで活躍している選手に会えるのはとても嬉しい。僕もそこのレベルに行きたいので」

 ジェイコブスは馬場や、すでにNBAにいる八村や渡邊のことは、ずっとSNSをフォローし、試合をチェックしてきた。画面越しに彼らが頑張っているのを見るたびに「早く自分も仲間に入りたい」との思いを強めていた。

 まさか、その1年半後に3人とチームメイトになってオリンピックに出ることが叶うとは、このときのジェイコブスは想像すらしていなかったのではないだろうか。何しろ、ジェイコブスは去年まで2027年のFIBAワールドカップと2028年のロサンゼルス五輪が目標だと言っていたのだ。それが、一足飛びにパリ五輪への出場が決まった。この1年半の彼の成長速度がうかがえる。

 今年6月末、八村と渡邊が代表合宿に合流した直後に、ジェイコブスはこう言っていた。

「八村選手や渡邊選手は、(自分にとって)ずっとアイドルという感じの人たちで、ずっと見てきました。それが、話すことができるだけじゃなくて、同じコートで練習できるっていうのはすごく嬉しい。一緒に世界大会で戦えるって思うとワクワクします」

“憧れ”のから“超えるべき”存在へ
 1年半前に馬場を前にしたときのように、憧れの人を前にした興奮をそう表現したが、そう言った後でこうつけ加えた。

「自分もNBAに入りたいので、2人はすごいですけど(NBAでは)彼らのような人たちだらけなんで、そういう人たち相手に戦えないと、そこに行けない」

 憧れるだけでなく、彼らと対等にに戦えるようにならないといけない。そう自分に言い聞かせていた。

 去年夏、U19ワールドカップの大会が終わった後、ジェイコブスは短期間、FIBAワールドカップ直前の代表合宿に合流した。しかし、結局大会ロスターには残ることはできなかった。

 漏れ聞こえてきた話によると、大会直前にビッグマンの渡邉飛勇が故障離脱したときにジェイコブスをロスターに入れる案も出たという。しかし大学側からチームに合流してほしいとのリクエストがあり、実力面でもまだパワーやディフェンスなど足りないところが多かったこともあって、このときは選考から外れた。

 その直後に代表を外れた悔しさについて聞くと、ジェイコブスは言った。

「悔しい気持ちは、もちろんあります。カットされたのはもちろん悔しいけど、これからもチャンスは絶対出てくると思うし、ホーバスさん(代表ヘッドコーチのトム・ホーバス)からも、何をしてほしいかっていうことは全部聞いている。代表には毎回入りたいと思っているので、もっとできるというところを大学に行っても見せたいと思います」

 その宣言通り、ハワイ大学での1シーズンの間にウェイトトレーニングに励み、自分の武器のシュートもさらに磨いてきた。

「ホーバスHCから求められるのはシュート」
 今年2月、ハワイ大対カリフォルニア大フラトン校の試合を見に行ったときのこと。ジェイコブスは前半半ばで試合に出てくると、僅か3秒で最初の3ポイントを打ち、決めた。コーチから指示されたフォーメーションプレーだった。

 ハワイ大のエラン・ギャノットヘッドコーチは、ジェイコブスのシュートについて、こんなことを言っていた。

「ふつうは試合に出てシュートを打つまでに、試合の流れに少し慣れる必要があるのですが、アキラはすぐに打つことができる数少ない1人です。それはすばらしい長所だと思います」

 実は、これも練習して磨いてきた長所だった。アシスタントコーチから、練習のときもコートに入ったらすぐにシュートを打つように言われ、毎日練習に行くと何よりも先に3ポイントを打つという練習をしてきた。その努力があってこそ、1年生ながらに、自分がシュートを打つフォーメーションを指示してもらえるようになった。

「いつも練習してることだし、あいているなら打つ。毎回打つと決まるという自信はもっています」

 代表でも、ホーバスHCから求められているのはシュート。ジェイコブスも合宿中から何度も、「自分の役割はシュートを決めること」と繰り返し言ってきた。

 ほんの4年前までNCAAにも日本代表にも知られていなかった少年は、いつの間にか20歳の、日本代表のユニフォームが似合う青年になっていた。4年の間、いや、その前からずっと、たとえ誰も見ていなくても続けてきた努力の成果を、世界中の人が見ているオリンピックの舞台で披露するときがきた。

「2年前、ホテルをウロウロしてた少年が…」20歳ジェイコブス晶が“飛び級”パリ五輪をつかめた理由「八村選手や渡邊選手はずっとアイドル」 - バスケットボール日本代表 - Number Web - ナンバー (bunshun.jp)

 203cmのジェイコブス晶選手の魅力は3Pシュート。失敗を恐れずに打つ彼を見て、期待せずにはいられません。

 これからの日本を背負っていく彼が、パリでどんな活躍をしてくれるか楽しみです。

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神野守
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