10月の向日葵
とある精神疾患者の何気ないものがたり
山倉
蒼いカーテンが風で波を打つ、しんと静まり返る訳でもないが、それらが却って気持ちを落ち着かせる。数万冊の本を蓄えた本棚が、きれいな列をなし並ぶ脇の閲覧席に座り、図書館を見渡しながら、重いノートパソコンをおもむろに鞄から取り出し開く。いつも座る席は、最後列の本棚側の椅子だ。ここならば、不用意に背後をとられる必要もない。(もっとも、江戸時代ではないので、背後を取られて、「切り捨て御免」といった事はないのだが)自宅で詰めてきた水筒から、喉にしっかりと麦茶を染み込ませると、中央図書館の片隅で原稿の続きを打ち始める。
俺は持病のリハビリで、市内の図書館を利用している。市内には幾つかの図書館があるが、車で十五分以内の図書館は三か所しかなく、月曜日は市内で唯一開館している新田図書館に通い、火曜日から木曜日までは、古いが市内で一番大きく、蔵書も沢山あり、閲覧席が窓と長い本棚に挟まれている為、もの静かな雰囲気の漂う中央図書館に通う。
金曜日は、自宅から一番近く、最近造られた複合施設の八階にある、近代的な臨海図書館の閲覧席に座り、無駄な建造物のない、綺麗な海の景色を時折眺めながら過ごす。
自分で言うのも何ではあるが、俺は休職のプロだ。決して自慢できるプロフェッショナルではないが、仕方なく持病の関係上そうなってしまった。
これまで一年間の休職を一回、一か月程度と四か月程度の休職をそれぞれ三回ずつ経験している。その輝かしい経歴の中でも、今回の休職期間が一番長く、もうすぐ一年半になろうとしている。当初休んだ時は、ここまで長くなるとは思ってもいなかった。その内、いつも通り仕事に戻れるだろうと高をくくっていた。しかし、今回の休職中はやる事なす事上手くいかなかった。
最初は一か月休み、その後試験的勤務をこなして復職するという、いつもの復職方法に沿ってやってみたが、試験勤務の時間を六時間、つまり、昼の三時までに伸ばすと、途端に翌日から体調が悪化し、勤務を継続できなくなった。この、いつもであれば復職できる方法を、更に二回程試みたが、六時間勤務の壁は厚く、いずれも復帰する事が出来なかった。
また、六キロメートル散歩出来るよう体力を付け、バイクで二百キロメートル走行しても大丈夫なよう、心身を整え、復帰に臨もうとしたところ、新型コロナワクチンの副反応で十日間寝たきりとなり、そこからまた体調を崩すという災難にも遭った。
次には発想を変え、心身が充実していないと造れないと思われる、ユーチューブ等で最近ブームになっている、小屋を裏庭に造る事にした。
若者が、サラリーマンを辞めて山奥に安く土地を買い、DIYで小屋を造って、限りなく自給自足の生活を目指すという、ユーチューバーに最近人気がある。
収入は激減するが、アルバイトとユーチューブの閲覧回数等に比例して配分される収益で、やりくりしている若者達が全国にある程度居る。
そんな彼らを追ったドキュメンタリー番組を見た時に、自分のリハビリとして、小屋造りに取り組んだらどうだろうと思い、早速妻に相談した。
「幾ら何でも小屋は負荷が大きいから、いきなり小屋を造るのではなくて、まずはウッドデッキ程度の、簡単なものにしてみたらどう?」とアドバイスをしてくれた。
「女性の言う事にはきちんと耳を傾けろ」と言う名言があるが、強ち間違ってはいない。むしろ正論だと思う。うちの妻は、疾患のある俺を客観的に見た上で、適切なアドバイスを出してくれる。
最も信頼している女性の助言を受け、ウッドデッキを作った人達のホームページや動画を見てみた。費用も安くすみ、心身への負担も少なそうだ。作成費用は俺のお小遣いから出すという条件で、妻から了解を得た。裏庭は、元々杉林だった所を間引きし、今では杉が適度な間隔で生えている。地権者の親に話すと二つ返事で了解を貰えた。
小屋からウッドデッキにスケールダウンしたとはいえ、設計から資材の選定・購入や組み立て等、様々な工程に心身の強さを求められる筈だ。これを成し遂げれば仕事復帰への関門、試験的勤務も乗り越えられるだろう、と信じて疑わなかった。
パソコンで設計図を書き、ホームセンターに行って木材やネジ等、大小様々な資材を購入する。木材を家に持って帰って寸法を測り切ったら、防腐剤を木材の一本一本に丁寧に塗って行く。ある程度木材の加工が終わったら、裏庭に生えている杉の中から、土台となる基礎を付ける樹を決め、基礎を付けていく。
始めは、どうやったら樹と樹の間に板を渡す事が出来るのか、その基礎をどこに造るのか、皆目見当がつかなかった。ネットで調べてみると、予め四か所に穴を開けた厚い板二枚で樹の幹を挟み、その穴に棒状のネジを入れて、両側からナットで締めて止める。これを四か所に施工して、板がびくともしない様にする。これがウッドデッキの基礎の造り方だった。
デッキの高さをどれ位にするかを決めて、基礎を作る場所をラッカー・スプレーでマーキングする。四本の樹に基礎を造ったら板を渡し、その上に水平器を置いて、水平かどうかを確認する。少しでも傾いていれば、基礎の位置を微調整する。
基礎が出来上がったら、後はその上に、太くしっかりとした木材を置いて二本梁を造り、次に、梁と梁の間に十本程度の下木を平行に並べ、ネジで梁に止めて行く。下木が綺麗に止まったら、最後に、その上にウッドデッキの床となる、ワン・バイ・フォーの床材を二十本程渡し、ネジで止めると完成する。
この手順で造り始めて、約一か月で裏庭にウッドデッキが完成した。予定よりも大分速いペースではあったが、その時はあまり気にもしていなかった。妻と小学一年生の下の子供を連れて行くと、
「高いね。すごい、すごい」と子供は喜び、
「よく造ったね。お疲れ様」と妻は笑顔で労うと共に、
「でも、こんなに早く造るとは思わなかった」と意外な感想を述べた。ともあれ、俺のリハビリとして取り組んだウッドデッキ造りが、家族の笑顔に繋がった事は、何よりも嬉しかった。
その後、満を持して臨んだ試験的勤務。結果として、自分でリングにタオルを投げ入れてしまった。二時間勤務を三日程度続けただけで、体調不良が直ぐに襲ってきた。完敗だ。絶対に復帰できると自信があり、勤務初日「つまらない物」の代名詞であるお菓子を職場に持参し、
「今日から試験的勤務で復帰します」と全職員の前で、堂々と宣誓してしまっただけに、かなり罰が悪かった。
ウッドデッキを完成させてから、初めて迎えた通院日、主治医に事の顛末を全て話し、
「何をやっても駄目です。そろそろ休職して一年になります。一体どうすれば復帰できますか?具体的な『コツ』があれば、教えて下さい」
と具体的な提案を待つと、
「うちの様な小さな診療所は、山倉さんが初の臨床経験となるので。必要であれば、大学病院からアドバイスをもらえるよう、紹介状を書きますよ」(おいおいおいおい、なんとも頼りない答えが返ってきたぜ。そもそも小さな診療所じゃなくて、そこそこの規模のクリニックだろ)
「いえ、結構です。先生はこれまで通り処方して下さい。自分でなんとか『コツ』を見つけてみます」
「処方に関してですが、山倉さんの場合、薬の血中濃度が未だ有効域に達していないので、投薬量を多くする事も、選択肢としてはあるので、考えてみてください」
「分かりました。うちの職場の産業医に相談してみます」とだけ話し、診察室を後にした。
モヤモヤした気持ちを抱えながら帰宅し、夕方、妻が仕事から帰って来ると、いつものように相談した。妻ほど頼れる相談相手はいない。
「今日、医者に行ったのだけど、復職に向けた具体的なアドバイスがなくて。それどころか、他の病院を紹介するって言われたよ」
「なにそれ。じゃあ、医者を変えるの?」
「このド田舎では、今のクリニックに通うしか、選択肢がないでしょ。医者を変えるのは現実的じゃないと思う。とりあえず、今の医者からは薬を処方してもらい、復職に向けたアドバイスは、別の所からしてもらおうと思う」
「うん。そうだね。それが一番良いと思うよ。医者を変えるとなると、通院に丸々一日潰れるから、心身の負担が大きいしね」と俺の意見に納得すると、更に続けた。
「あとね、気になっていたのが、ウッドデッキの完成の早さ。なんとなくだけど、造っていた時って、ゆっくりじっくり造っている感じではなくって、何かに急かされている様な感じがしたのよ」
「そうか。夢中になると、目の前が見えなくなるのかもしれないね。やっぱり、薬を増やした方がいいのかな?」
翌日、産業医に電話をかけて、諸々相談する事にし、その日は通院から来る疲労で、意外と直ぐに寝落ちた。
翌朝八時半に職場に連絡し、産業医と電話で面談したい旨伝えると、折り返しの電話で、今日の午後三時なら偶々キャンセルがあり、面談出来ると言われた。流石役所だ。基本的には、何事もアポなしでは受け付けないのだ。俺も役人の端くれだが、このような役所の体質は大嫌いだ。しかし、疾患と共に出世レースから姿を消した俺には、それを今後変えて行く事など不可能である。
三時半になった。まずは福利厚生担当課に電話し、担当者と少し話してから産業医に代わった。要件を簡潔に伝えると、主に次の三つの提案があった。
・医者は変えず、現状のまま「処方してもらう人」と割り切ったらどうか
・薬の量を増やしてみる価値はあるので、トライしてみたらどうか
・良いカウンセリング業者がいるので、そこに復職のアドバイスをもらったらどうか
非常に有益な情報がもらえ、少し面談時間を過ぎても相談に乗ってもらえたので、丁寧にお礼を言い、産業医との電話面談を終えた。カウンセリング業者を教えてもらえたのは大きな収穫だった。(そうか、これまで復職の相談にのってきた事のある、経験豊富なカウンセラーに相談するのが効果的だな)早速教えてもらった業者に電話をかける。初めて利用する旨伝えると、どこから紹介されたのかと聞いてきたので、産業医だと伝えると、「またですか」と苦笑していた。このカウンセリング業者は、余程産業医のお気に入りのようだ。カウンセリングの予約を入れると、初回は必ず来所して欲しいと言われた。その後はオンラインで出来るとの事だったので、やむを得ず承諾した。
カウンセリングの予約日まで日数があったので、ネット通販で自分の疾病に関係する本を二冊買った。一冊は疾病をより良く理解する為の本。もう一冊は、同じ疾病者が復職した時の体験談を簡潔に書いた本だった。
俺は、この疾病になりもう十五年も経つ。当時二十代後半だった俺は、年度途中の十月一日に異動内示を受けた。異動先は年間残業時間ランキングで毎年ベストスリーに入る「残業御三家」財政課、総合企画課、河川課のうちの総合企画課だった。(よりによって総企課かよ)これは、総合企画課への異動内示を受けた者全員がもれなく思う、素直な感想だ。
この課は知事の公約等、所謂知事案件を扱う課なので、庁内や外部との調整にとてつもない時間を割く。また、課長、部長、知事に方針を伺うのだが、課長に修正された案を部長に持って行くと、更に修正され、最終的な決定権者の知事に持って行くと、最初の私案に戻されるという様な、上司による上司への配慮に振り回されるのだ。知事案件なら、知事からのトップダウンで処理すれば良いものの、仕事のやり方は、旧態依然としたお役所お得意のボトムアップなのだ。
総合企画課への異動だけならまだ良かった。すでに始動している仕事に慣れていけば良いだけだから。しかし、運命の神様は、俺を狙って不幸のダーツを的確に投げた。
異動後二十日が過ぎ、仕事にも職場にも人間関係にも慣れてきた頃、突如として大地震が起きた。休日で休んでいた俺は、大好きなガンダムをテレビで見ながら、ビールでも飲もうと予め準備をして、シャワーを浴びている最中に、浴室が大きく揺れた。
(やばい、この揺れだと俺、全裸で逃げなきゃ駄目かも)着替えている余裕などないのではないかと思う程揺れた。第一波の揺れが一段落し、ガンダムを見ながらビールの炭酸を喉仏に染み渡らせた時、第二波が来た。これはただ事ではないぞとテレビを付けると、県内の震源地付近、○○市で震度六を観測と表示されていた。
県内のどこかで震度四以上の地震が起きると、我々職員は自主登庁しなくてはならない。この頃は飲酒して自転車に持っても、法律違反にはならなかったので、マウンテンバイクに乗って県庁に急いだ。
課に行くと、災害対策本部に人間を出してほしいとの要請が来ていて、現職に就任したばかりで、まだ戦力にはならないと思われていた俺と、その他の課員数名が、本部の業務を行う事になった。
本部では、総合企画課員は雑用係の総務班に配属された。資料のコピー、毎日夕方に開催される本部会議資料の各課への催促と、集まった資料の製本。まだこれは良い方だ。派遣要請できた自衛隊員の弁当注文と配布、集金や、県民からの苦情対応もこなした。
当然、本部を二十四時間体制で稼働させているので、夜勤も週に二・三回はあった。当たりを引くと、酔っ払いから夜中に掛かってきた苦情電話に、長時間付き合う事が出来た。
俺は総合企画課での通常業務と、災害対策本部での雑用をこなし、不眠不休で働いた結果、地震から一か月半後に体を壊した。始めは不眠となり、その内、吐き気や頭痛等の身体症状が出る様になった。このままではまずいと思った俺は、仕事を休み紹介状もなしに大学病院に飛び込んだ。すると、その日は偶々心療内科の診察日で、午後から診察を受ける事が出来た。午後から一時間かけて、今のような体調になった経緯を聞かれ、その後診察を受け、心身の症状を話すと、三か月の休養を言い渡された。
あれから十五年経ってはいたが、自分の病気については、ネットに掲載されている情報しか把握しておらず、自分の疾患の権威である医師が書いた本を読んでおきたかった。読む前と読んだ後では何かが変わったと言う事はないが、「薬は絶対に増やした方が良い」と確信した。
復職の体験談の本は、非常に参考になった。「図書館神話」という話があり、リハビリを自宅ではなく、その他大勢が居て、人の話し声や電話応対の音等、雑音がある図書館ですると効果的だと書いてあった。図書館では、読書やパソコン作業が良いと書いてある。ゲームは厳禁とも書いてあった。(当たり前だ。まずコントローラーを動かす、カチャカチャ音が五月蠅い)目から鱗が落ちた。これまでは、自宅で何かリハビリになりそうな事を、自分で考えて根拠もなく、やっていた。ウッドデッキの場合などは、自分の興味のある事、やっていて楽しい事を、リハビリの内容に設定していた。でも、職場は違う。常に電話が鳴るし、コピー機も休まず稼働する。自分のやりたくない仕事も、当然こなす必要がある。「図書館神話」は理にかなっていた。
少しずつ自分が何をすれば良いかが分かってきた。それをカウンセリングにぶつけてみようと思い、意気込んでいる内に当日を迎えた。場所は遠く、日帰りだと心身の負担が大きいので、一泊二日で赴いた。
カウンセラーからは、
「図書館で何かをするのであれば、少しずつ滞在時間を増やしてください。増やした結果辛いと感じたら、躊躇せずに元の時間に戻してください」とアドバイスを貰った。また、
「山倉さんは、転ばない様に転ばない様にしていますが、人生何があるかはわかりません。転んでも直ぐに立ち上がれる様に心がける事が大切です」と言われた。(あんたオイラの女神様や)本当に少し話しただけで、様々な見地から色々なアドバイスがもらえ、一泊二日で来た甲斐があった。カウンセリングを終えると、深々と頭を下げ退室し、最寄り駅に移動しながら、今夜、何処で何ラーメンを食べようか、暫しの検討に入った。
カウンセリングから数日後、自宅近くの河川敷に植えている桜並木は、先日までは五分咲きだったが、年度をまたぐと同時に満開になっていた。図書館で何をするか、妻と話し合った結果が書写である。料理が好きな俺は、図書館にある様々な料理本から、作ってみたいと思うレシピを、パソコンソフトのワードに書き写す事にした。最初は非常に上手くいっていたが、リハビリ時間を少しずつ延ばして行くにつれ、全てのレシピ本を読み終えてしまい、書き写したいレシピがなくなった。ここで終わりにはしたくない、図書館神話に俺もあやかりたいと、中央図書館の閲覧席で、周りも気にせず頭を抱え悩む俺。周りに居た人は、図書館に来て、何に悩むのか不思議で仕方なかっただろう。幾ら考えても答えが出ないので、レシピ本ではなく、好きな作家の小説を手に取って読んでみた。暫く読み続けると、突然、アリスの冬の稲妻の歌詞の如く、稲妻が体を駆け抜けた。
(これだ、これですよ。リハビリで小説を書けばいいじゃないの。頭も使うし、調べ物に必要な図書はここに五万とある。更に、パソコンでワードを使うから、復帰後にキーボード操作が鈍る心配もない)
偶々ではあるが、五年前に趣味で小説を五作程書いた事がある。その時はほんの軽い気持ちで、何も考えず書いただけだったので、殆どの「作品」(と大げさに言って良いのか分からないが)は荒削りで、修正を要する箇所や、もっと話を深めなくてはいけない箇所がある。まずは、その修正作業から始めたら良いのではないか。一から書くのは厳しいぜ、セニョール。方向性が決まった。お役人は方向性が決まった途端、速やかに仕事を回し始める。逆に言うと、方向性が中々決まらなくてうんざりするのだが。
俺も役人の端くれなので、リハビリの方向性がはっきり見えたため、心の中でガッツポーズをした。その後、読みかけの小説を元の位置に戻し、意気揚々と図書館を後にした。リハビリ作家が誕生した瞬間だった。作家と言っても、この時点ではあくまでも、リハビリとして小説を書くという領域を出ない予定であった。
俺の中では、市内各所にある図書館の中で、一番のお気に入りが中央図書館だ。やはり、蔵書が多い事と、閲覧できる新聞が十紙と充実している。農業新聞や工業新聞には、申し訳ないが全く興味が湧かないが、地元紙と各全国紙、それにスポーツ新聞が読めるのは、非常に魅力的だ。
リハビリ時間中、ただパソコンばかり打ち続けていても疲れるので、食事で言う「箸休め」の様な感覚で新聞を読むと、疲労が溜まりにくく、リハビリも順調にこなしていける。
本音を言うと、地元紙と全国紙一紙が読める、家から一番近い臨海図書館に通いたいのだが、一つ問題がある。図書館の開館とともに、
「おはようございまーす!」と大声で挨拶し、コロナ対策の消毒や検温もせずに、地元紙のある新聞ラックに直行すると、地元紙を手に取り、毎日定位置となっている海の見える椅子席に、頭を背もたれに乗せだらしなく座り、手にした地元紙を二時間以上かけて閲覧する、年で言うと六十歳位の「猛者なオヤジ」が毎日通っているのだ。
まあまあ、初老の方だからとお思いの方も居るかもしれないが、馬鹿を言っちゃいけない。現代では、六十歳で定年した後、六十五歳まで再雇用で働いている方が多くいる。これからは、高齢者とは七十歳を指し、後期高齢者とは八十歳を指すべきなのだ。なぜなら、年金受給も遅れ、俺が生活する為に十分な金額を受給できるのは、七十歳になるのではないかとも言われているからだ。還暦が未だに六十歳なのが間違っている。六十歳なんてまだまだ現役だ。だから俺は、彼の事をオヤジと表現している。
この臨海図書館で、以前、彼の傍にあるテーブルでパソコンを叩いていたら、新聞を読みながらブツブツ言う声が聞こえ、こちらにも聞こえる様な声で「あー疲れた」と宣う。(疲れたなら、新聞をラックに戻して休めよ)と言いたいところだが、聞き流す。
二時間待ち、彼が読んだ後の地元紙を読もうとすると、アルミの新聞ハンガーが手汗や脂で汚れ、新聞は所々クシャクシャになっている。彼は、椅子に座って読むので、右手で新聞ハンガーを握りながら、自分が読み易い様に、大きな紙面を縦に二回折り畳んで、それを左手で掴んで読んでいるのだ。これ以上は言いたくはないが、体臭が紙に染み込んでいる。皆が読む新聞なのに、この様な読み方をするのは、如何なものだろうか。今度、図書館の職員を通じて文句を言おうと思った。
その日の夜、妻に、
「臨海図書館に行くと、服装が奇妙で、ビニール袋を鞄代わりにしているオヤジが居てさ。二時間も地元紙を独占するんだぜ」と愚痴を言うと、
「ああ、宇多田さんね」とすんなり名前が出てきた。
「誰?宇多田さんって」
「あの人は臨海図書館の近くに住んでいて、いつもあの様な格好で何処にでも歩いて行く人みたいよ。昔はかなり頭が良かったのだけど、高校の時にメンタルがやられたみたい。巷では有名人よ」
「そうなんだ。知らなかった。宇多田ね。覚えておくよ」
この宇多田がいなければ、臨海図書館で地元紙を自由に読む事が出来る。その後も何度か行ったが、彼は最長で、二時間四十五分も地元紙を手放してはくれなかった。
ある金曜日、いつもの様に臨海図書館のテーブル席でパソコンを叩いていると、後ろの本棚から中年の女性二人組の話し声が聞こえた。
「何よ、あの人。私、図書館に来てからもう一時間経つけど、まだあの人が地元紙読んでいるから、全然読めないの」
「普通、さっと読んだら新聞ラックに戻すわよね。非常識よね」(いいじゃないの一時間ぐらい。俺なんて、最悪約三時間待ちの日もあるのだから)会話がこれで終われば良かったが、その後の会話は聞き捨てならなかった。
「なんか、春なのに半袖着ているし、髪の毛も伸び放題で、変な人なんじゃないの」
「ああいうのを世の中では、精神疾患者っていうのよ」
「だから、嫌だわ」(おい、聞き捨てならないぞ)
この会話は、最悪な事に宇多田にも聞こえていた。俺はマナー違反だと思い、席を立ち中年女性二人に話しかけた。
「お話し中すみません。心の中で何を思おうと勝手ですが、本人に聞こえる声量で話すにしては、失礼な内容じゃないですか?」
「なによ、あんた。本当の事を言っているだけじゃないの」と反論されるがすかさず、
「『ノーマライゼーション』という言葉を知っていますか?障害や疾患がある人も、健常者と同じ様に、区別なく、『普通』に暮らせる社会を目指しましょう、というのが今日の日本社会ですよ。あなた達がおっしゃっている事は、昭和の様な前時代的な考え方ですし、疾患者に対し大変失礼ですよ」と、横文字が放つ効果に期待しながら、俺も正論で反論した。
「なによ、それ。なんだかよく分からないわ。そんな事言われてもね」
「もう止めましょう。時間がもったいないわよ。いいから行きましょう」と眼鏡をかけた中年女性が、攻撃的な中年女性を連れて図書館を去って行った。やっぱり、この世の中は横文字でザクッと突くと、突破出来る事が多々あるものだ、としみじみ実感していると、定位置にいた宇多田が新聞を持ったままやって来た。
「ありがとうな」
「いえ、当然の事ですよ」
「今まで、お前みたいに言ってくれる人はいなかったから」
「宇多田さん。それはあなたの言動や服装、行動にも少なからず原因があると思います」
「何故僕の名前を」
「妻から聞きました。あなたは巷では有名な方だと言っていました」
「有名って」
「言動や服装、行動が他の人よりも変わっているからだと思います」
「それは、安田さんに言われたんだ。これはこのままでいいんだ」と訳の分からない事を叫ぶと、俺を睨み、定位置に戻って行った。
宇多田
僕の実家は海の後背地にある山麓で、江戸時代から続く酒蔵を営んでいる。井戸からは山で濾過された名水が湧き、蔵から海にかけて広がる田んぼには、酒米を植え、酒造りに必要な原料を極力家で賄っている。
春は、海に架かる一文字の雲と苗の緑、夏は、夕暮れの海に映える朱と頭を垂れかけた薄緑、秋は、黄金の絨毯の上に広がる蒼。幼少時代から、それらの景色を眺めながら生活してきた。長男である僕と、長女である妹の二人兄弟という事もあり、小さい頃からお父さんに、「お前が酒蔵を継ぐのだぞ」と言われて育ってきた。僕が小学生位までは、お父さんの言う通りにしないといけないと思っていた。
僕は、幼い頃から酒蔵の神童と言われてきた。自分で言うのも憚られるが学業優秀で、小中高といつも学年で三位以内に入る成績を納めていた。僕も今では、高校三年生になり、進路を決める時期になっていた。僕は親を一生懸命説得して、田舎にしては珍しく、進学校の普通科に通っていた。中学校の同級生達は、ほぼ全員が商業科のある商業高校へ通っていたし、親も家業を継ぐなら商業科しか選択肢はないだろうと、僕が普通科へ進学する事など夢にも思っていなかった様だった。
僕には夢があった。小さい頃から本を読むのが好きで、はじめは絵本、小学生になると江戸川乱歩の少年探偵団シリーズ、中学生からは芥川龍之介や夏目漱石、太宰治等の作品も読むようになった。高校生になると、読むだけでは飽き足らず、自分で執筆しようと思い、生い立ちから中学生までの体験を綴った、私小説を初めて書いた。執筆が楽しく夢中になり、高校二年生の終わりには、ある程度完成したと自負する、ミステリー小説を書けるようになっていた。
もうその頃には、僕の中での進路は決まっていた。東京の大学へ行って、日本文学を学びたいと。僕の偏差値からすると、国立なら東京大学か一橋大学、私立なら早稲田大学か慶応大学の何れかには入れる自信があったので、この四大学を志望校とした。勿論受験生なので勉強をきちんとしながらも、細々と執筆を続けていた。
しかし、お父さんには、自分の進路を打ち明けられずにいた。必ず「後を継げ」と言われるに決まっている。その打開策も見いだせないまま、高校三年生の四月が過ぎようとしていた。
ある日雑誌で知った。高校生を対象とした小説の新人賞が開催されると。今書いている作品はとてもじゃないが締め切りには間に合わない。唯一完結していて完成度の高い作品、高校二年生の時に書いたミステリー小説を応募する事にした。学校に原稿を入れた封筒を持って行く訳にはいかなかったので、母親に郵便局に持ち込んで郵送するようお願いした。
季節は過ぎ九月。学校が八月に実施した模試の結果が出た。志望している全大学はA判定が出た。つまり合格確実という事である。ただ、先輩から、
「模試では合格確実でも、本番では何が起こるか分からない。それが受験という魔物だ」と聞かされていたので、油断する事なく、勉強と執筆を続けた。でも、未だお父さんには進路の事を切り出せずにいた。
昼間から鳴き始める、秋の虫の音を聞きながら勉強していると、電話が鳴った。数回鳴ったが誰も出ない様なので、電話に出ようとすると、お父さんが駆け足で来て先にでた。
「もしもし」
「はいそうです。私は至の父親ですが」
「あー、その件でしたら、申し訳ありませんが、本人が辞退すると言っています」
「来春受験を控えていますので、難しいですね」
「はい。誠に申し訳ありません。失礼します」とお父さんは受話器を置いた。
僕は、お父さんに駆けより、何の電話だったかを問い質した。
「今の電話は何?」
「お前、小説の新人賞に応募しただろう」
「春頃に応募したけど、何で知っているの?」
「お母さんから頼まれて、俺が郵便局から郵送したからな。今、連絡が来て、お前に大賞を受賞させたいとの事だったが、断った」
「酷い。勝手に辞退するなんて。僕そんな事、一言も言ってないじゃないか」
「お前はどのみち、高校を卒業したら蔵を継ぐんだ。小説の受賞など必要ないだろ」
「嫌だ、僕は大学へ進学して文学を勉強したい。それに、今回受賞できたなら、小説家への道も開けたかもしれなかった。それを何故勝手に断るんだよ」
「至。夢を見るのもいい加減にしろ。昔から言い聞かせているだろう、この蔵を守っていけと。もう話す事はない」
お父さんに反論しようとした瞬間、僕の頭の中で鈍くて重い銃声がバーンと聞こえた。すると体が痺れ始め、同時に、目の前の景色がぐるぐると左に回り始めた。その回転が次第にゆっくりになっていき、止まると同時に僕は意識を失った。
僕は今、電車の中にいる。三月の景色が車窓からは広がっている。川端康成の雪国とは真逆で、例えるなら、「雪国からの長いトンネルを抜けると、そこは穏やかな陽光が差していた」とでも言えば良いのだろうか。あまりセンスが良くないかな。雪国の三月は、まだまだ雪が一メートルも積もる事がある。頭の中では、友人が「東京大学合格おめでとう」とお祝いしてくれる声が何度も何度も反芻する。
僕は、東京大学に合格し、電車で上京する最中なのかな、と思った時体が揺さぶられた。あれ、地震かなと思ったが、地面を突き動かす大地の雄叫びではなく、左肩から全身を揺すぶられている感じがする。
「宇多田さん、宇多田さん、起きてください」
ハッと気がつくと白衣を着た女性が、僕の肩を揺すっていた。
「今、僕は電車に乗っていたんだけど、あなたは?」と呟くと、
「いつもの幻覚と幻聴ですよ」女性がよく訳の分からない事を言う。
どうやら僕は寝ているようだ。頭を少し動かし周りの景色を見てみる。白い天井に白い壁、そして白いベッドに僕は寝ていた。
「僕は何故ここに?」と女性に問いかける。
「宇多田さんは、自宅で意識を無くされてから、直ぐに幻聴と幻覚が酷くなって、この病院に搬送されて来たんですよ」
「ここは病院ですか?」
「虹川精神病院です。さっき、『電車に乗っていた』と言っていたのも幻覚です。昨日からずっとここで横になっていますから、電車には乗っていませんよ」
「僕は死ぬのですか」
「心配しないでください。大丈夫ですよ。病名はまだはっきり分かりませんが、先生が宇多田さんに合う薬を処方してくれますよ」
「いつまで入院しているのですか?」
「薬が効いて、症状が落ち着くまでですね。では、また見に来ますので」といい、女性は忙しそうに去って行く。
僕は、暫く途方に暮れていたが、今居る病室を確認する事にした。部屋は個室で、洗面台とトイレ、シャワーがあり、窓には蒼いカーテンが掛けられていた。一見、何不自由のない病室に見えるが、出入口のドアは看護婦さんによって施錠されている。それは僕の症状によって、他の患者さんに迷惑をかけると困るからだろう。必要な時はナースコールで呼べば良い様だ。現実を直視すると直ぐに脳内が様々な情報で溢れかえり沸騰し、錯乱した。その後数日間の記憶はない。
入院して一週間が経った頃、ようやく現実を受け入れようと決意する事が出来た。大人しく病院の方針に従い治療を行なう事にした。投薬治療が主体で、僕に合う薬が見つかるまで暫くかかった。その間、僕は幻聴と幻覚で大声を発する事も少なくなってきたので、常に施錠されている個室の病室を出て、閉鎖病棟と言われている大きな病室にランクアップした。
この病棟は、僕のいた個室が数部屋ある他、六人部屋の病室が十部屋あり、面会室やトイレ、患者が視聴できるテレビも置いてあり、NHKが朝の七時から夜の八時まで付いていた。食事は、一日三回セルフサービスで、各自食器を取り盛り付け、食事用のテーブルで食べた後は、後片付けも各自で行うという方式だった。
おそらく、退院後の自立を促す為のプログラムだったのだろうと思う。お風呂も男女時間交代制で入る事が出来た。この閉鎖病棟は、個の生活から集団生活に慣れさせる為の病棟でしかなく、自由が保障されてはいなかった。病院廊下に繋がる唯一の扉は、無情にも二重に施錠されていたのだ。
この病棟で、僕は様々な薬を試しては、効果を検証し、駄目であれば他の薬に変えるという治療を行っていた為、結果、無駄だと思われる検証期間の方が長く感じられた。でも、この検証は僕の様な疾患の人には避けて通れない道であり、実験して行くしかないのだと思った。
入院して九か月経った頃、やっと僕の症状に適合する薬が見つかった。精神的にも安定し、幻聴と幻覚がほぼ治まった為、今度は施錠のない開放病棟という、『普通』の人が、肺炎や何かで入院する時に使用する病棟へ移った。開放病棟に来てからも順調に回復し、二か月で僕は退院する事となった。退院したのは良いが、高校生活に戻るかどうかを決めなくてはいけなかった。精神病院に一年間入院し、留年している僕に対する学生の偏見が気になった事と、今の頭脳で授業について行けるか自信がなかった為、深く考えるまでもなく高校を中退した。当面の一か月間は自宅で療養をしていたが、家に居てもする事がなく、暇を持て余していた。
ある日の昼下がり、茶の間でお茶を飲んでいると、お父さんが、
「お前も、毎日家に居ても仕方がないだろう」と話しかけてきた。
「うん。でも、特に何か出来る訳じゃないし、『普通』の人からの偏見も怖い」
「そうか。ならば、通所施設っていうものがあるんだけど、通ってみないか?」通所施設と言うのは、海沿いの綺麗な景色が見渡せる丘の上に、二・三年前に開業したばかりの、主に僕の様な精神疾患者が、朝の九時から夕方五時まで作業をして、賃金を幾らか貰えるという、新しい制度に基づいて出来た施設との事だった。
「同じ疾患者と作業をするのなら問題はないかな。行ってみるよ」と答えると、
「分かった。あと至。申し訳なかったな」とお父さんが謝った。
僕は、済んだ過去の事など、もうどうでも良くなっていた。それらは入院中に精算した。これからどう生きて行くかの方が大事だから。
「お父さんもういいよ。もう言わなくて良いから」と言うと、お父さんは初めて僕の前で大粒の涙を流した。
早速、翌日にお父さんが、四月一日から通所できるよう申し込んできてくれた。他の新規通所者と一緒に入った方が、馴染み易いだろうという配慮だった。初通所となる当日、僕は長袖のTシャツの上にブルゾン(当時の言葉で言うとジャンパー)を着て、ズボンはベージュのチノパン(これも綿スラックス)を履いて、徒歩で施設に向かった。十分程歩くと、遠くから見てもまだまだピカピカに光っている施設に着いた。受付で名前を名乗ると係の人がやって来て、
「宇多田至さんですね。私は小泉です。これからよろしくお願いします」
「はい、宇多田です。こちらこそよろしくお願いします」と答えると、簡単な施設の説明があった。
朝は九時から十二時まで作業で、その後一時間は昼休み。一時から五時までが再び作業になると言う。昼食は食堂があるので、そこで好きな物を注文して食べて良いとの事だった。昼食代はしっかりと賃金から天引きされるらしい。
「宇多田さんが入る班では、豆腐や厚揚げを作っています。班長は、この施設が立ち上がった時からいる安田さんなので、分からない事があったら、彼に聞いて下さい」
「わかりました」と言うと、一緒に僕の班がいる作業部屋に案内してくれた。
僕と小泉さんが入室すると、静かな室内がざわついた。
「皆さん。今日から一緒に作業する、宇多田さんです。慣れるまで色々と教えてあげて下さい」と小泉さんが僕を紹介してくれた。
「宇多田至です。よろしくお願いします」と頭を下げて言うと、拍手もかけ声もなく、全くの無反応だった。
「じゃあ、班長の安田さん始め、皆さんよろしくお願いしますね」と言うと、小泉さんは忙しそうに部屋を去って行った。
「宇多田くん」体格が良く、細い目をした四十歳位の中年男性が話しかけてきた。彼が班長の安田さんのようだった。
「はい」
「あのさ、君も疾患者でしょ」
「はい」
「じゃあ、もっと『らしく』しないと」
「『らしく』というと?」
「聞くけどさ、これまで『普通』の人に話しかけられて、足早に去って行かれるとかさ、嫌な思いしたことない?」
僕は『らしさ』等、何を言っているのかよく分からなかった。でも、先日久しぶりに街中を歩いていたら、若い女性に道を尋ねられて、教えようとした途端、女性に「あ、もう大丈夫です」と言われ、そのまま足早に去って行かれたという出来事があった。
「まさにそれと同じ事が最近ありました。良い気持ちはしませんね」
「あのさ、宇多田くん。自分では分かっていないみたいだけど、君、無意識でブツブツ何か言っているんだよね」
「え、そうなんですか」
「だから、そういう目に遭うの」
精神病院から退院し、幻聴と幻覚もほぼなくなっていたので、他人から疾患者だと分かるような所作はしていないつもりだった。
「今も言っていますか?」
「今は大丈夫。俺の見聞上、緊張すると言っちゃうんだよね」
ああ、そうなのかと思った。班長の安田さんが僕に話している間は、他の班員も黙って聞いている。
「はっきり言うけど、この世は『普通』の人と障害や疾患のある人では、住む社会が違うの。だから、後者の俺たちはそれっぽくしないと、さっき君が言ったみたいに嫌な目に遭うのよ」
「それっぽくって何ですか?」
「言動と服装、行動だよ。疾患者っぽくすれば『普通』の人は寄ってこない。これこそ一石二鳥だと思わない?」
安田さんは、障害者や疾病者はそれと分かるように振る舞うべきと言っていた。それが、健常者と障害・疾患者両者の為であると。僕は、何故そんな事をする必要があるのか全く理解できず、すんなりとこの安田論を咀嚼する事が出来なかった。
四月中のある日、僕は遠くの街までバスに乗り、映画を見に出掛けた。バスステーションでバスを待っていると、僕の後ろには数人が並んで、一緒にバスの到着を待っていた。僕は、初めて行く街だった為、家を出る時から緊張していた。バスを待っている間ふと気付くと、後ろに並んでいた人達が、僕と距離を置いて並び、僕の方を見て何かヒソヒソ喋っていた。気にはなったが、そのまま直ぐに来たバスに乗り、映画館に着いた。
映画館は、現代のシネマコンプレックスとは違い、複合施設でもなければ、映画館に幾つものスクリーンがあるわけでもない。一つの映画館に一つのスクリーンという、当時では当たり前の映画館だった。
僕は今日、日本中で大ヒットしている「E.T.」を見に、遙々バスで一時間かけて来たのだ。チケットを買い、ポップコーンを買おうと売店の列に並んでいると、小学校低学年位の女の子が、僕を指さしてこう言った。
「あのお兄ちゃん、幽霊と話している」
最初は、何を言っているのか全く分からなかったが、僕は、一拍おいてやっと理解した。さっきバス停で遠巻きにされた理由も。緊張から、ブツブツ言っていたのだ。僕はブツブツ言いたくて言っているのではない、おそらく脳か自律神経の不調で言ってしまう。なのに、何故異質な物を見るような目で僕を見るのだろう。僕の表情やお洒落してきた服装を直視もしないで。僕は、途端に嫌な気分になって列から抜け、映画館から一目散に逃げ出した。この様な出来事はその後何度も起きた。小学生からは「ブーツブツオー」と、そのまんまのあだ名で呼ばれ、馬鹿にされた。
やっと安田論を咀嚼する事が出来た僕は、彼に聞いた。
「『らしい』言動と服装、行動ってどんな感じですか」
この施設に通って三週間経ち、安田さんの素性が分かってきた。安田さんは、小さい頃から神童と呼ばれ、この町から東京大学に進学した。彼が進学した頃は、学生運動の真只中で、彼も次第に運動にのめり込み、気付くと組織の幹部になっていた。しかし、親友である同じ組織の幹部が安田さんを裏切った挙げ句粛正し、謂わば、公開処刑の憂き目に遭った。それがきっかけとなり、疾患を患ったという。
「一言で言えば、『普通』の人から見て変な言動と服装、行動だな。お前頭良いんだろう?後は自分で考えてみなよ」と安田さんから変な宿題を出された。帰宅した僕は悩んだ。まずは『らしい』服装から取り組んでみよう。
翌日、季節はまだ五月上旬で肌寒いが、半袖Tシャツに丈の短い緑のジャージという格好で施設に行った。部屋に入ると、安田さんが開口一番
「いいじゃない。センスあるねー」と褒めてくれた。
「そうやってさ。近寄りがたい雰囲気出すのよ。そうすれば、彼らは近寄らないし、うちらも嫌な思いをしない」
「そんなもんですかね」照れながら笑った。
この服装の効果は覿面だった、週末に街中で話しかけられる事が殆ど無くなり、自分の世界を汚される事はなかった。
次は行動だ。どのように振る舞うかだが、あまり変な事をすると、疾患者への差別に繋がる。そこで、安田さんにヒントをもらった。
「安田さん、行動ってどういう風に変えてみると良いですかね。思いつきません」
「うーん。挨拶を変えてみるとか?」
「挨拶ですか?」
「これも具体的な方法については、宿題ね」とニヤニヤ笑う。
またも家に帰って考えた。偶々テレビを見ていると、バラエティ番組で「おはようございます」と言う挨拶を、わざと大声で言って、笑いに変えていた芸人がいた。(よし、これだ。早速使わせてもらう)挨拶を大声で言う事にした。明日の朝一番で安田試験官に判定してもらおう。
「おはようございまーす!」おなかの底から声を出した。
「アハハハハ。至くん面白すぎ。合格だよ」
「後は言動ですかね」
「いや、ブツブツ言っているから、もうそれはクリアしているでしょ。ようこそ、我々、疾患者の社会へ」と安田さんが言うと、これまでは僕に話しかけてこなかった班員が次々に話しかけてきて、一週間も経つ頃には班員全員の名前と経歴を覚え、作業部屋にいる間は、皆と沢山の会話を楽しむようになった。施設でのこの時間(社会というのだろうか)が非常に居心地良く感じた。
「どうせならば、髪も伸ばせば?」安田さんが意地悪そうに笑った。
施設の仲間は、それぞれ様々な疾患を患っているが、「疾患がある」と言われなければ、『普通』の人と心身共に変わりがない。だからこそ、仲良くなる事が出来た。本当に思考がおかしな人は、作業なんて出来る筈はない。疾患がなくても、テロ行為をする様なおかしな人の方が、世の中に沢山居るではないか。通い始めて三か月が経つ頃にはそう思い始めていた。
通い始めて四か月、施設内での時間が心地良くなって行くに連れて、施設外の社会には興味を示さなくなって行くと共に、自ら外の社会には関わらず、関わられない様に行動した。
僕の髪の毛は元々天然の癖があって、髪が伸びて来ると外側にクルクルと巻き上がる。これまでは、髪が伸びるときれいに短く切っていたが、思い切って髪の毛を伸ばしてみる事にした。髪の毛が耳に届く位までは、施設の仲間から「少し長めの髪型にしてみたのか?」といった反応があった。もっと伸ばして、髪の毛が肩に付きそうになって来ると、毛先が外側に巻いてきた。しかも、髪の毛をすいてから伸ばしていたので、髪の長さがバラバラで、巻きが様々な長さの毛先に出来ている。まるで中世の貴族のような髪型になった。
「至、髪がカールしすぎだよ」と朝一番で安田さんに突っ込まれた。
「お前のあだ名、今日からカール・ルイスな」と笑いをこらえながら安田さんが言うと、作業部屋にいる皆が「カール・ルイスって」と大爆笑している。少し前なら嫌な気分になったのかもしれないが、この仲間とは十分に打ち解けている。
「おはようございます。カール・ルイスです」と大声で言うと、皆が大声でゲラゲラと笑った。あまりにも笑い声が大きすぎたため、小泉さんが心配して部屋の様子を見に来た。
数本の梅が一斉に白い花を付け、春風にそよいでいる。その中の数枚が風に舞い、目の前をひらひらと風に身を任せ流れて行く。この季節、僕は施設の中庭に咲く梅の花を見るのが大好きだった。そして、今日は大好きな安田さんが退所年齢になり、この施設を去る日だ。僕は、安田さんのおかげで自分の居場所を見付ける事が出来た。謂わば、大切な恩人だ。風が止み朝日が中庭に差し込むと、僕は作業部屋へと移動した。中に入ると安田さんが居た。
「至、今日で最後だな。俺の後任の班長に、お前を指名しておいた。後は頼んだぞ」と安田さんは何時になく小さな声で話した。
「安田さん。しっかり引き継ぎます」と言うのが精一杯だった。僕が言い終わるか終わらないかの間合いで、五年前から小泉さんの後任をしている佐野さんが入って来た。
「安田さんから聞いているかしら」佐野さんは僕に確認した。僕は小さく頷いた。
「皆さん、ちょっと手を止めて話を聞いてください。本日で安田さんが退所になります。明日の四月一日からは、宇多田さんが班長になりますので、皆さんよろしくお願いしますね」と用件だけを言い終わると、さっさと部屋を出て行った。
その後も、いつもと変わらぬ作業を行い、夕方五時の終業とともに、僕は仲間と一緒に安田さんに花束を渡した。彼はもう六十歳になる。時が過ぎるのはあまりにも早い。涙もろくなってしまったのか、帰路につく彼を見ると、花束を大事そうに抱えながら、あの安田さんが泣いていた。
これで一つの区切りが付いたのだ。入所したての僕を指導し、助けてくれた、絶大なカリスマを持つ安田さん。今の僕は、当時の安田さんと同じ年齢になっていた。
班長を任されてからも、世間とは自ら隔離し、施設内で自分らしく輝く生活が続いた。気付くと幾つもの季節が流れていた。僕も今日で退所する。安田さんと同じ退所の年齢にすでになっていた。
退所後は、施設で働いて得た賃金を貯金してあるし、障害年金が継続して給付される。また、両親とも健在なので、何とか生活はしていけるだろう。
退所に当たって、母親から言われた。
「あなたは、これまで意図的に世の中から離れて生きてきたのだから、これからは、これまで以上に世の中を知るべきだと思うの。もう、拠り所になっていた施設には行けないでしょ」
「うん。そうだね。でも、具体的にどういう事をすれば良いの?」
「まずは、新聞でも読んで、この世の中の動きを毎日把握してみたらどう?」
「新聞ね。施設でも休憩時間にテレビ欄だけ見ていたよ」
「政治や社会等、世の中で起きている様々な事に目を向けると面白いわよ。あなたの物の見方も変わると思うの」
「どうせ家に居ても暇だから、やってみるよ。ちょうど臨海図書館なら歩いて五分だから、毎日通って読めば良いし」
僕は、あまり考えもせずに、退所翌日の四月一日から毎朝図書館に通った。県内を十地域に分け、各地域の情報を多く載せている、地域に密着した取材が売りの地元紙を、ゆっくりと熟読する事にした。
母親に言われたとおり、新聞というものは面白く、これまで停滞していた脳内の情報を、次々と更新させてくれた。これまでアウトプットしかしてこなかった僕は、新聞によるインプットと、記事の感想を述べる事によるアウトプットを行うようになった。ほんの少しだけではあるが、世間の動きや世間一般に興味を持ち始めていた。
山倉
今日はどこの図書館に行こうか。自宅の車庫で、外車ほど高級ではないが、所有欲を十分に満たす、ホンダが最近発売した、ご自慢のSUV車に火を入れながら思案する。
この車は、スバルとトヨタの車のフェイスを、足して二で割った様な顔つきをしており、一部のモータージャーナリストからはCRバセラーと揶揄されている。言いたい奴には言わせておけば良い。そんな雑音は少しも気にせず購入した、お気に入りのマイカーで何処に向かうか。
そうだ、今日は天気がいいから、海の見える臨海図書館にしよう。九月中旬の温かい陽気に包まれながら、暢気に氷室京介のミスティを、鼻歌でふんふん言っていたらあっという間に図書館に着いた。
臨海図書館は、市営の複合施設の八階にある。一・二階は地区の公民館、三・四階はイベント用の大中小のホール、五・六階は市役所機能のうち、税金や住民票等住民ニーズの高い部署を集めた、市民生活センターがある。
車を駐車場に停め、施設の入口に向かうと、向こうから宇多田が歩いて来る。カールした長髪に赤い野球帽、半袖Tシャツに丈の短いジャージ、鞄代わりの大きなビニール袋を持っている。彼も俺に気付くと、俺に警戒する様なオーラを発した。一緒にエレベーターに乗り、八階で降りる。開館まで少し時間があったので、トイレに行って用を足して戻って来ると、自動ドアの解錠と共に宇多田が、「おはようございまーす!」と大声をあげて中に入って行く。コロナ対策のアルコール消毒や検温もしないで、真っ直ぐに新聞ラックに向かって歩いて行った。
彼に遅れること五秒で入館し、コロナ対策を済ませ、新聞ラックに目をやり、何時もの如く地元紙がない事を確認すると、海が綺麗に見える席に座る。おそらく海というものは、蒼く光り輝く夏の海が一番美しいと思われるが、盛りを過ぎた後の、もの静かな緑色の秋の海にも、十分風情がある。一通り目の前に広がる景色を堪能し、ノートパソコンを鞄から出して作業を再開する。
一時間程キーボードを打ち、頭から首にかけて疲労を感じると、一時休憩して首のストレッチをする。まずは深呼吸をしながら前後にゆっくり動かし、次は左右にゆっくりと。最後に首を左から右に回す、とそこで宇多田が左奥の定位置から、俺をじっと見ているのが分かった。一瞬の出来事だったので、彼が俺を睨んでいるのかどうかは分からなかったが、彼に睨まれる様な事をした覚えはない。
ストレッチを終えると、新聞を持ったまま宇多田がやってきた。
「お前、僕の言動や服装、行動が変わっているって言ったよな」
「ええ、言いましたよ」(そのことで怒っていたのかな)
「悪いけど、お前みたいな『普通』の人には分からないんだよ」
「悪いけど、私は『普通』の人ではないですよ」
「お前は障害・疾患者じゃないだろうが」
「残念ながら私も疾患者ですよ。しかも簡単に直らない疾患ですから、面白く言うと、目一杯疾患していますね」
「えっ、なんだと。じゃあ、なんでそんなに『普通』なんだよ」(宇多田さん、あなた切り替えが早いな。元々頭の回転が速い人なのだな)
「宇多田さん、障害・疾患者も『普通』でいいんですよ。そしてこの世の中で『普通』に暮らすんですよ」
「それはできないからと、安田さんが僕に言ったから、だから僕は」
「宇多田さんが疾患した頃は、その様な世の中だったかもしれませんが、今は『健常者も障害・疾患者も同じ様に活き活き人生を過ごす』というのが広く世の中に認知されていますよ」
「あの頃とは世の中が違うというのか?」
「一言で言うと、世の人の見方が変わったと言うべきかもしれません。現に私は『普通』の格好をして、ここ図書館でも『普通』に振る舞っているから、宇多田さんは私の事を健常者だと思ったでしょ」
「確かにさっき言われるまで、そう思っていた。そういえば前に、『ノーマライゼーション』とか何とか言っていたな」
「それは簡単に言うと、『健常者と障害・疾患者が区別される事なく、共に社会生活を営む事が望ましい』と言った事です」
「俺、俺が区別されない世の中になったと言う事か?」
「なったとまでは言い切れませんが、少なくとも昭和五十年代よりも今日、令和では遙かに意識の違いがありますよ」ついでに、日頃新聞を読めない鬱憤を晴らそうと続けた。
「区別される様にしているのは宇多田さん自身です。区別されようとするから嫌な思いをするし、私みたいに『普通』にしていれば嫌な思いもしない」
「僕はずーっとこのやり方でやって来たんだ。訳の分からない話ししやがって。お前に話しかけなければ良かった」と言うと、来る前よりもクシャクシャになった新聞を握りしめ、定位置に戻って行った。
宇多田
僕は、地元紙を読み終わり新聞ラックに戻すと、図書館を後にして帰宅した。今日、黒い野球帽に言われた事が頭の中から逃げ出してくれず、あいつと話してからは新聞にも集中できなかった。自分で色々と考えてみたが、第三者の意見を聞いてみようと思い、母親に聞いてみた。
「僕って、自分のことを『普通』の人と区別しているかな?」
「『普通』と障害・疾患者を分けて考えているわね」
「いつも金曜日にだけ図書館に現れる、黒い野球帽を被った奴に、今日、自ら区別する必要はないって言われたんだ」
「至がその様に生きたいなら、そうすればいいわよ。これまでの様に分けて生きるのと、どちらが良いかを考えた上でね」
「今の世の中では、昔程、僕達は特別じゃないの?」
「私にとっては、どうであれ至は至。特別な事なんて一つもない。自分に、自分の考えに自信を持って生きればいいの。どう生きるかはあなた次第よ」
「分かった、すごく参考になった。考えてみるよ。ありがとうお母さん」
その夜、僕は真剣に考えた。今後どの様に生きていくべきかを。自分の脳でしっかりと考えた。誘導される事もなく。
山倉
黄金色に色づいた稲穂が頭を垂れている。稲刈りにはまだ早い九月の上頃のある金曜日、俺はいつものルーティンで、臨海図書館に向かった。駐車場に着いたのは午前九時半頃だったが、駐車場は大変混んでいて、かろうじて駐車スペースを確保する事が出来た。なんでこんなに混んでいるのだろうと不思議に思っていると、施設の入口に「海の幸DE食の陣」と幟が沢山立っていた。ああ、なる程。イベントホールで食のイベントがあるのか、と思うも、(今日は平日だぞ、客が来ないでしょう?あれ、でも駐車場はほぼ満車だしなぁ、おかしいな)施設の駐車場を諦め、近隣の有料駐車場に車を止めた人達が、続々と施設の中に入って行く。(あれ?なんか変だな)と思うが先か、
「あ、今日は祝日だったわ。休職期間が長いと、曜日感覚がなくなるなぁ」と自嘲気味に呟いていた。
施設にはエレベーターが三基あるが、イベントのせいで大変混み合っていた。施設の入口から図書館まで五分もかかりやっと中に入った。いつもの通り海の見える席に座り、ノートパソコンを開く。キーボードを打ち始めて暫くすると、宇多田が新聞を定位置においたまま、珍しく体一つでやって来た。
「おい、これどうかな?」宇多田が照れくさそうに言った。彼を見上げると、上は白いシャツに下は紺のチノパンと言う服装だった。右手にはビニール袋の代わりにポーターの黒い鞄を持っていた。
「良いじゃないですか、宇多田さん。特に、ビニール袋から脱却出来たのは大きいですよ」
「似合うかな。隣の街のジーンズショップで買ってきたんだ」とさっきよりも照れながら聞いてきた。
「似合いますよ。こっちの方が自然でいいですよ。決して『普通』で。と言う意味ではなくて」
「あれから一生懸命自分で考えた。まずは格好や持ち物から自分の好みの物に変えてみようかなって。今日はイベントがあっていろんな人が来るだろ、沢山の人に見られると思ったから今日から変えてみた」
「そういう思考って凄く良いと思いますよ」
「ありがとうな。今更だけどお前、名前なんて言うんだ?」
「私は山倉捕一です」
「はははは、お前のお父さん、余程元巨人の山倉捕手が好きだったんだな」
「そうなんですよ。小学校の頃は、友達から馬鹿にされて嫌でした」
「それで黒い野球帽被っているのか?」
「いえ、これは作業に煮詰まった時に、オンとオフのスイッチを入れ替える為に被っています」
「作業って、お前何をしているんだ」
「パソコンでワープロソフトを使ってリハビリしています」
「リハビリって言うと?」
「実は今、仕事休んでいるのですよ。疾患が悪化して。それで、仕事に復帰する為のリハビリとして、パソコン作業をしているのです」
「お前も色々と大変なんだな。俺はブツブツ言う癖ぐらいだけど、人によってそれぞれ症状が違うからな」
「宇多田さんのブツブツ癖も、多分訓練すれば治せると思いますよ。だって、長い間の『区別』という呪縛から、自らを解き放ったじゃないですか。人間は色々な可能性がありますから諦めずにやれば出来ますって」
「そうか、お前は前向きな奴なんだな。俺も、ブツブツ言う癖を治すリハビリしてみようかな?」
「その前に言わせてもらいますけど、地元紙を二時間以上独占するのは、ルール違反だと思います。まずリハビリの前に、そこから直してください」
「なんだ、図書館だから自由に読んじゃ駄目なのか?」
「図書館でも、特に新聞は普通図書と違うじゃないですか。せいぜい一時間ですよ」
「分かった。図書館の職員と話してみて、問題があれば読む時間を短くするよ」宇多田さんの顔がはつらつとしていた。これまで陰から見つめ、相手に正視されると目を背ける様な、捨て猫の如き雰囲気を漂わせていた宇多田さんは、もう過去の中に消えていた。
「今日から、お前のこと山倉って読んでいいか。一応、僕が年上だし」
「どうぞ。私は今まで通り宇多田さんで」
「おう、よろしくな。お前と話していると気持ちが軽くなるぜ」
「宇多田さんの下のお名前は?」
「至だ」
「宇多田ヒカルみたいですね」
「誰だそれ?」
「女性の歌手ですよ。テレビでよく見かけますよ」
「そうか、帰ったらテレビを見てみるよ」と言うと、定位置に戻り、新聞ラックに地元紙を戻すと、図書館の職員と何やら相談していた。五分程度の相談が終わると、意気揚々として帰って行った。
俺は、中央図書館で閲覧できる新聞数の多さに、後ろ髪を引かれながらも、休館日を除き週に三日は臨海図書館に行くようになった。開館と同時に行っても、一時間待てば地元紙を読む事が出来る様になったからだ。いつもの席に座り、宇多田さんの新しい定位置をのぞき込んでも、かつてのだらしない姿はない。
彼はあの日、図書館の職員からやんわりと指摘されたようで、新聞に折り目が付かないよう、新聞ハンガーが汚れないように、テーブルに紙面を広げて新聞を読むようになっていた。
皺もなく綺麗に読み終えた地元紙を、新聞ラックに戻すと、俺の席にやってきた。長く伸びカールした、ルイ十六世のような髪は、白髪の目立つ六十代でも若々しく見える、短めのソフトモヒカンに変わっていた。
「宇多田さん、髪型変えたんですね」
「姪っ子が美容室をやっていて、お任せで切ってもらったら、ソフトムヒカンってやつにされたよ」
「ソフトモヒカンですよ」
「似合うか?」また照れながら聞いてきた。
「良い感じで似合っていますよ」
「そうか。それより、山倉は何をパソコンで打っているんだ?」
「いやあ、お恥ずかしいのですが、リハビリで小説を書いています。リハビリとしては、いろいろな面で効果的かなと思いまして」
「小説を書いているのか。僕も昔、書いていた事があった」
「宇多田さんもですか。奇遇ですね」
「自慢じゃないけど、大賞を取りかけた」
「凄いじゃないですか。でも、取りかけたというのは?」
「受賞の連絡を受けた親父が、返す刀で辞退した。僕に家業を継がせる為にな。小説家になる芽を摘まれたんだ」
「それは・・・」
「お前が気にするな。僕はとっくの昔に清算しているから大丈夫だ」
「なら良かったですけど」
「完成したら僕に見せてくれ」
「いいですけど、学生時代の恋愛体験を基に書いた、駄作かつ私小説ですよ」
「謙遜するなよ。太宰治も私小説を書いているだろう」
「出来たら、プリントアウトしてお渡しします」
「おう、ありがとう」そう言うと、彼は図書館を後にした。
宇多田
山の麓にある実家の茶の間で、毎日恒例となっている午後のお茶を飲んでいる。この家は、江戸時代から続く造り酒屋の為元々の造りが古く、幾度かの改築を行っている。現在は玄関を入って真っ直ぐに土間があり、土間の左側に茶の間及び仏間と納戸、右側に寝室二つと客間という間取りになっている。土間の奥に台所と便所があり、更にその奥で蔵に繋がっている。蔵は、両親が高齢で引退した際に、偶々、全国各地の日本酒を飲み比べする程の日本酒好きで、醸造過程にも興味を持っていた、従兄弟の大ちゃん夫妻が経営を引き受けてくれた。お茶をすすり終わると、母親に聞いてみた。
「お母さん、僕のブツブツ言う癖を治す方法はないかな?」
「そうね。まずは、家の中でどういった時にブツブツ言うのかを観察してみたらどう?」
「観察って?」
「お父さんと私が、至がブツブツ言っていたら、『言っているよ』って指摘してあげるから。その時どんな気持ちで、どんな事を考えていたかをあなたが分析してみるの」
「気分や思考とブツブツ言う癖が、どの様に結びついているのか、確認するって事か」
「そう。早速今日からやってみない?」
「うん。やってみるよ。よろしくね」
「それにしても、あなた最近ずいぶんと変わって来たわね」
「臨海図書館に来る黒い野球帽、いや、山倉って奴が色々と教えてくれて。なんて言うか、急に視界が開けた様な気がするんだよな」
「至はその方と縁があるのよ。良かったわね。大事にしなさいその縁を」
その日から、両親に協力してもらいながら、僕は自分自身を注意深く観察した。緊張すると癖が出るのは昔から分かっていたが、他にも関係のありそうな事がないか、注意深く探る事にした。
金曜日、いつものように臨海図書館に通うと、山倉が遅れてやって来た。山倉はいつもの席に向かわずに、こっちに向けて歩いて来る。
「山倉、おはよう」
「宇多田さんおはようございます」
「今日はパソコンを打たないのか?」
「いや、打ちますけど、その前に宇多田さんにこれを渡そうと思って」と言うと、山倉はA4の茶封筒に入ったものを僕に差し出した。
「なんだこれ?」
「宇多田さんが、小説出来上がったら見せろって言ったじゃないですか」
「ああ、もう出来たのか?」
「一応、形にはなったと思います」
「よし、家に帰ったら僕が推敲してやる」
「お手柔らかにお願いします」と言うと、山倉はいつもの席でノートパソコンを広げた。
A4用紙で四十枚。原稿用紙にするともっと紙が増えると思ったのか、余白も少なくびっしり文字が書かれている。タイトルは「夢と微熱」。小粋なタイトルにしやがってと笑う。
僕は、山倉が初めて書いた小説を読み始める。どこまでが実話でどこからが創作かは分からないが、なんとなくあいつの現在と過去が垣間見える。僕が通所していた頃、あいつはこんな経験をしていたのかと思うと、歯痒い気持ちにもなる。最初は、かつて受賞しかけた僕が推敲して、より良い作品にしようと思ったがやめた。これはあいつが一生懸命、自分自身で一から書いた処女作なのだ。そしてあいつはプロの作家ではない、リハビリ作家だ。
僕が批評するとすれば、処女作なので文書力や表現力、構成力はまだまだといった感じだが、読後感が非常に良い。そう思うと同時に、コンテストに出してみても良い作品ではないかと思った。明日あいつに勧めよう。僕が原稿を読み終わると、茶の間にいるお母さんに呼ばれた。
「至。お父さんとも話したんだけど、あなたは一人で居るとブツブツ言うみたいよ」
「他の人も一人だとするでしょ。だから独り言っていうんだよ」
「茶化さないで聞きなさい。あなたの場合は、その声が人よりも大きいというのが問題でもあるけど。それより、自分の近くに誰かが居ると、ブツブツ言わないって事に気付いたのよ。お父さんや私と一緒に茶の間に居ると言わない。でも、あなたが納戸に居たり、土間の向こう側に居たりすると言うの」
「傍に人が居ると言わないって事?」
「そう思うのよ。ね、お父さん」
「お前が緊張した時に言うのは、疾患の症状だから仕方がない。けど、周りに誰かいる状況を意図的に作れば、ブツブツ言わなくなると思うぞ」
「早速、明日図書館でやってみるよ」と言い、思い出してみる。通所作業所ではいつも作業部屋に仲間が居たから、独り言を言う事もなかっただろうし、仲間から指摘される事もなかった。図書館ではどうだろう。目の前は海で、俺が座ると密になるので誰も座りたがらない、三脚しかない申し訳程度に設えられた椅子席に陣取っていた。後ろは雑誌のラックで、背後を取られる事もない。
そういえば、図書館利用者は、殆どテーブルのある席で読書や、パソコンを使って作業をしている。一番近いテーブル席は初期に山倉が座っていた席だが、山倉が椅子をテーブルに近づけて座ると、死角になって、あいつが居ることも分からない事もあった。つまり、僕は一人で居る気になっていたという事だ
今でも、僕の一番近くに座っているのは山倉だが、より見晴らしが良い席に変えた様で、初期よりも奥に座っている。ここで、ハッと気付いた。ひょっとしたら山倉が席を変えたのは、俺がブツブツ言うのが五月蠅かったからではないか。でも、あいつは嫌な素振りを見せずにいた。
あの日の中年女性二人組の様な事も言わずに、座る席を変えた。景色が良いとの理由で。僕は申し訳なく思った。これまでは、ブツブツ言おうが、何と思われようが、僕は疾患者だから仕方ないと決めつけ、世の中とは関わらず隔離して生きてきた。しかし、僕の努力で改善し、皆が気持ちよく過ごせるのなら、それに越した事はない。殻に閉じ籠もっていては何も生まれない。やっと僕の中で膨らみ始めた小さな蕾が大きな花を咲かせようとした。
山倉
俺は今日も暢気に鼻歌を歌いながら車を走らせる。今日の歌は、あいみょんの猫だ。この曲は、あいみょんが歌った方がしみじみとして良い、という変なこだわりがあるので、カーオーディオからも彼女の歌声が聞こえて来る。
臨海図書館につき、いつもの席に座ると、宇多田さんがやって来た。
「お前の隣に座っても良いか?」
「どうぞ」
「お前に頼みがあるんだけどいいか?」
「どんなことですか?」
「僕がブツブツ独り言を言ったら教えてくれ」
「ああ、それですか。全然構いませんよ」
「頼むぞ」と言うと、いつもの様に地元紙をテーブルに広げ読み始めた。
俺は、ノートパソコンを広げたまま、暫く隣の席に意識を集中した。十分経過、二十分経過しても宇多田さんからは独り言が聞こえてこない。そのまま三十分が経過した。
「宇多田さん、この三十分間、全然ブツブツ言いませんでしたよ」
「本当か?」
「前なら、『疲れたー』とか『本当かよ』とか、思った事をそのまま口にしていましたけど、今日は皆無です」
「やっぱりそうか。実は、家族みんなでブツブツ言う原因を探していてさ。周囲に人が居ると、ブツブツ言わなくなるのではないか、という仮説が出たんだ」
「それを今ここで実証してみたと」
「そういうことさ。お前にしか頼めないから」
「良かったじゃないですか」
「お前のおかげだよ、本当に」
「いえ、自分を変える事ができた、宇多田さんが素晴らしいのですよ」
「そうそう、素晴らしいと言えば、おまえの小説。あれ、コンテストに出してみろよ」
「それ、本気で言っていますか?」
「本気だよ。まだまだ足りない部分はあると思うけど、処女作としてなら、新人賞狙えるかもしれないぞ」
「そういえば、近々締め切りで、新人の処女作に限ったコンテストがあったような・・・」
「お前、それに出してみろよ」
「ちょっと考えてみますね」とは言ってみたものの、家に帰ってネットで調べると、大賞は賞金五十万円も貰えるらしい。賞金に目が眩んだ俺は、直ぐにネットで応募した。
宇多田
地元紙を読み終わった僕は、図書館から帰宅し、両親に報告した。周りに人が居るとブツブツ言わないという仮説が立証されたと。両親は喜んでくれた。お父さんは、
「緊張してブツブツ言っても、周りに人が居たら正直に、『緊張するとブツブツ言ってしまう癖があるんです』と言えば良い。堂々と生きなさい」と言ってくれた。お母さんも、
「お父さんの言った事を受け入れて生きればいいわよ」と励ましてくれた。高校生の時に疾患になるまで、「家業を継げ」としか言わないと思っていたお父さん、そしてそれに対して何も言わなかったお母さん。ようやく今になって分かった。口に出して言うか言わないかの違いだけで、こんなにも僕の事を想い考えていてくれた事を。僕は、
「お父さんお母さん、本当にありがとう」
と強い気持ちを込めていった。
山倉
それから一か月が過ぎた。臨海図書館に行くと必ず宇多田さんと挨拶をし、世間話をする。今日は宇多田さんの髪が少しカールしてきたので、中世の貴族になる前にカットしたらどうか、とアドバイスをしてきた。そんな特段何もない平日の午後三時。図書館でのリハビリから帰ってきて、疲労から体が怠くなり始めるこの時間帯に、携帯電話が鳴った。
「もしもし、私、執刊社の中田と申しますが、山倉補一さんの携帯電話で間違いないでしょうか?」
「はい、そうですが」
「初めまして。先日は、弊社の新人賞にご応募いただき、ありがとうございました」
「いえいえ。駄作ですが」
「実は、山倉さんの『夢と微熱』が大賞を受賞いたしまして」
「え、本当ですか?」
「はい、大賞を取られました。賞金の受け取りや、電子出版等、各種詳細は応募時に入力いただいたメールアドレスにお送りしますので、これから読み上げるアドレスで間違いないかご確認をお願いします」中田さんは、何のひねりも面白みもない、俺の味気ないメールアドレスを読み上げた。
「はい、間違いありません。再度確認しますが、本当に大賞の受賞ですか?」
「はい、山倉補一さんが、執刊社処女作新人大賞を受賞しました。本日は、その連絡でお電話いたしました。詳細は追って送信する電子メールをご覧いただきたいと思います」
「わかりました。ありがとうございます」
「では、失礼いたします」と言うと中田さんからの電話は切れた。(うおー。大賞受賞だ。賞金何に使おうかなー)取り急ぎ、妻にラインで連絡をし、近い週末にでも家族で外食しに行こうと伝えておいた。(あとは、自分へのご褒美だな。バイクのホイールを、今付けている錆の目立ち始めてきたスポークホイールから、新品のキャストホイールに変えよう。これは大金がないと、ちょっとやそっとでは出来ない。今しかないでしょ。残りは貯金するとしても、数万円程余りそうだな。どうしようか。そうだ、コンテストへの応募を勧めてくれた、宇多田さんと飲みに行くべきだな。彼も喜ぶだろうし。酒が飲めるかどうかは知らないけどね)
翌日、臨海図書館に行き、宇多田さんを見つけると話しかけた。
「宇多田さん、実は執刊社の新人賞で大賞取っちゃいました」
「本当か?おめでとう。あの作品なら、可能性はあると思っていたよ」
「ありがとうございます。宇多田さんのおかげですよ」
「お前があの小説を書いたんだから、お前のおかげだ」
「それで、お願いがあるんですけど」
「何だ?」
「次の金曜日、夕方飲みに行きませんか?賞金も出るので」
「飲みって、お酒か?」
「そうです。飲めなければノンアルコール飲料も、ソフトドリンクもありますし」
「大丈夫だ。医者からは飲むなと言われているけど、家は造り酒屋だから、週に二回は家で、ラベルを貼り違えて出荷できない日本酒を飲んでいる。というか、処理をしている」
「では、決まりですね。店は私が予約しておくので、来週の金曜日夕方五時、ここに集合しましょう」
「おう。外で飲むのは初めてだ。ありがとうな」照れ笑いしながらも、顔は青年のように興奮で赤く染まっていた。
十月の下旬、五時になるともう外は、夕日が沈んで直ぐに現れる蒼の時を迎える。妻に図書館まで送ってもらうと、八階に急ぐ。図書館の中で全国紙を読んでいる宇多田さんを見つけると、彼に声をかけ、俺は予約した店へと宇多田さんを連れ出した。店は彼の家と臨海図書館の中間にある海鮮の美味しい小料理屋で、入店すると宇多田さんの家で造っている地酒の樽が置いてあった。宇多田さんは、
「これ、家の酒」と自慢げに言う。
「いつも愛飲していますよ」と話を合わせる。
「お前は、巨人戦見ながらビールって感じだけどな」
「だから、山倉イコール巨人じゃないんですってば」
「あははは」
「宇多田さん、こっちの個室です」と四人用の個室に入り寛ぐ。今日の宇多田さんは、何を思ったのか、上はベージュのジャケット、パンツはネイビーのコーデュロイを履いていた。俺は、いつものパーカーとカーゴパンツというラフな服装。
「宇多田さん、今気付きましたが、どうしたんですかそのかしこまった服装」
「いや、今までの人生で初の飲み会だからよ。おめかししないとな。遠くにあるユニクロって店で買って来たんだよ。姪っ子に連れて行ってもらってさ」
「では、今日は記念日と言うことになりますね」
「まあ、そうだな。まずは何を飲む?」
「ビールは飲めますか?」
「いや、飲んだことがない」
「じゃあ、いってみましょうよ。殻を破らないと」
「そうだな。いっちょう殻を破ってみるか」と大声で笑う。非常に心地の良い笑い声だった。
お互いの生ビールが届くと、乾杯をした。
「山倉の受賞に」
「宇多田さんの人生に」
「乾杯!」
宇多田さんは、俺が生ビールを一気に飲むのを見ると、恐る恐るではあるが、一口だけ喉に流し込んだ。炭酸でむせると、
「苦いなぁこれ」と言った。
「もう少し飲み続けると、その苦さが堪らなくなりますよ」と俺がフォローすると、
「そんなもんか」と彼はグビグビと飲み始めた。
「確かに、最初よりも苦くなくなってきたな。喉を通る時の爽快感が心地良いな」と、お気に召したようだった。
たかがビール、されどビール。宇多田さんは、躊躇なく新しい事に挑戦出来る人になっていた。
その後、宇多田さんはこれまでの人生について話しだし、俺も発病から現在に至るまでの経緯を話した。そこには、同じ疾病者としての傷のなめ合いはなく、お互いの過去を単に教えただけだった。また、宇多田さんが通っていた通所施設での、安田さんの考え方について議論するものの、酔っぱらい同士のため、議論は踊りっぱなしだった。
安田さんの主張を宇多田さんから初めて聞いた時、暫く考えてから俺はズバリ言った、
「安田さんは施設の仲間を、学生運動の延長として見ていたんだと思います」
「どういうことだ?」
「疾患で頓挫した学生運動の代わりになるものを、施設で続けたかった。つまり、班員を自分の主義主張に従わせ、自らは班長として組織のトップにいたかった。そして、社会に対し隔離という意味の無い戦いを仕掛けた」
「それがお前の感じ取った安田論か?」
「私に言わせるとそうなりますね」
「あの頃の恩人で、もう他界しているから、悪くはいえないな」と遠くを見ながら、宇多田さんはお茶を濁した。
その後どれだけ飲んだか覚えてはいないが、最後にがっちりと握手をして散会した事だけは覚えている。
火曜日、臨海図書館に行くと、いつもの席に宇多田さんがいた。
「先日はありがとうございました」と言うと、
「こちらこそありがとうな。楽しかったよ」
「実は私、あまり覚えていないんですよね」
「そうか。『俺、来世はボインちゃんと結婚したい』って言っていたぜ」
「いやいや、まずこのご時世で、ボインちゃんって言わないですから。巨乳の子って言いますから。それにボインちゃんなんて単語は、図書館にはふさわしくないですよ」
「逆に、ここは図書館だから、ボインちゃんの本の一冊や二冊はあるだろう。お前借りて来いよ」
「嫌ですよ。なんで俺が『ボインの本おいてありますか?』なんて聞かなきゃいけないんですか」
「あははは。まあ、そうだな」
そう笑うと、宇多田さんは目の前に広がる海を見た。俺も宇多田さんの視線の先を見ると、秋の心地よい日差しと柔らかい潮風を受けたカモメ一羽が、気持ちよさそうに蒼い絨毯の上を飛翔していた。
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