見出し画像

20230211 内的自然と外的自然

先日参加させてもらった里山を守るプロジェクトのシンポジウムで習ったんだけど、日本人がもともと暮らしてきた集落には、自分たちが生きるために侵してはいけない自然の聖地みたいなエリアがあって、みなが共同でそれを守ってきていたんだそうだ。

https://commons-symposium.peatix.com/view

例えば飲み水は山に降った水が湧き出た泉とか地下の井戸からくみあげて使っていたから、その水源の森の木は切ってはいけないし、その森の管理は村人がみな総出でやっていた。

当時、この共同作業のことを仕事といい、生きるための賃金の為に働くことは 稼ぎと言っていたとか。そして、その仕事には必ず遊びが組み込まれていたんだそうだ。水源や里山の整備の後には必ず直会があってお金なんて出さなくても、そのときとれた地のものや山のものをみなで食べながら楽しんだ。そしてその集大成が祭りだ。

そう仕事と遊びは必ずセットだったんだ。

ところが水道が引かれてお金さえ払えば蛇口をひねれば飲み水が供給されるようになると、水源の維持管理は誰かがやってくれるから、そこに住む人たちには山に入ってする作業は意味のないことになる。
そうしてやがて水源を維持する共同作業に人々が加わらなくなる。

この共同作業というのは自然相手だから集落ごとに千差万別、学校なんかでは教えてもらえないからどうしたって長老みたいの人に教えてもらわないといけない。でもそれが水道のせいでなくなって、共同作業がなくなると、水源が荒れ、里山が荒れて竹藪が広がり、土砂崩れが起きる。

さらに自然から離れた二代目三代目の村人は地域の繋がりを失い村を捨て、先祖から受け継がれた大切な土地を手放すようになる。そうなるとそれを二束三文で手に入れた大手業者が産廃を埋めたり、土地を開発してソーラーを立てたり、違法開発が始まり取り返しのつかない、人が住めない山野が出現する。

この共同で自分たちの生活の基盤である自然を守り、自然に接して自分たちを守っていた時に生まれる感性を「内的自然」というらしい。
一方でその対にあたる「外的自然」とはその土地にある自然環境のことなのだが、自然と言っても江戸時代以前の日本人は自分たちの暮らす地域を適度に共存できるように維持管理してきたために、この外的自然環境の整備を通して様々な学びを得て、その中で内的自然を培ってきたそうだ。

そして内的自然を持っている人は、自らの暮らしている地域の外的自然を壊すようなことはしない。安易にごみを捨てたり、生き物を粗末にしたり、自然を踏みにじったりしない。それは自らの生活を脅かす行為だからだ。

ここにきて少しずつ注目されてきた、大切な水源とか里山とか竹林の維持整備のグループって言うのは、内的自然を取り戻したい人たちが声をかけて動いているんだろうと思う。
今回のシンポジウムはそのことに気づかせてくれるとても有意義な時間だった。

どうやら私の中にも内的自然の遺伝子が残っているようだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?