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大西祝「社会主義の必要」現代語訳

大西はじめは、明治期の最も重要な哲学者の一人であるが、一般の知名度は必ずしも高くないようである。最初に人物紹介をしておきたい。

大西祝(操山そうざん)(1864(元治元年)ー1900(明治33)年)は、カントの批判哲学を初めとするドイツ観念論あるいは理想主義の哲学を日本に本格的に導入した哲学者であり、「啓蒙」という訳語を作ったことでも知られている。同志社で新島襄のもとに学んだ後、東京大学哲学科と同大学院を卒業。その後は東京専門学校(後の早稲田大学)に招かれて倫理学・哲学・心理学などを教えた。またキリスト教徒として東京基督教青年会の総合雑誌「六合雑誌」の編集にも携わり、自由主義的、反国家主義的な立場で数多くの評論を発表した。明治31年にはドイツに留学し、帰国後は新設の京都帝国大学文科大学の学長および哲学科の初代教授になることが決まっていたが、着任する前に病没した。大西の仕事は、西田幾多郎をはじめとして後の哲学者に大きな影響を与えた。

「社会主義の必要」は、大西祝の評論の中で、最も広く知られているものの一つであろう。明治29年11月に「六合雑誌」の時評の欄に無署名記事として発表されたものである。この記事を一つの契機として、「六合雑誌」には社会主義に関する啓蒙的な論説が多数掲載されるようになった。日本における社会主義の受容の初期には、キリスト教社会主義に基づく人道的な立場が大きな役割を果たしたが、それを代表する評論である。

大西の仕事は、2013、4年に小坂国継の編集により、哲学篇、評論篇、倫理学篇の3巻からなる『大西祝選集』(岩波文庫)にまとめられ、以前よりもはるかに容易に手にすることができるようになった。この現代語訳の底本としても、『大西祝選集Ⅱ(評論篇)』に所収のものを用いた。

現代語訳「社会主義の必要」

大西はじめ 著、上河内岳夫 現代語訳

 日頃、一新聞の論じる所を見ていると、言っていることがある。言うことには、「嫌悪すべき社会主義を、未発に防がなければならない」と。社会主義というものは、果たしてそんなに憎むべきものなのか。このように考えるのは、これはただその主義がその極端の弊害に陥るのを見て、そうしてこれをその真意であるとする過ちである。世に言う社会主義論者の唱える所に迷信があるだろうと言っても、また社会主義に対して迷信を抱いている者が甚だ多い。ことに家柄もしくは財産などをもって自分の安居とする者は、社会主義が何であるかを深く考えずに、ひたすらこれを蛇蝎視して、この主義を唱える者と言えば、ただ羨望の念に動かされて富貴にいる人を憎むほかに思う所がない者のように考えている。たとえこのような偏見をもって社会主義を見ない者でも、ただ「虚無党」または「無政府党」の名を恐れて、社会主義の根底を見ない者が甚だ多い。そのように世間には現在の制度や組織のほかに、その胸中に何ものをも抱くことができず、その脳裏に何らの光明をも入れることができない者が甚だ多いので、社会主義を唱える必要はいずれの世においても、なくなることはないのである。もし大きな同情をもって社会の不公平のために苦しめられる無数の人々を見る者が、今少し多ければ、社会主義を唱える必要も少ないだろうが、今の世間の状態はそうはなってはいないのである。

 あるいは、言うことには、「我が国のような国は、貧富の懸隔がなおいまだ欧米におけるように甚だしいものではない。今社会問題をしきりに語るのは、狼狽に過ぎたもので、我が国の現時の状態においては、実際に社会問題はいまだ発生していない。貧富の大きな懸隔があるのに加えて、貧者が知識を増して自己の状態が憐れむべきことを意識し、したがって不平を抱くようになるのでなければ、社会問題はいまだ存在するとは言うべきではないのである」と。もしこのような弁解で社会主義を唱える必要を覆い隠そうとするならば、これは一つの浅薄な詭弁に他ならない。なるほど貧者がいまだ不平を多く抱いて、互いに呼応して起つことがなければ、現今の欧米に見るような貧富の軋轢は存在しないだろう。されどもし「貧者が自己の状態を顧みて、これを不満足に思わなければ、彼らを救う道を講じるに及ばない」と言うのならば、これはあたかも「愚者が自らその愚を感じなければ、彼は不幸な者ではない」と言うのと同じで、貧者が自ら社会の不公平を感じなくても、その不公平が実在すればこれをいやす必要があるのである。貧者がもし貧しさのゆえに、その身体上および精神上の修養に失う所があれば、当然なすべきこととして、彼らにまず早く自己の状態に対する不平を起こさせ、その状態を脱するという志望を抱かさねばならない。彼らにそのような不平を抱くようにさせず、知らず知らずのうちにその憐れむべき状態を脱却させるというのは、これは言うことはできるが行われないことである。もしいやすべき社会の不公平があれば、当然のこととして早くその人にその不公平を感じさせるべきである。貧者が不平を起こすことが遅いのは、かえって貧富の間に生じるであろう社会問題をさらに困難なものにさせると言わなければならない。

 壊すべき悪平等、除くべき不公平が、社会にどれくらいあるかはそれぞれの場所で同一ではないが、それが全くない社会を見ることはない。ことに我々が生活する現在の社会といったものには、排除すべき不平等がどうして少ないことがあろうか。このような不平等をなるべく排除すると言う意味の社会主義は、いずれの社会であっても、これを唱えるべき必要がなかったことはない。人類社会の理想が、サン・シモン一派の人が言うように「各人が自己の真実の功にしたがって、その報酬を得る状態」にあるか、あるいはある社会主義論者らが言うように「全く平等の分配をなす状態」にあるかを、私は今ここで論じることはしない。また、国家が社会主義を実行することにおいて、どれほど効力を持つべきものであるかを論じることはしない。とにかく現在の社会において、除去すべき不公平が少なくないことは、覆い隠すことができない事実であると考えている。無能で名ばかりの地位を守り、虚勢を張る者がなんと多いことか。世間に入れられない不遇、その居所を得られない者がなんと多いことか。自転車に乗って日夜逸楽をこととする者があれば、睡眠や食事を欠いてその力を働かせてもなおその口を糊することができない不幸な子供がいる。そうしてなぜそうであるのかと尋ねると、単に一人は富貴の家に生まれ落ち、他は貧賤の中で成長したという区別があるだけである。懶惰な者は、その所有する物を失うだろうと言っても、勤勉にすれば必ずしも物を得られるというわけではない。社会に設けられている種々の規定のため、差別のために、その勤労に値する物を得られない人々が多いことは、我々が実見する世相ではないだろうか。仮に黄金の多少はことさらに嘆くべきほどの大事ではないとしても、社会の不公平な制度のために、精神上の修養を欠く者がなんと多いことか。富者・貴人は罪悪を犯しながら、なおその跡を糊塗しやすく、貧者はパンを得ることの難しさに苦しんで法の網にかかりやすい。仮に公正は完全な平等ではなく、各自の所得がその功に比例することにあるとしても、現在の社会がこのような公正という理想から遠ざかることが甚だしい。そうしてこのような意味での「公正」を実現することが、現在に優る「平等」をもたらすのは、疑いをいれないことであろう。誰が現在の社会に壊すべき不平等は存在しないと言うだろうか、その不平等を除こうとする社会主義の精神は、いずれの世において不必要になるだろうか。

 このような社会において宗教が世間的な差別に媚びることをすれば、これは宗教の精神を失っていることになる。このような不平等に向かって医薬を投じるのが、宗教の一大目的ではないだろうか。それなのにややもすると宗教家は世間に従い世間の役に立つと称して、貧富貴賤の差別に媚びようとする。今日において、私はなお一層声を高くして平等の福音を唱える必要を認める。弱肉強食・富勝貧敗が世間の一大事実であればこそ、宗教が弱者・貧者の友であることを必要とするのではないだろうか。なぜ今の宗教家は富者を呪う勇気がないのだろうか。利己主義・闘争主義が人類社会の進歩の一大動力であり、またこれが実際に大いに行われつつあるものなればこそ、宗教家はその反面に立って、その弊害を矯正する責務があるのではないだろうか。利己主義の一面のみをもって、人類の進歩が全うされるはずもない。それでも人はややもするとこの方面に走ろうとする。宗教が博愛を説き、大慈悲心を説いて一視同仁の平等観を主唱しなければ、どういう人がよくこれを矯正することができるだろうか。国家が神聖な名目のもとで多くの不義を働きつつある時に、もし宗教家がこれを叱責する勇気がなければ、誰が叱責することができるだろうか。社会の不平等のために苦しめられる数多くの不幸な人々に、平等の楽地を与えるのは、宗教の本務ではないのか。それなのに宗教家は自分の宗旨の一時の虚勢を張るのに都合がよいことから、ややもすると種々の階級的、血統的、財産的、権勢的、国家的、世間的差別に媚びようとするのは何と言うことであろうか。

 仏教といったものは、世間の不平等に対して厳しい平等観をとるのが、その特色であるべきなのに、平等を言うのは沈思瞑想の上における哲理にとどめて、これを世間に実行する勇気を欠く。「差別即平等」という言葉はすこぶる美しいが、ややもすると俗世間の差別を見逃すという微温的な調和に出ようとする。「真俗二諦」の区別は、妙はすなわち妙であるけれど、これまた俗に媚びるのに都合がいい逃げ口上となろうとする。世の中に家柄的差別は有り余っている。自ら設けた爵位を自ら帯び、自ら定めた年金を自ら配分して、傲然と世間に臨んで無知の民にその虚栄を崇拝させようとする者は有り余っている。そうしてその虚栄を張る費用は、民の膏血[辛苦して得た財産]から得るのに他ならない。このような虚栄を糞土とみなし、衆庶に対してこのような世間の不平等を冷眼視させる平等の地を開くことをせず、かえって自らがそのような虚栄中の一人であろうとするようなことは、何という怪事であろうか。仏弟子である高徳を具備しているか否かにかかわらず、世襲的な家柄を踏んで、愚かな門徒から「生き仏」と崇められて、その門徒の粒粒辛苦になる財を集めて大厦楼閣[大きな建物・高い建物]に栄華を極めるといったことは、宗教家としては言語道断と言わなければならない。このようなことをもって、衆生に安心を与える方便とするようになると、宗教もまた一つの悪戯に過ぎないのである。釈迦が階級的な制度を打破しようとしたというようなことは、平等を空理にとどめないで、世間で実現しようとしたもので、これは明らかに社会主義の精神に動いたものではないのか。

 ユダヤの預言者のような者はまた、社会主義を唱道する者でなくて何であろうか。イザヤのような者は、その最も偉大な者である。心を潜め、先入観を取り去って、福音書の中のキリストの教えを読む者は、誰がその教えに社会主義が歴然としていることに気づかないだろうか。「貧しき者に福音を伝える」とは、これは片時もキリストの口から離れることのない言葉ではないのか。彼は、たびたび富者を𠮟責したのではないか。彼は富の力に媚びようとした者ではなく、社会の階級にへつらおうとした者ではなく、彼はむしろこれを無視したのである。学者とパリサイ人[ファリサイ派]とは、彼の口から甘い言葉を聞くことができなかった。彼は、貧しき者、身体に障害がある者、病める者、徴税人、罪人、無学な者、労働者の友をもって任じていた。富める者はその所有する物を売って彼に従わなければならなかった。貧者に金を貸すのに利子を取るという心を持ってしてはならなかった。天国において大なる者は、己を棄てて最も多く他者に仕える者である。欧米の社会組織に適応させるために、キリストの社会主義的な説教に微温的な解釈を下すのは誤りである。キリストが言うところの「富める者」「貧しき者」には、注解者が「精神上の意味」と名づける微弱な意味を与えるべきではない。キリストの説教が、実際にどれほど正当に行われるべきかにかかわらず、彼が描いた、そうしてこの世に招来しようと欲した「神の国」に、社会主義が歴然としていることは決して覆い隠すことができないのである。初めにキリストの教えが広まった一つの原因は、それが社会主義を帯びていたことにあるのは疑いがないだろう。

 私は、現在の社会に社会主義を唱える必要があることに眼を覆うことができず、そうして宗教は、元来、社会主義と親しくあるべきはずのものであると考える。私は宗教を説く者が、今一層大胆に平等主義を主張することを望まずにはいられない。

(明治29年11月、『六合雑誌』第191号)

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