植木枝盛「民権自由論」現代語訳
「民権自由論」は、明治12年に植木枝盛(1857~92)が「市販本として公刊した第一作であり、その自由民権思想の総説ともいうべき著作」(家永三郎、『植木枝盛集』解題)である。平易な口語体で書かれていることもあって広範な読者を獲得し、これによって植木は自由民権思想家として不動の地位を獲得した。また、植木の仕事として今日一番知られているのは、明治14年に起草した「東洋大日本国国憲按」であろう。連邦国家制、一院制議会、国民の権利としての抵抗権・革命権の明文化など、「私擬憲法案」の中で最も革新的な内容を含んでいる。植木はこのような思想をどのようにして身につけたのであろうか。
高知県出身の植木枝盛は明治6年に東京の海南私塾に入学したが、軍人養成の授業内容に反発して退学し、帰郷した。明治6年の政変で下野した板垣退助の高知での活動に影響を受け、明治8年に再び上京すると、三田演説会や明六社演説会に熱心に通い福沢諭吉をはじめ啓蒙思想家から大きな影響を受けるとともに帝国図書館(現国立国会図書館)に通って独学し、新聞に投書することで言論活動を開始した。「民権自由論」はこのような経験を反映して、読者に語りかけるような独特の口語体で書かれている。
この現代語訳の底本としては、『植木枝盛集』第一巻(1990年刊、岩波書店)所収のものを用い、『明治思想集Ⅱ』(近代日本思想体系 31)、筑摩書房、1977年刊行に所収のものを参照した。「民権自由論」の段落は、第1章と第2章では、『 」 』を用いて設定されているが、それ以降は設定されていない。この現代語訳では、読みやすさという観点から訳者が独自に段落の設定を試みた。
現代語訳「民権自由論」
植木枝盛 著、上河内岳夫 現代語訳
[題辞] 「自由は命よりも重い」
はしがき
ちょっと御免をこうむりまして、日本の御百姓様、日本の御商売人様、日本の御細工人職人様、そのほか士族様、御医者様、船頭様、馬方様、猟師様、飴売り様、お乳母様、新たに平民に迎えられた皆様、御一統に申し上げます。さてあなた方は、皆々御同様に一つの大きな宝をお持ちでございます。この大きな宝とは何でございますか。打ち出の小槌か、銭のなる木か、金か銀か珊瑚かダイヤモンドか。それとも別嬪の女房を言うか、才智が優れた子供のことか。いやいやこんなものではない、まだこれらよりも一層尊い一つの宝がございます。それがすなわち自由の権と申すものです。元来あなた方の自由権利は、かえって命よりも重いもので、自由がなければ生きていても仕方がないと申すほどのものでございます。いかにも金銀や珠玉の話ではありませんが。それならば折角生きているあなた方が、少しも卑屈になることなく、この民権を張り自由を伸ばすのが、なりよりの肝心でありましょう。なぜならば幸福も安楽も、民権を張り自由を伸ばさずに得られることではありません。そうだからこそ今この書物の中には、上の「民権を張り自由を伸ばすべし」と言う一条を、この私が一心を込めて書き述べたので、あなた方もまた一心を注いで御覧下さい。
明治12年3月10日
3千5百万人[当時の日本の人口]の末弟 植木枝盛記す
第1章 人民は国の事に心を用いなければならない事
世のことわざにも「知らぬが仏」と申す通りで、なるほど世の事・国の事も自分が知らない時には、さらに心に掛からずに、一向に心配することはありますまい。だが、人間がこのように世間の物事を知らずに済むものでしょうか。もとより知らない時は、心配もせず至極安楽なようであるが、この安楽は死んだも同然の安楽で、とてもこれで人民の目的を達し、本当の安楽幸福を得るわけには参りますまい。ある人の説にも、「学知のない生は死である」と言っていて、総て人間と言うものは、単に目を光らし、鼻で呼吸をし、飯を食い、子をこしらえるのみでは、まだ十分に生きた人間とは言われません。「知れば心配があるので、知らないのが優る」と言うと、目を瞑って盲目になるのがよく、耳に栓をして聾者になるのがよく、盲目よりも聾者よりもいっそ死んでしまって、早く棺の蓋をしてもらうのがよろしい。これはなんと馬鹿の至りではございませんか。左様でござる。さあ、あなた方はこれを馬鹿と思うならば、ただこれのみではあるまい。広く知識を磨き、世の事・国の事にも心を用い、終始これらのことにも気をつけねばならぬわい。そうであるのに昔から日本の平民と申す者は、一向に元気がなく、ただ自分一身一家のことのみに掛り切りになって、さらに世の事・国の事に心を用いて気をつけず、総て公のことには甚だ疎く、ぼんやりして川向こうの火事でも見るように、虻が目の前を飛び去るのと同様で、「何のこととも思わなかった」です。これもやっぱりつまらないのではありませんか。まあ、あなた方は何と思っておられますか。国の事は、民の事とは別のことではございませんぞ。結局のところ国は人民の集まるもの、政府は国の政治を司るもの、政治は人民の事で、人民の事が政治だ。ゆえに国が安全であれば人民もまた安楽になり、国が危うければ人民は命も保ちがたい。政府が善良であれば人民は幸福を得て、政府が暴虐であれば人民は不幸をこうむる。
例えば昔の秦の始皇帝と申す君主は、議論をする学生を穴に埋めて、世の中の書物を火に焼き払うような苛酷なこと[焚書坑儒]を致し、ローマのネロという王は、市町の民家に火をつけてこれを焼き、自分は高い台上に登って、琴を弾きながら見て楽しみとしました。また、人を殺すことも甚だ多く、カリグラと言う皇帝はただ一挙に数多くの人の首を刎ね落とすために、ローマ全国の人民にその首を一様に届けさせたいと思い、イギリスのジョン王は、人に金を出させようとして出さなければ、その者をつなぎ留めて、毎日その人の歯を引き抜いてこれに迫り、あるいはいろいろの口実をつけて人民の金をむしり取り、ローマのガイウス・マリウス帝は、人民で自分にくみしない者があれば、ことごとく死刑を申しつけ、あからさまに殺害したなど、実に聞くのもいやらしいほどの残酷なことがおびただしくあります。さあ、このような君主や政府がその国にあっては、人民たる者は、平生どのように一身一家のために労働して、その体を養い、金銀を積み蓄え、大きな家を建て、衣服も道具も立派にこしらえておいても、何の益になるものでもありません。ただ一朝にして尽き果てて消え失せてしまうだろう。人民たる者は、すでにその身を殺され、その家を焼かれ、その金を奪われ、そうしてまた幸福安楽があるだろうか。また一身一家があるだろうか。ほぞを噛んでも及ばない。これは結局平生から国の事に心を用いていないからだ。これでも何と「知らぬが仏」と言われましょうか。知らぬは、地獄へ行く道だ。
また国の法などと言うものも、元来、大抵はその人民の風俗気性より起こるもので、人民が平生自由を欲し、自由を論じ、自由を望んでいれば、ついには自由にかなう寛大な法がその国に起こるだろう。また卑屈で人に依頼し、卑屈の風俗にいる時は、これにしたがって厳酷な圧制の法が、その国に起こるだろう。それならば人民たる者は、常に国事に心を用い、その善悪可否を識別して、これを論じ、これを望まなければならない。ただうかうかとしてゆるがせにしておけば、よくなるべきことも悪くなり、人民に便宜になるべきことも、これを得ることができないだろう。人民が耕作に精を出して米を多く取ろうと思っても、上に苛酷な政府があって、ひとたび重税を取り立てる法を定めると、いたずらに骨を折っても何の功もないのだ。よく国事に心を用いて、政治に気をつけて物を知らなければならない証拠であります。
また、今ここに軍の騒動でもあって、国の政府が非常に多くの紙幣を増発するようなことがあれば、紙幣の値段が下落して、物の値段は高くなるだろう。かつ仮にこれを3割ほど高くなったと見れば、その国の人民は、「別に彼の軍の騒動によって政府から少しの租税も取られた覚えはない」といい気でいても、知らず思わずの間に、3割の高税を取られたというものなので、このような時には人民たる者は、よくこれに心をつけて、初めから紙幣を発行しないように論じなければならないし、またこのことを望まなければならない。これを論じ、これを望んでついに紙幣を発行させなければ、人民は3割の税を免れるだろう。もしまたこれを論じることなく、望むことがなく、政府に案の定たくさんの紙幣を出させれば、人民はすなわち3割の税を取られた訳である。何と黙っていられましょうか。黙っているのは不幸の本だ。
またこれとは少し訳が違うが、一体あなた方は、今日、この世に生まれ、この世の品物を用い、この世の楽しみを享受し、この世の文明に呼吸しているのは、そもそも誰のお陰で出来たことか。これは、先人豪傑として今より先の人たちが、艱難辛苦、汗を出し骨を折って、そうして我々当今の人に下賜したのでございます。そうであれば我々当今の者もまた、自分の一身一家のことのみならず、広く国の事・世の事にも心を用い、第一に民権を張り自由を伸ばして、その才智を開き、大いに世間の助けをもしなくてはならない。これは一つには先人に対する務めであって、兼ねて後人を益するものである。もし自分では先人の遺産を受けて、今は一つも後人に恵むことがなければ、これは文明開化の食いつぶし、世の中の大泥棒でございます。世の中の大泥棒や文明開化の食い逃げ虫らは、この世にあるのも迷惑千万、いっそ死んでしまうのがよいと言うほどで、これが悪の悪なるものである。それだから、あなた方も決して物に満足することなく、しっかり勉強して世の事・国の事にも心を用い、また尽力しなくてはなりません。こうしていよいよ励んでいけば、幸いに食い潰しの汚名を免れ、その権利自由を保ち、義務も終え尽くして、仰いで天に恥じず伏して地に恥じず、「天地の善人、国家の良民」とも言われましょう。彼のいたずらに一身一家の上にのみ身を働かせて、さらに国家公共のことに心を用いて気をつけず、国家のことを見るのが、あたかも他国異域の事柄を見るように全くこれを度外視して己は一向に関与せず、自由の精神はなく独立の気性はなく、政府に依頼し政府を恐怖して、政府の命令とあれば是も否もなく、「へーへー、はいはい」とひたすらこれに従って、言うべきことを言いもせず論じるべきことも論じもしないで、怒るに怒らず怨むに怨まず、卑屈な奴隷に安んじて、これに満足する人民などは、これは「国家の良民」ではない、本当に「国家の死民」であります。つまり人間の仲間の付き合いによって成長した人民であれば、所詮一人一家のことにのみ心配するのではことは済まない、さらに国の事・世の事にも広く心を用いなくてはなりません。
第2章 人民は自由の権を得なければならない事
ルソーという人の説に「人間は生まれながらにして自由である」とあって、人間は自由の動物と申すべき者であります。それゆえ人民の自由は、例え社会の法律でこれを全うすることができるとは言え、元来は天の賜物で、人間たる者に必ずなくてはならないものでしょう。もし人間にしてこの天の賜物である自由を取らなければ、これは天に向かって大きな罪となり、自分にとっては大きな恥です。およそ恥と言うのは、取るべきではないものを取るのを恥と言うばかりではなく、取るべきものを取り得ないのもまた恥である。ゆえに泥棒をするのも恥、嘘を言うのも恥、間男をするのも恥だが、今この人民として自由の権を取り得ないのもまたこれと同じ恥でしょう。
そればかりでなく、もともと天が人間を造る時は、これに才と力を賦与してあるもので、この才力があってこそ人間がうまく生きて参り、うまく働いて行きましょう。それなのにこの才と力とは、このように大事なものであるけれど、なおこの上にいわゆる自由の権がなくては、一向にその働きがありません。例えば鳥を籠の中に入れたようなものだ。元来、鳥には羽もあり翼もあるが、いま籠の中に押し込められては、とんと羽も翼もさほどの用をなしません。人間には貴重な才も力もあるけれど、自由がなければ籠の中の鳥同様に十分の一の働きもいたしますまい。束縛ほどいやなものはありません。それゆえに人間がこの世に生まれてからは、もはや自由ほど尊いものはなく、命があっても才力があっても、自由がなければみな無用の長物で、ましてや自由なくして幸福安楽などと言うものがあろう事でしょうか。自由のない境域と幸福安楽の境域とは、千里も万里も隔てがある。何と自由は得なくてはならないものではありませんか。結局、自由と申すものは、このように尊いがゆえに、十分に万全にこれを保ち、これを守っていこうと思い、よって国を建て、政府などと言う役所を置き、また法律を設け、役人を雇って、いよいよこの人民の自由の権利を護らせて、仲間の中に不公平なことがあれば、これを正して公平に直し、その悪い所業がある者はこれを罰し、その損失をこうむる者はこれを救い、もって幸福安楽を得るようにする訳だ。
また一層進んで申すと、なにもかも大抵のことは、自由のためにしないものはないほどで、既に上述の通り政府を置くのも、法律を設けるのも、役人を雇うのも、みな自由のためでないものはなく、そうして戦いをするのも、争いをするのもまた自由の関係であるものが多い。例えばアメリカがイギリスに叛いて独立をしたのは、同地の人民がイギリス政府から暴虐な政治を受け、自由の権利を圧しつけられてついに堪えることができず、13州の人民が申し合わせて7年間の戦いをしてとうとうこれに打ち勝って、それからイギリスの支配を脱したもので、やっぱり自由の争いだ。
また、イギリスの人民がそのジョン王に迫って、マグナカルタの大典を立てたと言うことは、これまたジョン王が全体に圧制暴虐な政治をして、人民の自由の権利を守らないのみか、大いにこれを害したので、人民がこれを憂えまたこれを怒って、「君主は理由がなく人民の身体貨物を害してはならない」「罪人を詮議するには必ず罪人と同級の人をもってその罪の有無を証明させなければならない」「議院によらずに租税を賦課してはならない」などと言う数々の個条を立て、王とラニーミード草原で会合してこれに迫り、王に手ずから印を押させたのであって、やっぱり自由の権に関係する。またローマのシーザーやフランス王のルイ16世やイギリス王のチャールズ1世どもが、その国民に首を刎ねられたり、政府を転覆させられたのも、初めから人民の自由を護らずにこれを損ない妨げた報いでございます。我が日本で10年余り前に勤王の士が起って徳川の政府を倒しこれを廃して、新たに王室を興し、当今の明治の政府を立てたのも、また実は旧幕政府が余りに威張り散らかして、我が国の貴い王室をも蔑ろにし、天の重い人民の自由を害するので、人民がみなこれを怒ってついに転覆に及んだ訳である。これもまた自由の関係でありましょう。
さて自由の性質はこのように貴く、その関係は上述のように広いもので、人民たる者は、必ずこれを得てこれを取って、捨てて失ってはならないということは、おおよそお話し申しましたが、悲しいことにはとにかく昔から中国の人や、ならびにこれに似た人は、卑屈と申す習慣に染まって、唯々諾々と何でも人に従いやすく、その上、人に寄りすがって十分に独立せずに、政府から言いつけられることなどは、理も否も問わずにひたすらその命に従い、その令を奉じて、馬や牛がその主人に追い遣われるのも同様、猿が猿回しに使われるのにも異ならず、「ハアスー」と言って従順にこれを務め、何の気力もなしに、これに安んじこれに甘んじ、人民仲間の約束に入って約束の主意はこれを失い、失い尽して、なおかつ他人の圧制束縛を受ける。自由を全うするために役人を雇って、雇った役人に自由を盗まれ、権利の平衡を保とうと思って、一人の役人につき数百人の財産も及び届かないほどの給金を取られ、主人は夏の炎天に田に出て、ぎらぎらする様な日光に照らされると、これの税金を食っている雇い者[使用人]は、芸子や舞妓をうち連れて清流に舟を浮かべ、とんちんとんちん気儘な楽しみをする。すっかり本末の順序を失い、冠を足に履き、靴を頭に冠るほどの間違いきった所業にあっても、なおうかうかとして何の事とも言いもしなければ論じもしない。実に趣意の分からないことではありませんか。いや何と卑屈の至りではないか。いったいこのような者は人間でありましょうか。
昔、ローマという国にカリギュラと申す王があり、百姓が羊を飼うのを見て、「王と人民ともあの様なものだ。牧人は牛羊よりも尊い、牛羊は牧人よりも賤しい。それならば帝王はその人民よりも尊く、人民はその帝王よりも賤しい者である」として、ついに帝王を神として人民を獣のように見なして、よって帝王を「人牧」などと呼ぶようになった。また中国においてもこれと同じ考えで、国を治めることを「人民を牧する」と呼び、「牧民牧民」などと申すことになりました。あなた方もまたやっぱり彼のカリギュラと同一の考えであって、「君主は神で、自分は獣」とでも思いなさるか。なぜにこのように卑屈であるか。人間はみな同じく天が造った同等の人間だ。君主も人間だし人民も人間だ。何で羊と百姓とのような違いがあるものか。ちと元気を引き起こし、「かの失敬千万なカリギュラなどという王の墓所へ行って、その骨でも掘り出して、鞭で叩いてやりたい」と言う位の考えにおなりなさい。何でもまあ、人間としてこの世に生まれたからは自由がなければつまらない。幸福も安楽も自由がなければ得られない。みなさん卑屈になることはない。自由は天から与えたのだ。どんと民権を張って自由を伸ばしなさいよ。もしまた自由が得られないならば、いっそ死んでおしまいなさい。自由がなければ生きていても仕方がありません。
第3章 国家は民権自由を張らなければならない事
『大学』[正しくは『論語』]に「本立ちて道生ず」とある通りで、総て物事は本が大事であります。川の流れを澄ますには、その源を清くしなくてはならず、木を太らせようと思えば根を養わなくてはならず、家を建てるには土台を固めねばならない。またレンガ造りの家であれば、四角なレンガ石でこそ四角な堅い家が造られるが、もしそれが三角とか六角であれば、とても四角な堅い家は出来ますまい。そうであるならば国もこれと同様で、人民は国の本であるので、国が盛んになるには人民が元気を振るわなければならず、文明の国になるには人民が開化しなければならず、国の威光を外国にまで輝かせて独立の権を立てて貫くには、すなわちまた人民の自由を伸ばして権利を張らなくてはならないものでございます。
ただし、昔の時分にはともすれば物の道理が分からずに、専制独裁の政治と言うものが一般に行われて、例えば彼の隋の文帝が「普天の下みな朕が臣妾[主君に従属する者]」と言い、またフランス王ルイ14世が、「この国はすなわちこれ朕なり。朕は国家なり」と言ったように、「普天之下は皆王土にあらざるはなく率土之浜は悉く王臣にあらざるはなし」[大空の下に王の土地でないところはない、地の果てまでも王の臣でない者はいない。出典は『詩経』]と、政府の方で国の土地人民を私して、また全く政府が独りで勝手に国の規則をこしらえ国の万事を支配し、ひどく人民を軽んじ人民を侮って、始終政府があることを見て人民があることを知らず、国の盛衰強弱も、富も貧しいのも、開けて文明となるのも退いて野蛮となるのも、やっぱり政府が独りで受け持っているという塩梅なのである。そうであれば、さらにまた勉めて国を治めると言う権力を政府に収め、政府の威光を大きくして政府の威権を張り政府を強くし、ひとえに権力が下に落ちることをのみ恐れ、政府は強きが上に強きを増し重きが上に重きを加えて、そうして人民には柔順になることを教えさとして、卑屈な上になおも柔弱になることを図って、ただ一つもっぱら政府の威光に服従させることに努める。たまたま国の中に少し元気を張って、政府に抵抗するくらいの者があるか、または国内に少し才力がある人物があれば、求めて政府に反対することもなく、法律を破ることもないけれども、政府はおのずから常にこれを嫌って、このような者がある時には、まだ枕を高くして眠りかねるとして、ことさらに挑み起こしてこれを政府に背かせ法律に触れさせ、こうしておいて「今や得たり」とまた政府からこれを攻めこれを討ち、これを討って平らげると、熙々皞々如[やわらぎ楽しみ、ゆったりとしているさま]として自ら喜ぶ。国の疲弊が勝利の喜色に覆われて露呈しないことと、人民の怨嗟の声が凱歌の歓声に妨げられて聞こえないことには、すなわちこれに気づかない。英傑がことごとく死亡し、国財が全く櫃底を払って、あらかじめ後日の栄華を自棄するもまたこれを慮らない。そのうえ果たして上の通りに、その意を成し遂げ、そのことをやり通して、政府の威光が赫々隆々として、人民は猿のように、羊のように、豚のように、紙製の雛人形のような有り様になって、理非も問わず曲直も論じずに政府の法令に屈従して、唯々諾々然としている時になると、これを「国家がうまく治まっている」と言い、太平と称し、治平と唱え、「天下静かなり」と思って、鼓腹撃壌、これを祝い、これを慶び、済ましきって国は隆盛であるといたしております。
なんと不思議なことではありませんか。奇妙奇体、こんな変哲なことが、またと世の中にあるものか。これはこれ太平でもない隆盛でもない。実に間違いの親玉で、すなわち天下の大乱である。元来乱と申すものは、ただ剣をひらめかし弾丸を放って、どんどんぱちぱち戦争のある時のみが乱ではない。天下の正理が打ち破られて真純な法律は行われず、理が非に曲がり、あるいは曲を直となし、正道を廃して物の平均を失い、かれこれ相背いて、一つは従うべきでないことに従い、一つは抑えるべきでないのに抑え、一つは取るべきなのに取らず、一つは渡すべきなのに渡さず、政府が圧制を施して人民を虐げ、人民は卑屈で正理を達することができない時は、これは取りも直さずその国の乱で、しかも大いなる乱である。総じて世の中に正理の行われない間は、みな乱であると理解すべきである。我が国において、徳川政府が国を治めてから2百5、6十年の間などは、世間はこれを太平静寧であると申しますが、その実はこの2百余年間もやっぱり大きな乱世でありました。
さて少し議論が長くなりましたが、それなら国と言うものはいかなるものか。また、いかにすべきものか。さらに本に立ち返ってお話申しましょう。そもそも国とは人民の集まる所のもので、決して政府によって出来たものでもなく、君主によって立てられたものでもない。国は全く人民によって出来たものだ。その証拠には、昔から王がなくても人民があれば国は出来るものだが、王があっても人民がなければ国がある所はなく、また全く人民がなければ初めから王などと言えるものはない。そこで『尚書』[『書経』のこと]にも、「民はこれ邦の本なり」と言い、また『帝範』にも「民は邦の先」とあって、その上『孟子』も「民を貴しと為し、社稷[国]は之に次ぎ、君主を軽しと為す」と言い、また西洋の人も「人民は政治の実体で、政治は人民の虚影である」と申しています。みな人民が本で、国は人民によって出来たものとのことでございます。それならば国はいつまでも人民により、人民を重んじ、人民を尊ばねばならない訳で、人民はおのおの自主独立の気質があり、知恵を磨き、徳義を修め、職業を勉め、事務を励み、卑屈の心を去り、元気を振るい、愛国心を興して、相親しみ結べば、国は強くないことはなく、盛んでないことはない。しかしこれとは反対にその国の人民が無気無力で少しも自主独立の精神がなく、そのうえいたずらに自分一人一家のことのみを知って、国家の公のことの上には一向に心を向けることがなく、何にもかにも政府に委ね一任して、自分に受け持つ気性がなければ、その国は衰弱しないと言うことはありません。それならばあの様な専制政府で、勝手気ままな政治をなし、人民の自主自由はこれを構わず、人民の権利を重んじず、圧制と束縛をもって人民が屈従することのみを図り、いたずらに政府の強大を醸して、そうして命令がよく達し、威光が十分に輝いているようなことは、政府自らが、我と我が心にこれを強かつ大であると思い、富かつ盛んであると考えると言っても、これは決して本当の強さではなく、盛んであるのではなく、ただ人民の力を弱めただけのことである。なお、人間の体に例えて申すと、手や足や腹や背中の力を削いで、ただ頭のみを大きくし頭の力のみを強くしたようなものだ。政府はここに人民の力を弱めたのである。ゆえに人民と比べて、自らを強いと感じるだけである。結局これは、専制政府が強いのであって、国が強いのではないのである。国は強くないだけではなく、人民の力が衰弱するそのままに、段々衰弱することはもとより議論を待たないだろう。
その上に、上述のように国を政府の私有として、国の万事は総て独りでこれを扱い、国の盛衰消長も一つに政府が請け負っている時は、国を治める君主が賢明か、政治を預かる宰相が善良であれば、国はしばらく治まって行くけれど、君主が暗愚であれば国は乱れて滅びる。それならばこれはあたかも国の治乱盛衰をただその一君主一政府に賭けたようなもので、ちょうど博奕を打つのと同様で、いつ負けるやらまたいつ勝つやら一向に分かったものではない。たまたま仁君賢相が世に出て、折よく春の晴れた日に清和な風が吹けば、国の民草は生い立ってめでたく露を含みつつ、花もほどよく咲き得るが、変わりやすいのは風の神で、もしもにわかに心を変えて東が西と吹き出して、秋の嵐が荒れ来る時は、萩も薄もみな揉みたくられて、また起き立つことができずに、しぼみにしぼんで枯れ果てる。本当に浅ましいことのみである。まあ、只今の日本では一人二人で博奕を打つのも御法度の禁じる所でございますが、それをなかなか二人や三人のことではなく、天下を挙げて博奕を打つとは、なんとぼけたことでござるぞ。あなた方ではなく、中国の唐人さん、ちと目をお覚ましなされませ。
第4章 国は人民の自主自由及び憲法によらなければ固く護ることができない事
さて、前段で国の万事を一つの政府に委託し、国の大事を独りの君主に懸けることが、いかに危うく浅ましいことかをお話申しましたが、「しからば国はどのようにすれば大丈夫になるのか、安全になるのか」と申すお方もありましょう。そこでそれならばと出かけて今一つ、国は人民の自主自由と並んで、公の憲法という二つのものをもって護らねば大丈夫にはならず、安全には参りがたいと言うことを、御機嫌に伺いましょう。ただし、上で申す憲法とは、また国憲とも申しあるいは根本律法とも唱え、国の一番大きな土台の規則で、初めにまず人民と君主とが相談協議してこれを定め、君主はどれだけの権利義務を持つ者で人民はどれだけの権利義務を持つ者であるとの大眼目を記し、その他総て政治の仕方についてその大綱領を掲げて、君主や政府などでも勝手に変えることができない、常にこれにより従って、当然の職分を尽くすようにいたしたものである。今初めて憲法のことをお話申し上げるので、ちょっとお断りして置きます。
さて、国というものは、元来大きなものなので、前段で申したように、なかなか政府一個や君主一人で、その根底からの万事を受け持つことができるものではない。国は万人が集まって起こったものなので、また万人の力で護らねば叶わず、あるいはまた国は万人が一つになって出来たものなので、一つになった上での憲法を確かに定めて置かなければ、とても治まり難いものであります。今、これを一人の人間に例えて申すならば、人間は体の健康すなわちその身の元気と、また体を養う法すなわち養生の仕方との二つのものがあってこそよいのであって、これがなければ無病息災、延命とは参りません。なお詳しく申し上げると、身体は健康でも身を守る法がなければ、よしや内から起こる病は防ぐとも、外から来る流行病や感染症などにはかかりやすいものだ。またいたずらに養生の法はよくても、身の元気がなければ、よしや外から侵入してくる病は防ぎ止めても、我が体の中から病を醸し起こすのだ。それでこの養生の法も立ち、またその身の元気が備わって初めて、内外の疾病を防ぎ止めて無病息災に至ることであります。すなわち世の医者にその話を聞けば、人間の病は多いけれども大概九分ほどは本人の不養生から起こると申すことなので、今の人々はよく養生の法を守り、その上で身の元気を保っておけば、内より起こる九分通りと外より来たる一分通りの病気は、皆免れ逃れる勘定である。
また以上のお話を一つの家に例えて申すならば、家が大丈夫で堅固であるのは、棟や柱や総て家を造る材木がよくて、また建築の方法がよくなくてはならないものである。この二つのものが悪ければ家はとても丈夫には保たれず、これもまた細かく申すならば、もし材木は堅くても大工の建て方が悪ければ、よしや憂いが内から湧き起こることはなくても、外から大風や大雨が侵入してくるか、まして土か火でも降ってくるようなことがあれば、容易に押し破られるでしょう。また家の建て方は巧みであっても、材木が悪ければ、たまたま外から来る風や雹は構わないけれど、困ったことにはその家には内から虫が入り、隙ができて自然とくずれ壊れるようになる。そこで、これもまた初めから家を建てる材木とまた大工の建築法との二つがよくてこそ、風も虫も構わないような大丈夫の家になるのだ。
さあ、してみれば国も大概これと同様だ。国の本である人民の自主自由と国の大綱となる憲法との二つがあってこそ、安全にも隆盛にも行くものだ。もし人民の自主を欠いて元気がなければ、政府の政治は暴虐圧制となり、もし憲法を欠けば国内は乱れ騒いで不安定で、かつまた政治が既に暴虐となれば人民は沸騰して国は乱れ、国が乱れれば政府は圧制を行い、圧制を行えば乱れ、乱れれば圧す、あたかもこれは環が巡り巡って端がないように、一向に平安な日がないようになるだろう。中国の如きは、古より一国が初めて起こる時は、その国を取る人物が秀でて知略があることから一時の間は安らかで静かなようであるけれども、それよりだんだん子や孫に移り変わってくると、後々の者は結局生まれてから奥深い宮殿の錦上に養われ、しかも柔弱な女中などの手に育てられ、悪く言えば「青瓢箪のなり損ない」とでも申すくらいの殿様が、やっぱり前王をまねて自分独りで国を治めようとするものであるから、初めの王は知略もあって人より優れていたがゆえにまずはよかったことなども、今の王となってからはまた初めの通りには治めることはできず、さりとて兼ねてからその国には憲法も確定しておらず、人民の自主自由を養っておかなかったのみか、大いにこれを抑圧し、さらに卑屈な奴隷の教えを仕込んであったので、国に何らの大事が出来て、どんな憂いが起こっても、一向に自主の気性を起こして、国を愛し国を憂う心は出てこない。国の安危を見るのは、ベトナム人が中国人の肥痩を見るようで、まあ虻が目の前を飛んで行くくらいである。その国が存亡の境になっても何とも思わず、ちょうど川向こうの火事騒動を遠見している有り様で、少しも幸不幸には関係せず、ついに迫りきって国内が大いに乱れても、あるいは外国などより攻め滅ぼされる勢いとなり、政府がもはや眉毛に火がつく瞬間になっても、人民は一向に知らん顔で、東と西とに向きが違い、中に一つの大溝を隔てて互いに近づきあい難い。またも激しく申し上げるならば、これらの国は木か土で拵えた人形のように頭と四肢の間に気脈を通わさず、政府と人民は連絡を絶ち、その国を愛惜する者は政府のみで、人民は少しも政府と親しみ合う手段がないので、政府は力なく打ち倒され、君主は虜になるのでなければ殺されるか死ぬか、もはや無限の悪運に陥って、したがって国中の総体が騒ぎ立て、人民が不幸をこうむることは言いようがなく、地獄の底に沈んだほどの憂き目、苦し身にあうようになる。これが実に平生人民の自主と公の憲法との二つを国に作っておかないからの過ちである。
ただし、これは独り中国のみではない、総て専制の国では大抵同様のことであります。彼のギリシア・ローマの時代などにも、一人二人の人物が国に立って政治を行い、その人物が死亡した後は、言うに言われもしないほどの大騒ぎをやらかして、人心恟々[おそれおののくさま]、上を下へと押し返し、波風は容易には鎮まらず、上下こもごも乱れるその勢いは、もちろん人民が幸福安楽を得られるものではありません。これもやっぱり従前から人民の自主自由と公の憲法が立てられていないことによって起こったことだ。ああ、浅ましいことだ。専制抑制の政治が、たまたま人民を欺いて自分の欲目を張り通しかろうじて小康を得たとしても、思いもよらず噴き出す火山(かつて某の時に、イギリス公使がロシア皇帝ニコラスに謁見して、「今、ロシアとイギリスとは、その王権は安全である」と言ったところ、ロシア皇帝は答えて、「イギリスはそうかも知れないが、我は火山の上に座するがごとく危うい」と言った)、その頂点に座する政府は一朝に焼け焦げて影も形もあるやなしや、ほっと一息つくままに滅び尽き果てたのでしょうか。(オーストリアの宰相メッテルニヒは、詐術と威力をもって国を治めるのが良術であるとして、1848年にその帝都ウィーン駐在の各国公使に、「オーストリアは、いまだ今日のように静寧であることはなかった」と言った。そうではあるが専制をもって得た安静は決して永久の安静ではなく、その年の夏がまだ来ないうちにミラノ、ヴェニス、ウィーン、ベルリンなどの人民が反乱を起こし、メッテルニヒはわずかにこれを逃れて、ベルギーのブリュッセルに遁走した。)ああ、なんと哀れなことでしょうか。
これと正反対にイギリスでは、初め1200年代に、国の貴族や僧侶などが彼のジョン王とラニーミード草原で会合してマグナカルタの大典を立ててから、人民の自由権が次第に伸びて人々が元気を振るっていたので、その後1588年に少々の訳があって、早く海軍が開けた一大国であるスペイン人が大小130艘の軍艦に銃砲2430丁、おおよそ2万人の兵士をもって、実に非常に小さな一小島のイギリスに攻めて来た。スペインは、どのような匹敵するものがあるだろうかと、これを名付けて「無敵軍」とまで評価していたが、軍は艦にも銃にもよらず、先立つものは自主の精神、誠忠な報国心である。この時イギリスは、もとよりいまだ海軍がさほど開けてはおらず、また格別の用意ということもなかったので、政府の軍艦はわずかに34艘、国中の水夫を集めてその数は1万4千人に過ぎなかったが、全国の人民はみな奮い起って志気を励まし勇躍して、戦おうと思わない者はなく、「陽気発する所、金石もまた透る。精神一到、何事か成らざらん」[積極的に力強く行動すれば、どんな困難でも打破できる。精神を集中すれば、どんなことでもできないことはない。出典は『朱子語録』]という勢いで、第一に、貴族、富商などは私的に船を艤装して政府の軍中に合流し、老少賤民に至るまで争い競って財貨を持ち出して軍資に差し加え、また中には寺院を造営して本国の勝利を祈る者もあった。女王エリザベスは、自ら出陣してこの軍を指揮し、将兵を励ますと、彼の堂々として名前まで無敵軍と呼んでいた当時の盛大なスペイン軍を、わずか瞬く間にただ一撃で打ち走らせ、スペイン軍はただ辟易して逃げ去ったが、なおも海上で難風[船舶の航行をなやます暴風]にあって、ついに船を全うして本国に帰ったものは三分の一にも過ぎなかったと言う話があります。これはちょっと考えて不思議と思うほどでございましょう。ここが肝心の見所であります。結局、イギリスがこのような外国の大難に出会っても、さらさらこれに構わなかったのは、ただ人民が権利を得て、自主自由を保っていたからだ。まあ、初めにお話申し上げた中国やローマなどの専制国とは違ったものだ。
また、アメリカではある時、大統領リンカーンが、不意に刺客に殺され、宰相[正しくは国務長官]のスワードもまた手傷を負ったが、元来突然のことなので、その情勢は人心恟々として朝夜騒ぎ立つはずである。アメリカではそうはならずに、人民は依然として自主独立し何も恐れ騒ぐことなく、静かに本国の憲法に従って大統領を選び換えてもとのように立てたので、国は何らの難もなく容易に静かに治まった。これまたアメリカ本国にかねて確かな憲法が立ち定まって、人民も自主の気性があったからだ。もしもこのようなことなどが、他の専制国にあったことなら、なかなか一朝一夕に治まりはしない。悪くすればこの際に奸知にたけた英雄などと言う者が現れて、その国を奪うことが計られるかもしれないが、まあこれがアメリカであって幸せでありました、くわばら、くわばら。その他にこういう様なお話を致そうなら、まだたくさんありますけれど、大抵、道理は一つであります。みなさん、よく合点してください。何でも国は憲法と自主の精神があってこそ隆盛でまた安全であるが、憲法と人民の自主がなければ、衰え乱れて、危ういことは卵を積み重ねたよりも甚だしい。ああ、憲法と自主と言うものは、なんと重く尊いものでありましょうか。それをちょっとの考えもなく専制政府さんが無理無残に抑圧して、常に伸ばすことができないように殊更に妨害するとは、いよいよ非道の至りではありませんか。ああ、国は憲法を立てなくてはならないのである、民権を張らなくてならないのである。憲法を立てなければ国は乱れ、自主がなければ政治は暴虐になる。国が乱れれば政府は圧制をなし、政府が圧制をなせば人民は沸騰して乱れる。乱れれば圧し、圧せば乱れる。あたかも環の端がないのに同じで、実に困り果てた次第ではないか。これを直すのは憲法と自主が第一の薬だ。
第5章 民権を張らなければ国権を張って独立を保つことができず、専制政治は国を滅ぼし国を売るに至る事
さて前々だんだんと申し述べたように、専制抑圧の政治で民権自由を束縛するほど悪いことはなく、もとより民権を張らなければ、国権を張って独立を保つこともできず、専制の政治はついに国を売るに至るものであります。まあ、あなた方少し考えてご覧なさい。国とはもともと人民の集まったものなので、国権を張るには、まず民権を張らなくては本当の国権は張り切れず、人民の独立がなければ国の維持もできがたいと言うことは、必ずすぐ分かるでしょう。例えば、あなた方は鉄の鎖と言うものをご存じでありましょう。彼の鎖の力を十分に張ろうと思えば、まずその鎖を作っている一つ一つの小さな輪が大事であります。もし一つ一つの輪さえ大丈夫なら鎖は十分に強いけれど、もしもその輪が十分でないか、またはその中に一つ二つでも薄弱なものがあれば、全体の鎖はとても強いという訳にはいかず、ついに力を張り伸ばすこともできないだろう。国は人民という小さな輪をもって作った一つの鎖だ。国権を張ろうとするには、民権を張らなければ叶わず、国の独立を維持しようとするには、人民の独立を本としなければ、叶いがたいものであります。
また今ひとつ申すならば、あなた方が今そこに着ている衣類なり何なり総ての織物をご存じでありましょう。彼の織物はどのようなものでしょうか。あれは一つ一つの小さな糸から出来たものでしょう。それで絹の糸をもって織ったものは絹の地が出来、また木綿の糸で織ったものは木綿の地が出来、あるいは白い糸で織れば白の地になり、糸が紺であれば紺となり、あるいは強い性質の糸で織ったものは地も強く、糸が弱ければ地も弱くなる。これはご婦人方が、皆よくご存じのことでありましょう。国も別に難しい訳はない、ただこの織物のようなものだ。縦横に織り込んだ小糸である人民が権利を張って独立すれば、国と言う一つの織物は祈らなくても神が守るのではないか。もはや、自然独立の権利を張って堅く確かに維持することは、なしやすいほどにあるものなので、人民が絹なら国も絹、人民が木綿なら国も木綿、人民が白ければ国も白く、人民が青ければ国も青く、人民が強ければ国も強く、論じなくてもなるものだ。
それゆえまたこの理と同じ筋道で、彼の専制政府が暴圧の政治を行い人民の権利を伸ばさせないのは、国を治めるためと思うかも知れないが、全く国を損ない国を滅ぼす仕方である。まず第一に本当の国権を張ることができず、丈夫に独立することもなしがたい。例えば今ここに、いわゆる専制の一国があって、外国から条約交渉でもあるときは、政府はもとより独立の権利をもって、かれこれ議論をなすけれども、所詮この政府は専制政府で真に全国の人民と一致し付着したものではないことは、外国人もよく承知しているので、何らさほどの力はないのを見透かして強いて無理な交渉なども仕向けてくる。その政府ももとより外人に見透かされる通り自分はかつて人民の公論によって政治をするのではなく、国は独立と言いながら、人民は人民で隔絶し、自分は雲上に孤立してしかも一個の髪筋をもってただ空中に釣りかけたように、水上に浮遊して根がないように、氷の上に座っているように、所詮、「専制の国にはただ一人の愛国者がある」ということわざ通り、自分の他に頼む者もないので、独立の体面を辱めながらやむを得ずに外国の無理な交渉に圧しつけられて国の損害を招くようになる。改正もできなければ鎖国もできず、みすみす国を衰微させ、ついに滅亡の本をなすだろう。その他になんのかの国の弱みにつけ込んで、彼にせしめられることが言い切れぬほどになるだろう。これが国を治めることであろうか、国を損なう第一歩だ。
またこのような国では、政府は平生人民の自由を圧制し、活発な力を滅し、卑屈な性格になさしめ、国内を整頓して一つも違背し抵抗する者もないようになると、自ら「世界太平、国祚[国の栄え]長久、万民安全なり」と言い、意気揚々と誇っているが、ひとたび外敵が侵入してきて、その政府を突き倒せば、人民はもはや拠り所を失って、さらに敵人の制御を受けるだけである。これは結局本国の政府に従いやすい者はまた外国人の手に従いやすいことで、当然の理であるからである。ただし、上のような人民は自ら独立すると言う精神がなければ、政府がここに倒れれば、早くもその方向を失って立つ所が分からない。またこのような人民は平生から政府と気脈を通じていなければ、もし外人に国権を奪い取られても、その頭首である政府の変換することは、ただ二つある人形の首を取って、あちらこちらに交換して見たようなもので、痛いとも痒いとも思いもせず、やっぱり知らん気で黙っている。そこで外敵の方では、その国を奪い取ることが甚だ容易で、懐に入った猫を捕ってくるのと同じで、またその政府の方から言えば、自分で十分な奴隷の教育によってその人民を卑屈に養い、敵が討ち取るにはとても都合よく便利であるようにして、敵を招いてきて、かつ敵のすき好むままに任せて、何の意地もなくこれを与えるに等しい。まあ昔から「敵に糧を送り、盗人に鍵を渡す」こととは、愚かな仕方を例えて言うわけだが、専制政府と言うものは、なまじ敵に糧を送り盗人に鍵を渡すばかりではなく、自分で力を尽くして十分に荷物の支度をしてようやく終了するような頃合いに、さらに盗賊を招き寄せ門戸を開いて、初めに支度した一切の荷物を自由に任せて遣り渡すようなものである。本当に国を売る者の親玉でございます。哀しいことではないでしょうか。これでは人民はもちろんのこと、どのような専制政府さんでも、何のためにもなりますまい。そうであるからこそ国は初めから民権を張り、自由を伸ばすのが肝心である。
付録 民権田舎歌
民権自由論付録終
[あとがき]
この書一冊は、私が熱心苦慮して著作するところ言っても、ただいかんせん事業が繁忙の際でありますので、その草稿から清書に至るまで、わずかに数日を限ってこれを終えたので、余儀なく文章は粗略に陥り、字句は不揃い千万である。されども、以後、第二篇三篇から十篇百篇までと言ったものは、十分に念を足し手を入れてかなり精良に致します。読者はこのような事情をくんで納得していただきたい。
著者謹啓
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?