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合同誌『少女文学』神尾あるみサンプル

2019/5/12(日)COMITIA128 にて販売予定の合同誌『少女文学 第一号』に掲載の、神尾あるみ作品のサンプルです。

合同誌の詳細についてはこちらをご参照ください。

『アミルと不思議な青い指輪』神尾あるみ
冒頭サンプル


 ねばついた熱い空気を切り裂いて剣が迫ってくる。切っ先が、昼下がりの陽光にきらめいた。
 とっさに横に転がって避け、起き上がりざまに相手の懐に飛びこんだ。握った剣を突き出す。が、次の瞬間、軽い衝撃とともに剣は手を離れ、タイルの上を回転しながら滑っていった。
「また俺の勝ちだな」
 剣の平が頬にぺしりと当たる。触れた鉄の冷たさに火照った肌が冷やされていく。
 顔を上げると、人の悪い笑みを浮かべた兄と目が合った。
「兄上! 最後のはなんですか! 足を使うなんて!」
「相手がいつも正攻法で来ると思ったら大間違いだぞ。死んだあと、首だけになって文句を言うつもりか?」
「それは……」
「いいじゃないか」模擬剣を収めながら、兄が手を差し出す。「俺に足を使わせるほど上達したんだと思えば」
 引き起こされ、そのままひょいと肩に抱き上げられた。日焼けした肌に玉の汗が浮かんでいる。顔を寄せるとナツメグの香りがした。
「それに、投げナイフの腕なら兄弟の中でも負けていないだろう」
「ええ、でも……」
「まあ、あまり強くなられても困るがな」
「なぜですか?」
「母上があのようなお顔をされるからさ」
 兄の視線を追った先、長上衣(チュニック)の裾がめくれるほどの勢いで歩いてくる女が見えた。帽子から垂れた紗が風にたなびいている。
 侍女たちを引き離してやって来た女は、キッと兄を睨みつけた。
「アミル、またおまえはこんなことをして! 怪我でもしたらどうするのです!」
「これは母上、ご機嫌よう。せっかくの美しいお顔が台無しですよ。模擬剣は刃を潰していますし、俺はこいつに怪我をさせるようなへまはしません」
「嘘をおっしゃい。腕にあざができていますよ。帽子もかぶらず……成人したというのに」
 青い紗のあいだから切れ長の瞳がこちらを向いて、慌てて兄の首元に顔を埋めた。
 しばらくそうしていると、やがて諦めたような深いため息が聞こえ、その吐息に含まれた笑みに気づいておそるおそる顔を上げる。
 母は微笑んでいた。嬉しくなってこっちも笑ってしまう。白く細い指に頬の泥をぬぐわれたときにはもう、すっかり緊張はほぐれていた。
「もうよい。おまえはその埃を落としておいで。私はアミルと話があるから」
「はい。それでは兄上、また明日」
「ああ、また明日な」
 身軽に兄の腕から飛び降りると、中庭から駆けだした。薄暗い回廊から振り返ってみると、さっきまで朗らかだった兄の顔が険しくなった気がした。

        ◇

 月のない夜だった。
 自分がなぜ覚醒したのか、束の間わからなかった。
「……あにうえ?」
「起きろ。起きて、これを着ろ。急げ」
 鬼気迫る様子の兄に気圧されて、言われるままに侍女の装束を身につけた。
「来い」
 手を引かれて寝所から抜け出すと、闇に沈んだ廊下を音を殺して歩き始める。
 屋敷は騒然としていた。
 なにかが燃えている。焦げ臭い。男たちの怒鳴る声。鉄のぶつかる音。足音。矢が空を切る音。女たちの悲鳴。泣き声。悲鳴。悲鳴。悲鳴。
「兄上……」
「静かに。……階段はだめだな。こっちへ」
 手近な部屋に入ると、一直線にバルコニーへ突き抜ける。兄に抱きかかえられた状態で、裏手の庭に飛び降りた。
 こちらにはまだ喧噪は届いていない。一頭だけ、兄の愛馬が木につながれている。その背にくくりつけられた大きな革袋の口を開かれ、「入れ」と命じられた。
 ひるんで動けずにいると、じれったそうに引き寄せられ、あっという間に袋の中に入れられてしまった。
「兄上!」
「この短剣をおまえにやる」
 闇夜を切り裂く甲高い音がいくつも重なった。矢音だ。近い。間近で燃え上がった炎に、壁のモザイク画が紅く照らし出される。
「俺が出してやれなかったら、自分で袋を裂いて出るんだぞ」
「待ってください!」
 袋の口が閉じられる直前、ふっと兄の頬がほころんだ。くしゃりと髪をかきまぜられる。
「大丈夫だ。おまえは父上の七番目の子。七は縁起がいい。おまえの守護霊(フラワシー)が必ず守ってくれる」
 あとはもう、いくら呼びかけても無駄だった。喧噪が裏庭に到達し、矢音に混じって男たちの怒号や足音が迫ってくる。
 兄が馬にまたがる気配がした。自分の入った革袋を抱きかかえるようにして、馬を走らせる。男たちが兄の名を叫ぶのが聞こえた。
 すぐ間近で鉄がぶつかり合う音がした。兄が剣を振るっている。渡された短剣を両手でしっかり抱きしめた。その手が、生温かい液体に濡れる。液体は革袋の中を浸食し、一緒に詰められたいくつもの紗を湿らせた。
 鉄の音が、焦げつく匂いが、矢が空を切る音が、怒声と悲鳴が、どんどん遠く離れていく。

 どれだけ走ったのか、馬が足を止めたのがわかった。革袋の中でもみくちゃにされた身体を動かして、なんとか短剣を目の前に突き立てる。
 袋から転がり落ちた場所は、暗い林と砂漠の境目。兄の姿はなかった。代わりに鞍と革袋を、赤黒いものがべたりと染め上げていた。
 振り返った街の中央からは黒い煙が猛然と立ち上っていた。

 明くる日、野次馬に紛れて街へ戻った。
 広場には七つの首がさらされていた。六番目の首は、つい昨日、中庭で剣を教えてくれた兄の顔をしており、七番目の首は侍女の顔をしていた。
 兄たちの首の前を、青い紗をかぶった美しい女が、兵士に囲まれて宮殿へ引き立てられていった。

        ◇

 北西から吹きつける風が、昼下がりのバザールの中を駆け抜けていった。
 雑多な香辛料や、焼きたての羊肉の匂いとともに、砂と埃が熱風に巻き上がる。それを避けて、細めた瞳は夏空の色。
 乱れた黒髪を無造作に背中へ払いのけ、小さな人影はバザールの雑踏を器用にすり抜け……と、その腕が突然横から掴まれた。
「アミル! よかった見つかった! 頼む、助けてくれ!」
 呼ばれた少年は身を翻し、掴んでくる手を振り払った。
「いま急いでるんだよ! あとにしてくれ」
「あとにしたらハリルが殺されちまう!」
 相手の必死な声に、先を急ぐ足が止まった。
「……だから! スリは相手を選べって言ったのに」
 どこだ、と問うたときにはもう走り出していた。人やロバをかき分けて路地に入ると、すぐ横の建物に飛び込む。ぎょっとしている店の主に構わず奥の階段を駆け上がると、屋上に出て隣の屋根に飛び移った。ついてこられなかった少年の声が遠ざかっていく。
 いくつか屋根を越えた先で足を止め、眼下の広場を見下ろした。
 広場は人で溢れかえっている。中央では今まさにハリルの首が落とされようとしていた。取り囲んでいる兵士は三人。
「もうっ、ナイフだってタダじゃあないんだからな!」
 悪態をつきながら、アミルは得物を投じた。
 放たれたナイフは狙い過たず、剣を振り下ろす男の腕に命中する。
「だれだ!」
 響きわたる兵士の怒声を縫って、あるだけのナイフを投じてやった。たちまち蜂の巣をつついたような騒ぎに包まれ、その混乱に乗じてハリルが兵士の拘束を逃れた。少年が人混みに紛れたのを見届けて、アミルは身を翻す。
「だれだと言われて、答える馬鹿がいるかよ」
 来たときと同じように屋根をつたって広場から離れ、いくつか路地を曲がったところで、座り込んでいるハリルを見つけた。
 薄汚れたシャツの前は破れ、あばらの浮いた胸が見えている。顔を上げたハリルは、疲れ果てた様子で片手を上げた。
「アミル……いや、助かったよ。この借りはいつか」
「いつかじゃなく、いま返せよ」ほら、と手の平を出す。「なにをスって捕まったんだ?」
「捕まったときに全部渡しちまったよ」
「嘘だね。おまえがそんな潔い真似するか。いま首と胴がくっついてるのはいったい誰のおかげだか思い出せ。地獄で金が役に立つのか?」
「…………ちぇっ」
 ハリルが舌打ちを零して、胴衣(ベスト)の隠しから取り出したものを放って寄越す。

 それは夜に沈む空の青さを閉じこめた、ラピスラズリの指輪だった。

        ◇

 ハリルのせいですっかり遅くなってしまった。
 傾き始めている太陽を西に見ながら、アミルは土煙の立つ大通りを急ぐ。
 ペシャダールの首都、イルファンの都の三つの大通りは、すべて宮殿の正面へと続いている。小高い丘のてっぺんにそびえる宮殿は、赤茶けた街並みの中で一際あざやかだ。
 いくつもの尖塔。小楼。
 つややかな玉ねぎ状のドーム屋根。
 レンガと岩石と大理石で造り上げられたイルファンの大宮殿。高価な青の染料が惜しげもなく使われて、大理石のドームを夏空色に染めている。
 アミルは宮殿近くで道をそれ、東の小門へ足を向けた。ひとの出入りがほとんどない小門には、槍に寄りかかって立っている兵士がいた。
「アミルじゃねえか。ずいぶん久しぶりだなおい」
「ああ久しぶりだね、ザムド」
 男のよく日に焼けた顔に、だらしない笑みが浮かぶ。金にがめつくて、女ぐせも悪い。取り柄といえば弓の腕だけ。だが腕前はイルファンでも一、二位を争うものだった。酔っていなければ。
 用がなければ関わり合いになりたくない男だが、今日ばかりはこの男に会えて喜んでいる自分がいる。
「なんだ? とうとう俺と組む気になったか? イルファン一の弓使いとナイフ投げ。うまくすれば稼げるぞ」
「いや、遠慮しておく。それよりさ、三年前の約束おぼえてるか?」
「約束?」
「五千ディヤール払ったら門を通してくれるって言っただろ?」
 ぼんやりしていたザムドの目が、ゆっくり焦点を結ぶ。案の定忘れていたようだが、五千ディヤールは悪い話ではないはずだ。
「ほんのすこし、中が見たいだけなんだよ。いつも外から見てるだけだから、中がどうなってるか……一生に一度の記念にさ。あんたはすこーし長めに瞬きしてくれるだけでいいんだ。悪い話じゃないだろ?」
 なるたけ、なんでもないことのように言って、懐から出した革袋を振る。
「……おまえが物見遊山に五千ディヤールも払うなんて納得いかねえな」
「まあね。あわよくば、東の宮殿にいるっていう美しい王妃さまをちらっとでも見られたら……って思ってさ」
 肩をすくめて見せると、髭に囲まれたザムドの口がやっと警戒をといてゆるんだ。
「ガキが色気づきやがって」
「だって、街中のうわさだもの。いまの王は王妃さま欲しさに前の王と七人の子どもを殺し――」
「めったなこと言うんじゃねえ!」
 槍の柄が脇腹に飛んできて、アミルの身体は地面に転がった。衝撃で息が止まる。呼吸ができるようになると、腹の痛みがぐんと増した。
「なんだよ、ほとんど銅貨じゃねえか」
 落ちた革袋を覗き込みながら、ザムドが口を尖らせる。
 怒りを抑えるためにきつく拳を握った。ここで怒っては、今までの努力がだいなしだ。
「……か、金に、変わりは、ないだろ」
 革袋の中身をかき回しているザムドの横を、そっと通りすぎようとした。アーチ門の中、石のタイルで舗装された宮殿の敷地――を、沓(くつ)裏が踏む寸前、腰帯を掴まれ、引き戻される。
「なにするんだよ!」
 振り向くと、ザムドのにやついた顔が鼻先にあった。
「もう日が暮れる。こう暗くちゃ本当に五千ディヤールあるのかわからんからな。たしかめるために一晩預からせてもらおう。おまえはいったん帰りな」
「……っ、返せ!」
 言うとおりにしたら、明日には空っぽの革袋を返されて、五千ディヤールなど入っていなかったと言われるのがオチだ。
「おいおい、そうカッカするなって。どうせ俺にくれる金だったわけだろ?」
「こんの、ごうつくばり! 恥を知れ!」
 ザムドの顔からからかう笑みが失せた。怒りに沸騰した赤い頬が奇妙にゆがんで、アミルは自分が失言したことに気がついた。
 逃げようともがいたが、掴まれた腰帯が引っ張られて身体が宙に浮いている。
 喉元に、槍の穂がつきつけられた。
「俺が恥知らずだって? いいや、俺は恥を知っている。だから小汚いガキを門の内側に入れるわけないし、不審な大金も取り上げる必要がある。それに……」
 ザムドの顔が、触れるほど近くに迫った。濁った目に映るアミル自身の表情が見て取れるほどに。
「おまえみたいなやつは、イルファンに必要ねえ。……売り飛ばしてやる」
「なっ、放せって!」
「珍しい目の色でよかったな。おまえなら良い値で売れるぜ。望み通り、門の中に入れてやるよ」
 こめかみに衝撃が走り、アミルの意識は暗転した。

        ◇

 目が覚めると、思わず笑ってしまうほどろくでもない状況だった。
 狭い石牢。出入り口は錆の浮いた鉄柵に閉ざされている。汚れた地面に投げ出された自分の足が、天井近くの通気口から差し込む月光に、ほの白く浮かび上がっている。
 両手は頭上で束ねられて、鎖で壁に固定されていた。
「ああもう……」
 舌打ちがこぼれる。全くもって本意ではないが、あの日から六年とすこし、最も宮殿に近づいたのは事実。こんな形は望んでいなかったが。
「さて、どうするかな」
 立ち上がると、両手がちょうど腰の辺りに来る。腰帯の内側に手をやれば、そこに兄から渡された短剣がちゃんとあるのがわかって安堵の息がもれた。
 たったひとつ手元に残ったもの。宮殿から逃れたときに持っていたものは、馬も含めてすべて売り払っていたが、どんなに困ってもこの短剣だけは手放せなかった。
「…………?」
 ふと、腰帯の内側を探っていた指先がべつのものに触れた。
 指輪だ。
 アミルの人差し指にはゆるい。親指でなんとかぎりぎり。金の細工にはまっている青い石はラピスラズリだと思ったが……それにしては、透き通るような深みがある。
 じっと見つめていると、不意に石の中になにかがちらついた気がした。汚れているのかと思って軽く石をこする。と、瞬間、目の前が暗くなった。

「お呼びとあらばすぐさま参上! ……ん? じいさんじゃねえな。だれだ?」

 目の前に、青年がいた。
 状況が理解できない。一歩も後ずさらないうちに、背中が壁に当たった。後ろ手に短剣を探り、そっと柄を握る。
「そっちこそだれだ? どこから入ってきた?」
 ふたりの距離は、一歩で詰められる程度。手首がつながれている状況では短剣もたいして役に立たない。
「…………」
 出入り口の閉ざされた牢に突然現れるという離れ業をやってのけた青年は、アミルの警戒心をよそに面白そうに笑っている。
「あ、もしかして……おまえ、わたしの守護霊(フラワシー)?」
「守護霊? 違うよ。俺はその指輪に封じられている魔神(ジン)だ。これからおまえの願いごとを三つ叶えてやる」
「魔神?」
 浅黒い肌。
 ゆるくうねる黒髪はまるでライオンのたてがみのよう。黄金にきらめく切れ長の瞳は、荒野の狼を思わせる。
 どうも差し迫った危険はなさそうだと判断して、短剣から手を離した。
「……対価は?」
「対価?」
「ただでそんな、都合のいい話あるわけないだろ」
 この際、人間でも魔神でもかまわない。いまよりひどい状況はそうないはずだ。
 青年はわずかに目を見開いて、おかしそうに喉の奥を鳴らした。ターバンこそ巻いていないが、異国から来る隊商(キャラバン)の商人に似た格好だ。
 薄い胴衣の前ははだけていて、筋肉質な胸板が覗いている。首、耳、腕や足を飾る金細工に加え、服の仕立てもよく見ればすべて高価なものだったが、あまりに無造作に身につけているせいでそうは見えなかった。
「しっかりしてるな。対価については心配するな。これはいわば無償奉仕だ」
「魔神のいうことなんか信じられるか」
 言った瞬間、青年から陽気な気配が消え失せた。黄金の、狼の瞳がアミルをじっと見つめる。
「疑うのは勝手だが、ひとつだけ覚えておけ。俺は決して嘘はつかない。だからおまえも、俺に偽りを告げるな」
「偽り?」
「嘘をついたことがわかれば、俺はおまえを殺さなくてはならない」
「ならない……って、なんでさ」
「そういう決まりになっている。だからいいか、俺に対してなにひとつ偽るな」
 声を荒げたわけでもないのに、鋭く研ぎ澄まされた言葉は疑ってみる気にもならない。同意の印に頷いてみせれば、青年はぱっと笑顔に戻って肩をすくめた。
「ま、嘘つかなけりゃいいってだけさ。それで? 見たとこいままさに助けを必要としてるようだが」
「だいぶね。……三つだっけ?」
「ああ」
「三つと言わず、百叶えろっていう願いは?」
「こざかしいこと考えるなあ。だめだ。俺の好みじゃない」
「好みの問題? まあいいや、じゃあひとつめ。わたしを、この宮殿の王妃さまのところまでつれていって」
 これなら、牢からも出られるし、当初の目的も叶えられる……と思ったのだが、魔神はしばらく唸ったあと首を振った。
「残念だが、無理だな」
「は? なんでさ。これも好みじゃないって?」
「この宮殿には魔神よけのまじないがかかってる。あまり派手なことはできない。ああ……ひとつ言い忘れたが、俺は名を奪われているせいで、魔神としてたいしたことはできないんだ」
「なんだそりゃ。……しょうもない魔神だなあ」
 直前までの緊張がすっかりどこかへ消えてしまった。
「名は存在を表す、大切なものだ。本来ならきちんと名乗るべきなんだが、悪いな」
「べつにいいけどさ。なんだったらできるんだ?」
「そうだなあ。このしけた場所から脱出させることくらい、わけない」
「わかった。それで頼む」
「よしきた」言うなり、青年の手がアミルの身体を引き寄せる。後ろで壁の崩れる音がしたと思ったら、手枷が壁の金具ごと引っこ抜かれていた。
「つかまってろ」
 ひょいと抱き上げられて、しかたなく青年の首に腕を回す。手枷はついたままなので、輪っかにした手に青年の頭を通すかっこうになった。
 鼻の先が、浅黒い首筋に触れる。その瞬間ふわっと懐かしい匂いがした。
 ナツメグの、香ばしく甘い匂い。
 なつかしい兄の記憶がアミルの身体を駆け抜ける。胸が苦しい。鼻の奥がツンと痛んだ。
 滲んだ涙は、しかし次の瞬間とどろいた音で引っ込む。
「なにしてるんだ?」
 顔を上げると、牢の中は月光で明るくなっていた。外に面した壁が崩れ落ちている。
「さて、つかまってろよ。逃げるぞ」
「……おまえ、本当に魔神?」
 いまのところ、すべて力技だ。兵士の騒ぐ声が聞こえ始める。青年が音もなく笑うのが、震える喉でわかった。
「ふつうの人間が、片足で石壁を壊すと思うか?」
 青年は夜空の下を滑るように駆けだした。足音がほとんどしない。風がごうごうと後ろへ流れていく。目を開けていられなくて、アミルは魔神の首元にぐっと顔を押しつけた。
 ナツメグの香りが、アミルの記憶の深いところをくすぐっていた。

(続きは『少女文学 第一号』にて)

イベント会場でお目にかかれるのを楽しみにしております!


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