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埼玉の県立高校には別学校がある

1.違和感の正体

まず、今話題の共学化に向けた苦情処理委員の勧告を見てみようか。

https://www.pref.saitama.lg.jp/a0309/news/page/20230831.html

マジョリティにとって、当事者ではない団体から突然切り出されて違和感を覚える社会問題は意外に多いな。中学校の公民でも学ぶのじゃが、多数決を意思決定のツールとする民主主義の「但し書き」には、少数意見を大切にするという前提がある。それを具体化する行政手段の一つに「苦情処理メカニズム」があるのじゃ。歴史で言うと江戸時代の市中に置かれた目安箱というのか、はたまた小学校などでは意見箱が教室に置かれたこともあるかのう。

『別学校のある埼玉県では女子が男子校に入学できないのはおかしい』というような意見をマジョリティが目にすると、底知れない違和感と言うか不気味さを感じるかもしれん。これまでに女子の受験生やその家族が「どうして浦高に入れないの?」という切迫した社会問題に接したことがないからな。逆に「なんで一女や川女に入学できないんだ?」という男子のシチュエーションは、今回の苦情を通じても表立って問題視されていない。そういう視点自体が、ジェンダー主流化の専門家やそうしたテーマで活動する市民社会の方々からみれば論外なのじゃが、他方で民主主義とは、それが存在し得る一般社会に根付いた合意形成のプロセスやコモンセンスによっても受け入れ方や受け取られ方は変わると思うがどうかのう。

例えば、今回の議論が「女子は高校に行く必要が無い」という某地域の特定的な宗教的発想に基づく出来事だとしたら、部外者である日本人のマジョリティでも「変えるべきだ」という声を上げるじゃろう。ということは程度や環境が変れば、今現在、埼玉県立高校の共学化に違和感や不快感を持つマジョリティにおいても、根底には苦情処理を申し立てた人たちと共有できる価値観があるかもしれない点は認識した方が良いかもしれんのう。これは社会的認知の問題というか、原理原則では賛成できても、多様な価値観が混ざることで判断が揺らぎ始め、グレーゾーンに入ると白黒がつけられなくなる難しい問題になっておるのではないかと感じている。電気を使いながらも原発は必要か?と疑問視したり、グレタさんが叫ぶ気候変動対策へのまっとうな主張に対する相いれない違和感を持ったりすることにも似ている。

ボトムアップの当事者からの声ではなく、上流の政策や概念的な発想から降って来るような意見に対しては、待ち受ける地上の民は、どうしても土俵や秤が異なるので論理的な比較や妥協案を探せず感情的になりやすい。男女の別学校で伸び伸びと成長している子供たちの生活圏に対する、国際条約がどうだのといういきなり飛躍した強い申し立てには、正直、感情で受け止めてしまう側面もある。しかしそもそも、政策ツールとしての民主主義や国際条約はあるかもしれんが、「事件は会議室ではなくて現場」で起こるもので、今回の議論の場は武蔵の国から続く埼玉県という世界に一つしかない地域であり、多くの人にとっては物理的な、そして心の故郷じゃな。その自分たちの誇るべき郷土の文化としての学校制度を再評価することは、決してジェンダー主流化を否定するものでもなく、むしろ埼玉県にしかできない高等教育での女性や男性の多様性や可能性を高める側面はないじゃろうか。

北風と太陽。眉間にしわを寄せて突き刺すような風を当てられても、それに勝る冷たい風を送ろとするのは無意味じゃろう。すばらしい別学校の価値、そして共学校と別学校を選べる選択肢の広さ、さらに多様性の陽光は無限じゃ。こうして視点を少し変えるだけで、苦情の内容が近視眼的に見えたりせんかのう。別の国際的な基準でいうのであれば、例えば先住民族の保護は当たり前じゃし、その心は先祖伝来の土地に根付いた文化や制度の継承じゃ。それを「特定民族以外が入れない土地や参加できない儀式があるのはおかしい」といって周りの関係ない人々がこじ開けようとするか?似たような話は日本の国技である相撲の土俵でも行われたことがある。これも極端な論法じゃが、相手方が民主主義や国際社会をベースにして先日まで東京へ行くのに手形必要だった「跳んで埼玉」というローカルな地域に投げかけてきた球も、それに近い極端な鋭い論法であったことは否めんな。やはり、そこにあるのは民主主義の使い方の影と言う感じがするし、このインターネットが発達して大きく変わった子供たちの多様な社会を考えても違和感があるな。

2.別学の功罪

ジェンダー的な発想とは全く別の視点で、埼玉県の別学高校の良し悪しを考えてみようか。その良し悪しも男子と女子では微妙に異なったりするようには思う。それから大前提として、共学校を選んで進学した子供たちも、別学には無い社会性や体験を得られるのは当然じゃな。どっちがいいか?とか、そんな二択の議論ではない。

埼玉県の別学校がここまで生き残って、特定領域の方々に悪目立ちしてしまたのは何故か?一説によると、GHQの改革が制度にまで及ばず、公立学校別学校が残ったのは荒川より北とか、笑。仙台とか福島にも別学の伝統校はあったのう。廃止された湘南戦というのは浦高と湘南高校が年に1回、あらゆる分野で交流対決するイベントじゃったが、先方さんが共学化してから次第に廃れて廃止された。千葉高も確か男子校じゃったはずじゃな。そして気が付けば、浦和、川越、春日部、熊谷を中心とした別学校を残す埼玉県が、封建制度を残す諸悪の権化みたいに某セクターには写っておるのじゃろう。

保守か革新かという場面はどんな分野でも必ず起こる。男子校の伝統が良いか悪いかという議論は余り目にしないが、共学化するということは、そうした伝統と折り合いをつけなければいけないということじゃ。仮に、現在の男子校に入りたいという女子が定員の10%くらい入学したとして、入学後にいきなり校歌と応援歌の伝統的な指導を受けて、10km走で歓迎され、夏にはブーメランパンツの男子と一緒に海で遠泳し、50kmの強歩大会に柔剣道と冬はラグビーでぶつかり合うのは想像が難しい。逆に、これまで体力と知力の限界を打ち破る生活をしてきた男子高の生徒が、女子の視線の中でチー牛化したり、殻を破らなくなることは容易に想像できる。女子高を共学化した場合も、感情を歌と踊りで表す楽しそうな表現力が男子の前で委縮するだろうし、男子校を共学化した場合と同じような中庸化に向かう過程では、異性の目から始まる同性間の監視的な風土が支配的になるじゃろうし、落としどころとしての学校社会の結末は見えてくる気がする。つまり、男子校も女子高も、お互いのアカデミックなジェンダーではなく、現実的なジェンダーの価値と可能性を伸ばすという点で lose-l-lose にならんのかが心配になるな。

高校生活は異性と過ごして恋愛をするのが目的であれば共学校の方がよいじゃろう。でも、国際条約に基づいて危惧されているように、男女のジェンダーを超えた役割を認識することを目的として共学校に行く子がどれだけおるのか?逆に、異性の苦手意識から別学校をシェルターとしているという話も聞くが、それはそれで、いつまで無菌室で育てられるのかという疑問も無いことは無い。男子校の生徒も、男社会の気楽さから女子とコミュ障になるケースは普通にあるしな。しかしそれは、ジェンダーの視点でもなければ学業の視点でもない。むしろ少子高齢化とか非婚率という別の社会問題から突っ込まれた方が納得感があるかもしれんな。

ということで、別学校の功罪は人それぞれじゃが、少なくとも卒業生やその親御さんの様子を見る限りにおいて、現状の埼玉県における別学校は支持されておるし、優れた点が多いように思う。加えて伝統行事や別学ならではの楽しそうな学校のノリも多く、それが各校の特色や学校選びの多様性に繋がっていることは確かじゃろう。

3.別学校の未来

振り上げられた拳は、今回かなり高いところまで行ってしまった。行政としてもお土産は必要じゃろうな。一般県民から見ると、何故に限定的な部外者の意見にここまで振り回されるのかと思うじゃろうが、民主主義としての制度があって、日本が批准している条約をリファーされている以上、県政や県の公務員にしてみれば対応を誤るとまずいことになるな。そこから先は、ますます当事者不在の、メディアや政治家のような声の大きさで動かされるという偽りのマジョリティが形成される恐れすらある。それが本当に最善な方法かどうかは疑わしいが、もはやネットやテレビを前に「あーだ、こうだ」言う一般市民のレベルを超えてしまったら、事は理解が追い付かない速度で転がることもありうるのう。

また、もう少し謙虚な視点で現実を見つめてみても、やはり変えていけるところがあれば検討はするべきなのじゃろうな。しかしながら、他県の別学校が共学化する過程が、あまりにあっさりしていてニュースにもなっていなかったことに驚くのじゃが、別学校から共学化するには制度もじゃがトイレを始めとするインフラ整備や、部活動や学校の年間行事も含めて大変なことになるじゃろう。

また各校のOB・OGとの関係もあるし、埼玉県の別学校を卒業した先輩には行政や政治の世界で活躍している人材も多く、益々、当事者たる未来の生徒や一般の卒業生、教員関係者から離れた場所での議論にもなりかねない。成田闘争が最後は地元農民とは関係が無くなったのと一緒で、例えば、現役の学生さんが「男子校に女子が入れないのはおかしい!」とでも叫んでくれれば、ジャンヌダルクのようにアイコン化しようとする圧力団体やマスコミも現れるじゃろうし、少数意見は政治の上に立つ市民社会やマスメディアによってマジョリティに昇華されて、参政に無関心な一般的日本社会側は置いていかれ、あっという間に形成は動きかねないわけじゃ。

最初の議論にも関係するが、当事者ではない、公立学校に別学校などない地域の人たちから見れば、いまだに別学校があって、それを必死に守ろうとしている卒業生のような人たちがいて、そこに今や当たり前のジェンダーの視点で漸くメスが入った、という構造は非常にわかりやすい。外からの目線に合わせる必要はないが、井の中の蛙になって感情的になるのも得策ではないことがわかるな。感情的になって良いことはないので、少なくとも相手の主張に耳を傾けて、理解して欲しい点は冷静に伝え、変えられるところから少しずつ改善に向けて取り組んでみる(例えば、選択制で別学校同士の交流イベントや混合授業などを取り入れる)ような柔軟な姿勢が受け入れられれば、当事者の生徒たちにとっても新鮮でモチベーションの上がる機会になるかもしれない。

最後に上記の流れとは論理的に何のオチも無いのじゃが、個人的には埼玉県の県立男子校・女子高の良さが益々、発展して行って欲しいと思っておる。

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