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庭の光

普段から友人とシェアをしている軽自動車を少し離れた広い道路に停め、僕は長い壁沿いを歩いた。
この長い壁の内側には広大な土地が広がっているのだろう。

指定の場所に到着したのは、指定された時間の10分前だった。時計としても使っている携帯電話の画面を確認し、額と首筋に吹き出た汗をハンカチで拭った。携帯電話の画面にひびが入っている。

目の前に鉄製の重厚な門扉があり、門柱には木製の表札がかかっている。
表札には漢字で「不知火」と書かれている。

僕はあの人が不知火という名前であることをその時に初めて知った。
同時に重厚な門扉と木製の表札のとても美しいバランスに見とれていた。そこには、この門から奥は普段僕が接することのない世界があるのだろうと想像させる雰囲気があった。

僕がチャイムを押そうと小さなボタンに意識を向けるとほぼ同じタイミングで、チャイムの方から「お待ちしておりました。お入り下さい。」と男の声が聞こえた。

重厚な門扉は、疲れ果てた奴隷が押し開けるように、静かにゆっくりと少しだけ開いた。

僕は少し間を置いて、これ以上門は開けないという先方の意思を確認してからゆっくりと門を潜った。

門を潜ると、一面に丁寧に整えられた芝生と美しく整えられた植栽、石で作られた池があった。

奥の一角に駐車スペースがあり、頑丈そうな屋根が張り出ている。
そこには見事に磨き上げられた黒のAudiと白のLEXUSが駐車され、その2台は静かに獲物を見定める豹のように見えた。

僕は芝生の上に小さく置かれた上品な石畳の上を玄関に向かって歩いていると、少し先から黒のスーツを着た男性が近付いてきた。
その男性は、「本日はどうもありがとうございます。こちらです。」と言った。
そして、奥に見える恐らくこの家の玄関扉だと思われる方向とは違った方にゆっくりと歩きだし、「お客様のためにお部屋をご用意しております。」とその案内役の男性は言った。

僕は昨日、偶然に出会った男性が「不知火」という名字であること、そして彼は僕をお客様として迎えていることを知った。
僕は、このハワイの地で「不知火」と表札を掲げる意味合いについて、そしてこの庭はどうしてこんなに美しく感じるのだろうと考えながら案内役の男性の背中を追うように歩いた。

案内役の男性が「お飲み物はアイス珈琲で問題ないでしょうか」と言った。
僕は「問題ありません。」と言い、ハンカチで汗を拭った。本当は冷えたビールを飲みたいと思った。

招かれたその建物の玄関には大きな観葉植物が置かれ、大きなサイズの絵画が飾られていた。
外の暑さはすっかりもう感じなかった。

僕は真っ直ぐ続く廊下の先にある部屋に案内された。
部屋に入ると正面に大きな窓があり、木々の緑が美しく設計された庭に出られる作りになっていた。そこから奥には、広大な淡いブルーの海が見えた。
部屋の片方には、7つのイーゼとその上に白い布が掛けられたままの絵画が整然と並べられており、もう片方にはL字型でフレッシュピンクカラーの大きなソファと濃い茶色の低いテーブルがあり、テーブルの上に本が数冊、雑多に置かれていた。

案内役の男性が「ソファにお掛けになって少々お待ち下さい。アイス珈琲をお持ちします。」と言って、静かに扉を閉めて出ていった。

僕は浅くソファに座り、白い布が掛かった絵画に目を向けた。
それらは、不知火氏に待機を命ぜられただひたすらに次の指示を忍耐強く待つ兵隊を思わせた。
窓から見える庭の木々からハワイの強い光が生む濃い影が伸び、涼しげに感じられた。

程なくして、不知火氏は「暑い中ありがとう。」と言って現れた。
体にフィットした白のポロシャツに紺のスボンを履き、髪は黒々と若々しく清潔に整えられていた。昨日の見立てと変わらず、多分40代に入ったところだろう。

不知火氏の後ろにぴたりと案内役の男性がおり、冷えた珈琲を2つテーブルの上に置き、シュガーとミルクの入った小瓶を置いて、風のように消えた。

「これまで珈琲はあまり飲まなかったのですが、ハワイにきてから珈琲が好きになりました。」と不知火氏は言った。

「ここは、あなたのアトリエですか?」と僕は言った。
「そうです。購入したものもありますが、ほとんどは私が描いたものです。最近は仕事に集中していたのであまり描けていないですが。」と不知火氏は答えた。

不知火は僕に「絵はお好きですか?」と聞いた。
僕は「好きですが知識は全然ないです。」と答え、それ以上に絵のことについて二人で話をすることはなかった。

「改めまして、不知火と申します。昨日は急にすみませんでした。きっとここに来てくれると思っていました。」と、不知火氏は言った。

僕は昨夕、留学先のK大学での講義が終わり、友人と自宅への帰路についていたところ、後方から来たランニング中の男性とぶつかった。そしてその勢いのまま携帯電話を落としてしまった。

その男性は僕に丁寧な英語で謝罪を言い、前方に落ちた携帯電話を拾い上げ、僕に手渡した。
携帯電話の画面は無惨にもひびが入っていた。

僕は何も問題はないことを男性に告げ、「携帯電話についてもお気遣いなく。」と英語で言った。
恐らく僕がふらふらと歩いていたのだろうし、携帯電話ももう古くなっていたので買い替えのタイミングだと思えばいいと思った。
しかし、その男性は「もし都合が合えば明日、10時に今から言うところに来てほしい。お詫びをしたい」と英語で言い、半ば強制的に僕の携帯電話に住所と時間を入力した。

僕は「携帯電話は気にしていないので、お気を使わずに。こちらこそすみませんでした。」と英語で言って友人と歩き出した。
その時、友人が僕に「ついてなかったね。」と日本語で茶化した。その言葉を男性が聞き、「もしかして日本の方ですか?」と僕に言った。

僕は「はい、日本人です。今そこのK大学に留学中です。」と答えた。
「そうですか。必ずあなたにとって良い機会になります。明日楽しみにしています。」と言って、男性は颯爽と走り去った。これが不知火氏との出会いだった。

不知火氏は「まずはこれを。」と言って、僕が知る限り市場に出ている中で、最も機能が良く最新の携帯電話をポケットから取り出し、更に「もう落とさないようにアクセサリーを整えてください。」と言い、キャッシュがチャージされている小さなカードを机の上に置いた。

僕はこういった展開もあり得ると門を潜ったときから想像していたことであったが、やはり驚きは隠せず「これは・・・」という歯切れの悪い言葉を言うことしかできなかった。

不知火氏は僕の反応を予想していたように「携帯電話やカードのことは気にしないで。」と昨夕僕が不知火氏に言った言葉を模倣し、ごく自然な笑顔でアイス珈琲を一口飲んだ。

不知火氏は「お気付きかもわかりませんが、僕はお金には一切困ってません。壊してしまった携帯電話を買い替える余裕はあります。必要ならあと3台追加してもいい」と冗談っぽくに言い、窓の外に見える木々の方に視線を向けた。

部屋は静かだった。冷房の音もしなかった。
何らかの仕組みで他の部屋から冷えた空気だけをこの部屋に取り入れているようだった。

不知火氏は「それでももし、あなたに遠慮が残るのであれば次の質問に答えて欲しい。」と言った。

僕は庭に視線を向けている不知火氏の横顔を真っ直ぐに見たまま、やはりここには来るべきではなかったのだと理解した。

不知火氏は胸ポケットから写真を2枚取り出し、机の上に置いた。
写真はどちらも同じ女性で、1枚目は誰かと談笑しながら屈託のない笑顔を遠方から写したであろう写真だ。2枚目は証明写真のように真っ直ぐ正面を向き、フォーマルな服をきている写真だった。
「この方をご存知ですね?」と不知火氏は言った。

僕は写真の女性を知っていた。同じ留学先の学生だ。同じ時期に同じ大学に留学している日本人は自然と顔見知りになる。
私は彼女について、「東堂恭子」という名で、日本の大手企業に務めているが社内公募の競争を勝ち抜き、会社の支援を受けながら、3年間の留学に来ている女性だということ。
年齢は僕より6つほど年上で30歳前後だということ。
たまに息抜きに複数人で映画を見に行ったり、ハイキングに出掛けたりする仲だ。僕は、彼女に対し美しく聡明な印象を抱いていた。

僕は「恭子さんと不知火さんにどんな繋がりがあるんですか?僕は多分、あなたより恭子さんのプライベートな情報を深くは知らないと思う。」と言った。

不知火氏は「私はこれから正直に話をする。だから君が知り得る可能な範囲で構わないから情報を共有してほしい。これは闘いなのです。」と言った。
闘いという言葉に違和感を覚えたが不知火氏の目に嘘や怪しさは感じなかった。

不知火氏は「彼女の名は宍戸歩美といい、AGURAという犯罪集団に所属していると考えられています。中でも彼女は賭博荒らしのプロフェッショナルです。恐らくチームで何らかの方法でイカサマをして金を奪います。」と言った。
僕はかなり混乱したが何故僕がここに呼ばれたのかがまだ掴めずにいた。

不知火氏は更に賭博場についての説明をした。概要としては、不知火氏は世界に3つある賭博の胴元の1つを運営しており、賭博の世界では場と言われるテリトリーがあってブルーと呼ばれるアメリカとイギリスが場所となるカテゴリー。ホワイトと呼ばれるロシアとインドが場所となるカテゴリー。レッドと呼ばれる日本と中国が場所となるカテゴリーに分かれ、大きく3つあるということ。
中でも最も資金規模が大きいのがホワイトであり、次いでブルー、最後にレッドで不知火氏はレッドを仕切っているということだった。

宍戸歩美は昨年ブルーを荒らし、賭博主の資金の1割程度の資金を騙し取ったとのことだった。
一度荒された場は、他のイカサマグループにも狙われやすくなり資金のプールが少なくなることで大金を狙う大口客の足が遠のく。賭博場はやむなく小口客の数で儲けを出す必要が生じ、客への還元率も高める必要が出てくる。
一度荒らされると少なくとも7年間は元の運営に戻すことはできないと不知火氏は言った。

不知火氏は「宍戸は近い将来に私のテリトリーを荒らしに来る」と言い、込み上げる怒りを抑えるように一点を見つめ、奥歯を強く噛み締めた。

先ほどまで強い光を発していた太陽は灰色の雲に隠れ、庭の木々は風に揺れていた。

僕は「まるで信じ難い話ですが、世の中には僕の知らないことが沢山あるんですね。」と言い、続けて「それで、僕はなぜここに呼ばれたのですか?あなたは僕より彼女のことを既に知っているのに。」と言った。

不知火氏は首をもたげ、天井を見ながら「宍戸はデータに表れない感情や言葉をあなたに言っているはずです。」と言った。
僕は全然思いつかなかった。

庭にはまた、太陽が強い光を放っていた。
僕は、やはり案内役の男性にビールを頼むべきだったとその時思った。

「僕をターゲットにしたのは見当違いです。」と言って、席を立った。
「宍戸はあなたに好意を抱いています。」と不知火氏は言った。
僕はソファから立ったまま不知火氏をただ見ていた。

「宍戸があなたに好意を抱いていることは間違いありません。あなたが我々に協力してくだされば、それなりのお返しをします。今のあなたにはそれができる。」と不知火氏は続けた。
不知火氏は僕に対し、宍戸に近づき、パートナーにしか見せない秘密、弱み、情報を集めて欲しいと懇願した。

僕はゆっくりとソファに座り直した。
相変わらず、庭の光は美しかった。

「仮に恭子さんが僕に好意を抱き、僕がパートナーになったとして、恭子さんがあなたの知らない秘密を僕に言っても、僕はあなた方にそれをお伝えすることはない。」と僕は言った。

不知火氏は「必要条件は揃える。君は今、自由になるチャンスを掴んでいるんだよ。」と諭すように僕に言った。

「彼女が正直な気持ちになれたのなら、彼女にとってその一瞬はとても大切だと思う。友人の自由を壊したりしない。」と言い、ひびの入った携帯電話を片手に取り、部屋を出た。

廊下を歩きながら、最新の携帯電話とあの美しく表情を変える庭をもう見ることができないのは惜しいと思った。

案内役の男性が建物の前に控え、何もなかったかのように重厚な門扉まで僕を導いた。ここに来たときと同じく、あくまでゆっくりと歩いた。
はじめ見たときと同じく白と黒の2台の豹は静かに獲物を見定めていた。

既に人が出入りできる幅だけ開いていた門を潜り、外に出た。
案内役の男性に「ありがとうございます。」と言うために振り返ると、案内役の男性は深くお辞儀をし、言葉を発する気配も顔を上げる気配もなかった。

僕は軽自動車を停めたところまで長く続く壁沿いを歩きながら、何者にも囚われない自由を感じた。

そしてもう恭子さんには二度と会えないのだろうと感じた。

しばらくそこに駐車されていた僕たちの軽自動車はとても古い友人のように思えた。
軽自動車は暑い陽射しの中をゆっくりと動き出した。
ラジオを付けると、Paul McCartneyの「Ebony And Ivory」が流れていた。

僕はカーエアコンを消し、ウインドウを大きく開けてスピードを上げて海沿いの街を見ながら冷えたビールを飲みたいと思った。




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