『イエスはヘブライ語を話したか』Understanding the Difficult Words of Jesus、河合一充訳、ミルトスを読んで。
カメやんの一言
すみません。Google翻訳のカメラ機能で、テキストにできました。本文の調子がよくわかりますので、一部だけ(ですが)、引用をお許しください。
以下、そのままです。
セム語起源の言語学的および文化的議論を論ずるのはさておいて、共観福音書のお粗末なギリシア語については、類例が、セム語で書かれた原書から翻訳された文献、 例えば七十人訳(セブチャギンタ) 聖書などの文学作品に限ってしか見られない。この点は重要な事実として残る。
多くの福音書の表現は単に下手なギリシア語と言うだけでない。表現が実際ギリシャ語として意味を成さないのである。 間単な例を挙げれば、すぐ分かるだろう。マタイ福音書6:22の本文は字義どおり訳すと、
「体の明かりは目である。 もしあなたの 目がよければ、あなたの全身は明るい。しかしあなたの目が悪ければ、あなたの全身は暗い・・・・・・」である。
ここで「よい目」「悪い目」とはヘブライ語で
「気前のよい」、「吝嗇な」
という意味なのだ。ギリシア語にはそんな熟語はない。ギリシア語ではイ エスのこの表現は意味を成さないし、英語においても同様である。
なぜ福音書のギリシア語がそんなにお粗末なのか。これは至極単純である。つまり、マタイ、マルコ、ルカの福音書は本当のギリシア語ではなく、ギリシア語の衣を 着たヘブライ語の言葉なのだ。(続く)
以下、カメです。
とすると、牧師の書斎、のこの内容も意味不明ですね。せっかくヘブライ語での解説かと思いきや。日本語訳から考えるとそうなるのでしょうが、河合先生のお話からすると、そうした展開ではないようです。
https://meigata-bokushin.secret.jp/swfu/d/auto_CHcXyx.20).pdf
「気前のよい」で検索しますとマタイの20章がヒットします。
こことの関係があるのではと期待されます。
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こちらもAIで訳してもらってしまいました。
一度、じっくりと、この本を読みたいものです。ぜひ、続編を。