Q: 聖書ギリシャ語では、動詞について、中動態と受動態があります。違いは?
Q: 聖書ギリシャ語では、動詞について、中動態と受動態があります。違いは?
聖書ギリシャ語における中動態と受動態の違いは、主に動作の焦点がどこにあるかにあります。両方とも通常、受け身的な意味を持つ動詞の形態ですが、それぞれ異なるニュアンスを持っています。
1. 中動態(Middle Voice)
主体が動作の影響を受ける: 中動態では、動作の主語(主体)が自分自身に対して行動を起こしたり、その動作が自分に影響を与えたりすることを示します。
例: 「服を着る」(自己のために何かをする)や「髪を洗う」(自分自身に影響する動作)。
特徴: 主語が行為の受け手でもあり、動作に積極的に関与している場合に使われます。
2. 受動態(Passive Voice)
動作が主語に対して行われる: 受動態は、主語が他者によって行われた動作を受けることを表します。主語は動作を行わず、その影響を受ける側にあります。
例: 「助けられる」(他者によって行動が行われる)。
簡単な比較
中動態: 主語が自分に対して行動を起こすか、またはその動作が自分に影響する(「自分のために」動作する)。
受動態: 主語が他者の行為を受ける。
注意点
聖書ギリシャ語では、中動態と受動態の形態が一致することが多く、文脈によって意味を区別する必要があります。
聖書ギリシャ語では、未来形とアオリスト形で中動態と受動態が異なる形を持つ
理由は、動詞の形態的な変化が、動作の性質や受け手の役割に関して異なる視点を表現するためです。
具体的に説明すると、未来形とアオリスト形で中動態と受動態が異なる理由は以下の通りです。
1. 未来形の中動態と受動態
**未来形の中動態(Middle Future)**は、通常の中動態と同様に、主語がその行為に積極的に関わる、または自分のために行う動作を表します。
**未来形の受動態(Passive Future)**は、主語が他の誰かや何かからその動作を受ける、つまり外部からの力が主語に対して行動を起こすことを表します。
2. アオリスト形の中動態と受動態
**アオリストの中動態(Middle Aorist)**は、ある時点で主語が自分自身のために行動を取った、あるいはその行動が主語に影響を与えた過去の出来事を表します。これは、行動の完了したことを強調しつつ、主語がその行動に積極的に関与していることを示します。
**アオリストの受動態(Passive Aorist)**は、過去のある時点で主語が他者によって行動を受けたことを表します。動作は完了しており、主語は行動の受け手であることが強調されます。
なぜ形態が異なるのか?
未来形とアオリスト形で中動態と受動態が異なる形になるのは、特定の動詞の語尾の違いによるものです。特にアオリスト形では、中動態と受動態がはっきりと異なる形態を取ることで、主語が「行為の主体」なのか「行為の受け手」なのかを明確に区別するためです。
未来形: 中動態と受動態は時制に応じた未来的な意味を持ちますが、文脈に応じて主体と受け手の関係が明確になります。
アオリスト形: アオリストは完了した動作を表すため、中動態と受動態がはっきりと区別され、行為の完了とその主体・受け手の役割を強調します。
まとめ
未来とアオリストで中動態と受動態が異なる形を持つのは、行為の主体と受け手をより明確に区別するためです。未来形では、これから起こる行為の主体と受け手が区別され、アオリストでは過去の完了した行為が誰によって行われたか、または誰がその影響を受けたかが明確に示されます。
4o
何か、違うような気がする。
ChatGPT:
ChatGPT
確かに、もう少し具体的に説明した方がよいですね。聖書ギリシャ語の未来形とアオリスト形における中動態と受動態の違いについて、以下でより詳細に説明します。
未来形とアオリスト形における中動態と受動態の違い
聖書ギリシャ語では、未来とアオリストの受動態は特に異なる形態を持っており、これは動詞の語尾や形態の違いによるものです。
1. 未来形
未来中動態と未来受動態は、異なる形態を持ちます。未来形では、中動態と受動態は動作の主体が異なるという点で明確に区別されますが、未来形の受動態は特別な形があり、それが中動態との違いを明示しています。
未来中動態は、主語が自らのために行動する、またはその動作に積極的に関与していることを示しますが、未来受動態は、主語が外部の力によって動作を受けることを示します。未来受動態は、未来においてその行為が他者によって行われることを強調します。
未来中動態例: λύσομαι (私は自分自身のために解く)
未来受動態例: λυθήσομαι (私は解かれる)
未来受動態は、専用の受動態接尾辞(-θησ-, -σεσ-)を持ち、これが中動態との違いです。
2. アオリスト形
アオリスト中動態とアオリスト受動態の間には、さらに明確な形態的な違いがあります。これは、アオリストが不定過去時制であり、動作が完了しているというニュアンスを持つため、特に受動態では特別な形が必要となるためです。
アオリスト中動態は、動作が完了し、主語が自分自身に影響を与えることを示します。形態は中動態に特有の接尾辞を持ちます。
アオリスト受動態は、動作が完了し、主語が他者によってその行動を受けたことを表します。この場合、アオリスト受動態は、専用の受動態接尾辞(-θη-, -η-)を持つことで中動態と区別されます。
アオリスト中動態例: ἐλυσάμην (私は自分のために解いた)
アオリスト受動態例: ἐλύθην (私は解かれた)
アオリスト受動態には、受動態特有の接尾辞(-θη-)が追加されることで、動作が他者によって行われ、完了していることを示します。これは、中動態とは明確に異なる形を持っています。
なぜ形が異なるのか?
未来とアオリストの中動態と受動態が異なる理由は、文法的な機能と動詞の意味を明確に伝えるためです。アオリストでは、動作の完了とその主体・受け手の役割が強調されるため、受動態のための特別な形態が使われます。また、未来形でも、他者によって行われる動作を強調する必要があるため、受動態には専用の形が使われます。
この違いは、ギリシャ語の文法体系が動詞の形態によって、主語の役割や動作の性質を明確に伝えるために発展したものです。
かめ>何だか違うような気がするな。例えば、私は田中は許すが、伊藤は許さない。 この場合、能動それとも中動態?
AI>「私は田中は許すが、伊藤は許さない」という文の場合、聖書ギリシャ語の動詞の形としては能動態が使用されます。
この文における「許す(ἄφεσις)」という動詞は、主語である「私」が能動的に行動を起こしているため、能動態が適しています。ここでは、主語である「私」が動作の主体であり、対象である「田中」や「伊藤」はその行為を受ける側にあるので、動作が一方的に行われています。
理由:
能動態: 動作の主体が明確であり、主語が他者に対して積極的に行為を行っている場合に使われます。この場合、「私」が「許す」行為を行っているため、能動態が自然です。
中動態では、主語が自分に影響を及ぼす行動を取ったり、動作に積極的に関与する意味がありますが、この文ではそうしたニュアンスは見られません。
したがって、「私は田中は許すが、伊藤は許さない」という文では、能動態が適切な選択となります。
かめ>さて、では、次の例を見て。 私は田中を許さなかったが、何故か許すようになってきた。中動態それとも能動態?
ChatGPT>
この例文「私は田中を許さなかったが、何故か許すようになってきた」においては、動作が自分自身に変化を与えるニュアンスが含まれているため、聖書ギリシャ語では中動態が適している可能性が高いです。
理由:
最初の部分「私は田中を許さなかった」は、単に能動態で表現できる内容です。主語(私)が動作の主体であり、田中に対して積極的に「許さない」という行為をしているため、能動態です。
しかし、後半の「何故か許すようになってきた」は、主語である「私」が何らかの影響を受け、自分自身が変化しつつある状態を示しています。このような場合、中動態を使うことが多いです。中動態は、主語が自らのために行動を起こす場合や、その行為の影響が自分に返ってくる場合に使われます。この文では、主語が他者(田中)を許すことで、自分自身が変化している(またはその動作が自分に影響している)ことを表しています。
まとめ:
「私は田中を許さなかった」 → 能動態: 主語が他者に対して行動を行う。
「何故か許すようになってきた」 → 中動態: 主語がその行為の影響を自分に受けているか、自分に対して影響がある行動をしている。
この文の後半部分のように、主語が何かの影響を受けたり、主体的に変化していく場合は、中動態がふさわしいです。
あなた:
そうだよね。
ChatGPT:
そうですね!後半のように、動作が自分自身に影響を与えている場合や、心の変化が関与している場合は、中動態が自然です。ギリシャ語の中動態は、こうしたニュアンスを捉えるのに適している表現ですね。
かめ>ἄφεσιςの中動態は?
ChatGPT>ἄφεσις(「許し」や「赦免」)自体は、ギリシャ語の名詞であり、動詞ではありません。そのため、直接的な中動態形はありません。
もし、ἄφεσιςに関連する動詞を知りたい場合、これはἀφίημι(「許す」「解放する」)に由来しています。この動詞は中動態や受動態の形を持っています。
ἀφίημι の中動態
現在中動態: ἀφίεμαι (「私は自分を許す」または「私は許される」ニュアンスを持つ)
アオリスト中動態: ἀφέμην (「私は自分自身のために許した」)
ἀφίημι の中動態の意味:
中動態は、自分に影響する行動を強調します。例えば、「自分のために許す」や「自分にとって解放される」など、行動が自分に影響する場合に用いられます。