【読書日記】2/11 例年通り繰り返すことのありがたさ。「平安妖異伝/平岩弓枝」
平安妖異伝
平岩弓枝 著 新潮社
卒業式でのマスク着用を巡っての議論がかまびすしいこの頃。
地域の感染状況や学校の生徒数、会場の広さなどを考慮して学校長が判断すれば良いのでは、と門外漢には謎の紛糾具合ではありますが、本件で思い出した場面があったので、再読。
本書の主人公は、青年時代の藤原道長。まだ、権力の中枢には遠く、それだけに身軽い立場にいます。物の怪の引き起こす怪異に不思議な力を持つ少年楽師・真比呂とともに立ち向かう連作短編集。
五百年生きた桜の老木、蟻の王国、忘れられた異国の楽器、催馬楽自慢の鬼など、美しく、醜く、哀しく、あさましい物の怪と人間の物語。
本書の中の一編「象太鼓」。
正月の儀式の最中に、酔っぱらった道隆(道長の兄)が「正月の行事というものはわずらわしいばかりで面白味がない」とくさします。奏される音楽も楽器もありきたりで変わり映えがしない、珍しいものを持ってこい、と。
そして、ある寺が所蔵していた、とてつもなく大きな太鼓(象の皮)が持って来られるのですが、すさまじい音で鳴り続け、人々を苦しめます。この怪異を破ったあとで、真比呂が言います。
この小説を読んだのは、随分前のことです(発行が2000年)。そのときにも、こういうとらえ方があるのか、と印象に残る視点でした。
どちらかというと、式典などは形式的で面倒臭いという気持ちが先に立っていたのですが、例年通り行う、という形の寿ぎもあるのだ、と。
そして、3年前にコロナ禍となり、例年何の疑問もなく行ってきた行事が当たり前のようにできなくなりました。「ありきたりでいつも通りのことを行う」ことが困難になったとき、この場面がよみがえりました。なるほど、毎年の行事を行って「ああ、今年も無事にこれができた」というのもありがたいことなのだと。
もちろん、変えるべきことは変えていくべきですが、「前例通り」や「形式的」なことにも意義がある、そういう視点もあるのだなと気付くきっかけとなった読書体験です。
コロナ禍、とある校長先生が、「今年も子供たちのために卒業式を開催してあげられてよかった。だけど本当は沢山のご来賓からも祝福してもらいたかった」と涙していらっしゃいました。
コロナ禍でご来賓あいさつが減ったのは助かったな~と不埒なことを思っていたのが申し訳なくなるような真摯な言葉でした。
これから式典がどのように変わっていくのかはわかりませんが、ながーい来賓のご挨拶もありがたく拝聴しようという気になります・・・かしら。