「三日坊主、仏の顔も三度まで、石の上にも三年」
3という数字にはどこか区切りのようなものがあり、色々な場面で使われることが多い中、期間工になり3ヶ月が経ち、環境に溶け込み慣れてきて、当初不安だった気持ちは一切なくなった。
インターネットで期間工と検索し、ひどい環境、刑務所、カイジ等の様々な情報に惑わされていたものの、蓋を開けてみると部屋には必要最低限以上のものはあるし、職場の人間関係も至って普通のどこにでもあるようなものであった。
身体を酷使する仕事内容にだけは苦戦したものの、3ヶ月が経った今では身体が慣れてきて苦痛とは思わなくなってきている。
この3ヶ月、日々を充実させようと、1日たりとも腐ったように過ごす日はなく、消耗した身体を振り絞って、読書から映画、テレビ、友人との会話、遊び等、どんなことからでも学べる意識を持てば、仕事の日も休みの日も出来る限りたくさんのものを吸収して、たくさん発散できることに気付いた。
単調な肉体労働は身体を酷使し疲労させるものの、手が勝手に動き、頭をほとんど使わなくなるので、作業中には物事を考える時間、横にいる作業員との会話、ひたすらに手元に集中する時間、空いている脳を使ってたくさんの時間を作れている。
このネジを右手で締めて、このケーブルを左手で引っ張るように持って、とダンスの振り付けのようにひとつひとつの動作と力加減を身につけていくと、ネジの締め方、ケーブルの巻き方にも自分なりの気持ち良いポイントがあり、それは学生時代も社会人になっても、ひとつの球をどのようにして転がすか回転をかけるかということに真剣に取り組むスポーツのように、青春をかけて取り組んでいるというようなことにも通ずるものが少しはあると感じる。
この青春をかけてやってきたものは何か成すのだろうか、と葛藤しながら取り組んできたこともその過程で経験してきた一見無駄に見えるようなことが自身の誇りや笑い話となって、自分の未来を切り開き、それが時には武勇伝にでもなって、後世に語り継がれているようなことは、巷に溢れていることだろう。
自分史上最低の気持ちで臨んだ期間工は今や学生時代に部活動に励んだ日々や受験のために猛勉強した日々と少し重なるような青春を感じれるような期間になっている。
そんな気持ちを後押ししてくれるかのように、廃病棟のようであったボロボロの寮が解体され、新たにマンションのようなピカピカな寮に移ることになった。
しっかりしたベッド、ベランダ、以前の部屋にはなかったトイレも付き、特に嬉しかったのは勉強机が備え付けられていたことだった。
遥かかなたのアフリカの子供達のために学校を建て、その子供達が満面の笑顔で机にかじりつき、机いっぱいに席をぎゅうぎゅうに押し詰め合いながら、先生の授業に必死に喰らいつくような映像はテレビを通してたくさん見てきたが、今回の期間工を通して、学ぶことの幸せを本当に心を持って実感することができた。
自分なりのどん底で贅沢な気持ちを感じることができた経験は、これからどんな環境になろうとも心に灯る小さな火を絶やさずに燃やしていける方法を見つけれたような気がする。