石川啄木とコロナウイルスと私
はたらけど
はたらけど
猶わが生活
楽にならざり
ぢつと手を見る
期間工として車の製造に関わる一工程に配属され早四ヶ月。
群馬県太田市、戦後焼け野原になった状態から復興の支えとなった"ものづくり"産業の歴史が根付く街で、期間工という単調で責任感もそこまでない仕事ではあるが、"ものづくり"をする一人として携わっている。
日々の重労働の大部分は軍手を嵌めた手作業で行うため、初めのうちは毎日手が痛くて仕方なかった。
一ヶ月経つと慣れで痛みもなくなり、手の皮が分厚くなり、よく見ると手相が増えていることにも気付く。
手を頻繁に使う作業で日々逞しくなっている手のひらを見るのが、重労働の対価と言わんばかりに誇らしいことだと感じている。
この国語の教科書にも載っている、石川啄木の詩と全く持って同じ気持ちであると感じる訳ではないが、心に染み入る詩であることは期間工になり尚更感じるようになった。
そんな石川啄木はどのようにしてこの詩に辿り着いたのか気になって調べていたところ、良くも悪くも詩からは想像できるような人柄ではないことがわかった。
石川啄木は二六歳の若さで亡くなり、結婚してはいるが家庭を顧みることはなく、仕事は転々とし、友人に借金をしては一人花街に遊びに行くなどの傍若無人の振舞である、と調べれば調べるほどたくさんのエピソードに行き着いた。
俳優を志して上京した後、夢のためと言い訳をし、私利私欲で積み重なった借金の返済のため期間工に辿り着き、底辺並みの奴隷のような仕事をしている自身を慰めるかのように、人には言えないような異性との関係や、家族の話をネタに自分はこんなこともできるのだと無理やり過去を肯定するかのように偽名を使って書き連ね現代を生きる自身の姿に重なった。
何か自分自身を高尚な人物だと勘違いし、著名人や過去の偉人の言葉に同調して、彼ら彼女らが発する"ろくでなし"といった言葉の意味を大して自分ごとに捉えずに、側から感動していたような気がした。
期間工になり、では自分自身の性格は変わったかと言われるとやはりそこまで変わってはおらず、自分都合で行動し、結局はだらしない異性関係も付かず離れずくっついている現状がある。
思い返してみれば、この約三十年の人生における自身の行動パターンは似たり寄ったりで、だらしない自分自身をどうにか良く見せようとする行動ばかりであった。
挙げ句の果てには、だらしない本質の部分が偽りで固められたまともな部分を追い越していく現状に自ら嘆いている、というのがこの約三十年間の中で起こった様々な出来事の背景であると今になって思う。
そしてこれから先もこの人間性というものは大して変わることはないだろう、と諦めにも似た感情を期間工になってしてようやく自分自身の傾向として知れたような気がした。
こうしている今も、正に嘆いたことを慰めるように、書くことによって、自らを鼓舞している。
四ヶ月の期間工生活を経て、今の自分を一番愛することができており、日々新たな事を知ろうと勉強していく過程で様々な偉人に出会い、そして自らの人生を振り返るように知っていくことができている現在は、ようやく"ろくでなし"である自分を認めることができたような気がする。
ー世界的にも不幸なニュースで自粛ムードになっている今、それぞれがこのような時期に表に出る行為はどうなのかと葛藤している方が多いとは思いますが、しっかりとご自身をご自愛なさった健康な心身の延長線上で身の回りに起こる不安要素に向かって最低限度の対処をしていく先に、暖かい季節が出迎えてくれることを皆様同様真摯な態度で受け入れていきたいと思います。ー