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ブラックでホワイトで、グレーよりすこしブラックな日々に

また今回も、自分自身のことについて書いていきたいと思います。
内容的に先月アップすればよかったのにと思いつつ、あまりオープンにする気もないから今で良かったような気もする、そんな内容です。
過去のタグにはなるのだけど、同じような境遇・状態の方、もしくはその保護者の方に届いたらいいかな、それが今じゃなくても、いつでも。
若干、専門的なというか、習わないと知らないよね、というような内容も書くかもしれません。知らなかったよーと思うことがあれば一度調べてみることをお勧めします。
あと、また同じような記事を書くのでその時もよろしくね。

辛かったよなぁ、辛かったよね

過去のことを思い出すと、だいぶ辛いことの連続だった。
主に人間関係を構築するのが本当に下手で、口で言い負かすこともあれば、言葉で伝わらなかったら手が出たり、そんな幼少期。幼稚園児だった頃は、人数も少ない所だったし、女子ばかりだったり、不安定な子が多かったり、ある種のダイバーシティの中で生活していたから自分の特性はあまり目立たなかった。例えば、イラつくと同級生の腕を噛む子がいたり、軽い育児放棄を受けている子がいたり。足場が定まらない感じというか、話の本筋とは全く関係なく、結構キツイ環境にいた。8割くらいが何かしら抱えている中にいたから、うまくいかなくても、バックグラウンドを考えれば仕方ないよな、と思えるような状態。

自分、辛いんだな、と徐々に感じるようになったのは小学生の頃。前回の記事で書いた友人とも小学校で出会っていて、そこへ通っていたこと自体は間違いでなかったなと感じている。
それでも、カースト外のような、居場所のない感じはあり、今思えばだいぶメンタルが強かったんだなと思うようなハブられ感。
周りが意地悪とか、そういう話ではなく、自分自身が一方的に喋ったり、先生の発言を訂正しようとして口喧嘩になったり、そういうことの積み重ねで「変な子」「変わった子」というキャラクター付けがされていった。それで焦ることもなく、「そっか自分は変わってるんだ、人と違うって嬉しー」などど、セサミストリートばりのポジティブさで乗り越えてきたわけだが。乗り越えてきたのか、やり過ごしてきたのかはなんとも言い難い。
ひとつ、エピソードを思い出した。体育の授業の時で、グループごとに円を囲んで的にボールを当てるというのがあった。わかるだろうか。円の中央に一斗缶か何かが置いてあって、そこにボールを当てていくみたいな…やつ…。なぜかそれをやりたくなくて、遠くに座り込んで砂をいじっていた。今思えば、どういう思考回路で1人ボイコットに至ったのだろうか。とにかく、ボールのコントロールが下手だから「やりたくない」という感情を態度で示したような気がする。授業中に発言したり、言葉にするのは好きだったし得意だった割に、言葉で考えを言い表せずにムキーっとなってしまうこともあった。そんな自分でもいじめられることなく卒業できたのは、良い環境だったとしか言いようがない。まぁ小学校も変なやつ(失礼)が多かったから、そんなに浮いてなかったのかもしれないけど…。

自分のこだわりに振り回されること

こだわり。
この言葉でもう連想されるかもしれない。
ちなみに自分のこだわりは、水道水が飲めない(飲みたくない)とか。色々あるけどあんまり思い出せなかった。コンタクトにしない、とかもそうかも。こういう服は嫌い、とか、こういう人とは仲良くできないと思っちゃう、とかもこだわりと言われればこだわりかも。生活していると、「こういうところにもこだわってるのかぁ」と気づくことも多々ありです。
最近キックボードを買ったんだけど、これも、自転車には乗らないぞ、というこだわりから来ているし。
成長してきてというか、いろいろなものを学んだり理解していく過程で、そのこだわりが外れていくこともありますね。それは学習能力に訴えかけられている気がする。
けども、小さいこだわりに翻弄されてうまく行かないこともあるし、あれは嫌だ、あれは嫌い、みたいなことは沢山あります。嫌なことは無理してやらなくて良い、という風潮になってきて生きやすくなった感はあるけど。
人間関係においては、他人に触られることと他人を触ることが苦手。見るのも苦手。だからそういう、深いコミュニケーションができないんだろうなと推測はできるけど、そのこだわりは一生外せないな、多分。

世界自閉症啓発デー、もっと広まれ〜

乗り遅れた人間が言うのもなんだが。
端的に言って、自分は自閉症…だと思う。マジで調べたら?と思うんだけど、それが面倒でね〜。診察代かかる上に、“特性“という言葉で一括りにされる感じは否めない。だったら自分で把握して、自分が不快な思いをしないように、相手に不快な思いをさせないようにコントロールしたり、「こう言う特性なんです、すみませんねぇ」と言えたらいいなと思う。
ついこの間、こんなことがあった。大学の授業中、同級生が「これが難しいんだよねー」と言うようなことを言ってきた。まぁ製作中の時間だったから話すのは構わないんだ。自分はそれに、「じゃあこうしてみたら?」というように返した。そしたらその同級生は「そう言うことじゃなくて、そうだねって言って欲しかった」とのこと。
こういうこと、割と多い。でも、じゃあ、全部に共感するような相槌を打とう!とはならない。たとえ自分が、コミュニケーション障害的な性質を持っているからと言って、コンプライアンス的にokなら ok!と、思うようにした。そこで、「君が不器用だからじゃない?」などと言ったらマズイことはわかるので(経験上)。経験で虱潰しに、自分の欠陥を補っていくしかない。子供だったら、言葉の教室とかで教えてもらえるはず。小学生をサバイバルコミュニケーションでやり過ごしたから、言葉の教室に通える子供が羨ましいのです…。

近年、発達障害児は増加傾向にあるとか、そもそもそこそこの人数が存在していたのかはわからないけど、1クラスに1人どころじゃなく、10人くらいいたっておかしくないらしい。その子たちが、どう生きていくのかは、大人が導くものだと思うし、気づいてあげることが大事かなと思う。少なくとも自分は気づいて欲しかった。学習することができれば、テニスやバトミントンのラリー、野球で言えばキャッチボールの羽根や球の法則を覚えるみたいに、コミュニケーションもできるようになっていくのかもな。まぁ、自閉症は運動も苦手というデータがあるので例が微妙だ。

特徴として他にも、他人を思いやれるが行動に移せない、と言われているのも目にしたことがある。思いやりを表現するのが苦手、みたい。個人的には言い得て妙、なのだが。どうでしょう。その点、ADHDの、怒りっぽいとか喧嘩腰になる、というのも似てるかも?他者と自分自身との境界の作り方に特徴があるのかもなぁ。テキトーなこと書いちゃったかもしれない。またちょっと考えますわ。




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