わたしがわたしになっていく
良い意味でも悪い意味でも、吹っ切れているなぁと思う日々。
いつも明文化は避けているが、過去の自分と対峙しているような感覚に陥ることがたまにある。
ちょっと書きたいことが溜まってきているので、何回かに分けて書いてもいいかもしれない。何回かに分けて書きます。
先日、トクマルシューゴのライブに行った。フルネームで書くと敬称を省いた方が格好いい、我が家ではトクマルさん、と呼んでいますよ、文字で書くときに呼び捨てになってしまうだけで。
8月9日、渋谷WWWにて。8年ぶりのアルバムリリースというのは、実に長い気もするが、前作も購入しているし、なんならBricolage Musicにはアプリで参加もしている。アルバムを持っている方は名前を確認していただければわかるはずだ。
すごく長いようで短い8年…、いや、めちゃくちゃ長い8年だった。
Pokerという曲がある。
トクマルシューゴの存在を知ったきっかけについては割愛するが、初めて聴いたのがこの曲だった。
確か、2015年の冬。中学生だった自分は運悪くインフルエンザに罹っていた。
学級閉鎖になるくらい蔓延していて、その流行に乗じてしまったわけだ。
すっごいしんどいインフルだった。
何にもできなくて、横になりながらトクマルシューゴを聴いた。
MVを流していたけれど、しんどすぎて映像は見られない。それでも怠くて身動きの取れない身体に沁みた。
Youtubeに上がっている動画は全部見たけれど、その中でもPokerが一番お気に入りだなぁと感じていた気がする。
それから、何度かライブで見ていて、毎回「いいなぁ」と思う。演奏の技術もそうだし、歌詞の流れもすごく綺麗だ。
今回は格段に、自分が中学生だった時のことを思い出して、自分の心の中に中学生の自分の心がぶわぁっと広がっていくような感覚になった。
中学時代は、中学生の時の自分からすると辛い時期だったと思う。
その分、トクマルさんをはじめとした音楽とか、ファッションとか、目標とか、そういったベースができていった時期でもある。
大抵そうらしい。そのときに好きだった音楽はずっと好き、みたいなデータもあるとか(ないとか)。正直、そのときにハマっていたアーティストを全然好きじゃなくなったりとかそういった変化もあるし、とにかくインプットの期間だったのかなと思う。アウトプットしようとすると上手くいかなくて、それでもし続けたアウトプット(Twitterとか、小説書くとか)は確実に成長しているかもしれない。
今の自分からすると、中学時代のことを、何も後悔していない。それはそれで認めてあげたいなと思うことばかりだ。
あの日々がなければ、今の自分はないと胸を張って言えるし、今の自分のことはあまり嫌いじゃない。
ダメなところもめっちゃある。だけど、ダメなところを否定しすぎて自己肯定感を下げすぎるのも損だよね。
ちょっと、曲の話をしてみようかな。
トクマルさんの歌詞は、なんだか繋がっているような繋がっていないような、ストーリーがあるようなないような歌詞だと思っていた。
だけれども、音階というか、インストの部分でその行間を埋めて、世界観を作り出していると感じる。
発熱しながら聴いたこの歌詞は、冷えピタみたいな、身体が冷やされていくような感覚になった。ドクドクと、おそらくあまり臓器の調子も良くなかっただろうインフルの時の自分。体が整頓されていくような感じ…、耳から心地よさが流れていった。
先日のライブのときに、序盤でこの曲が歌われていて、
え?曲が歌われる?曲の受け身形なんて存在するんだっけ?
この曲を歌いなさって…?、正直驚きが強かった。
新アルバムとの関連が見えないというか、別の世界線の感じがあって、「あ、歌うんだ」という感じ。個人的にはLaLaRadioあたりが歌われるイメージがあったので、意外だった。
聴いていれば聴いているほど、あの時の自分と今の自分とが接続していくように感じた。
一つひとつのキーワードが特にそうで、あの時はただの音だった言葉が、意味を持った言葉として入ってきた。
そのときに、別にこの曲を指針として生きてきたわけでもないのだけれど、自分自身の成長であったり、時間が積み重なっているというか、チーズがびよーんと伸びているような、一続きに繋がっているということを強く感じた。
そう考えると無駄な時間など一瞬たりとも無く、全てに意味がある(と言うと重いけれど)。キャッチーな言葉を用いるのなら伏線回収しているようだ。
デシケーターは確かにオレンジで、電源に接続しない(できるのもありそうだけど)。中にはシリカゲルを入れていて、いつも乾燥状態を保っている。
就活って、暗澹たると言うか、正直しんどい。
突き詰めると「就職させてくれ〜」と言う言葉に尽きるし。
自分は全然、何社も受けて何社も落ちて…と言うわけではないので、所謂就活生の生活ではないのだが、悲鳴をあげたくなるような状況になる。
でも、面接の内容を考えていて(1週間ずっとそれだけやってた)、自分自身と向き合う中で、“就活生”の役を演じないでいこう、と思えたときにすごく開放された気分になった。
あの時の自分から今日の自分まで一続きで、全部ひっくるめてぶつけてしまおうと思って、ちょっと面白くなってしまった。
まぁ、ね、そんなことしてると落とされるよ、と言うのもあります。
でも、自分には無理だなぁと思って、フリースタイルで臨んだわけです。
わたしがわたしに重なったとき、わたしは何者かになれるのか。
わたしがわたしの体を用いて、わたしを表現したときに、何がどのように伝わるのか。
客観視できない「わたし自身」という姿は、なんとも評価し難いものがある。
結果出るのは1ヶ月半後なので、なーんにも考えずに…っていうかこの一週間でストップしてたタスクをクリアしなければ。
では、またなんか、時間に余裕のあるときに。
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