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note出戻りのご挨拶/「人格」は揺らぐ

noteには、「出戻り」です。同じ「亀野 あゆみ」名義で、おもに素人小説を投稿していました。
当時ご友誼を賜った皆様に、心から御礼申し上げます。そして突然退会した無礼をお詫び致します。
初めてお目にかかる皆さま、御見知りおきの程、よろしくお願い申し上げます。

note退会後は、小説投稿サイトに素人小説を連載する一方「心に浮かぶよしなしごと」をTwitterでつぶやいてきました。

この度noteに復帰することにしましたのは、Twitterとの関連です。

私のツイートは、ほぼ、「その場の思いつき」です。
ただ、つぶやきながら「前にも同じことを呟いてないか?」「前と違うことを言ってるみたいだけど、繋がってもいるような?」と感じることがあります。
そのような時にProfileやBookmarksを掘り返すと、確かに一貫した関心事や、それをめぐる発想の変遷があるのです。発想が変遷している場合、他のTwitter参加者の方々の影響が大きいことにも気づきました。

「ひと繋がり」のツイートが、タイムラインに押し流されるまま記憶の彼方に消えていくのは、もったいない。

それが、私がnote復帰を決めた動機です。

私のツイートは限りなく独り言に近いものです。ネットの公共空間を煩わせなくても、WORDやPDFに落として個人的な備忘録を作っておけば十分だ。初めはそう考えました。

しかし、過去のツイートは、独り言であれ、Twitterというネットの公共空間に向けて発信され、現在も閲覧できるものです。しかも、他のTwitter参加者の皆さまの影響で考えが深まってきたことがわかります。

であれば、やはりネットの公共空間に開かれた備忘録にしよう。そう思った時、真っ先に浮かんだ媒体が、かつて御世話になったnoteでした。

以上が、私のnote復帰の弁です。

さて、今回は復帰初回なので、軽くテーマに触れるにとどめ、内容を深めるのは次回以降に回すこととします。

今日のテーマは、「『人格』は揺らぐ」です。

近代西欧思想は人間の《意識された主体性》を重んじます。
゛意識された” という所に、現代の人間観の歪みを生んだ原因が潜んでいるのですが、それについては機会を改めて触れます。

したがって、近代西欧思想は、人間が『意識された主体性によって統合された人格』を備えることを求めます。私は、これを「統合された人格規範」と呼んでいます。

フロイトの「無意識」が、「統合された人格規範」へのアンチテーゼであったとする論があります。
しかし、私はフロイトは「無意識」を「意識」に統合していくことを精神療法のゴールにしていたと理解し、彼に「統合された人格規範」を否定する意図はなかったと考えています。

私は、人間は「身体・臓器・脳が生きるという目的に向けて協働する系」だと考えています。この系において、身体・臓器・脳は相互依存の関係にあり、脳が身体と臓器を支配しているのではないとも考えています。

人間を身体と臓器を含んだ系であると考える時、私の脳裏には、外界とのエネルギー・情報・物質との交換の上に成り立っている流動的な系が浮かんできます。

そのことに触れたのが、次の2つのツイートです。

https://twitter.com/6nhjhmwFce4Zm5O/status/1265471373637386240

https://twitter.com/6nhjhmwFce4Zm5O/status/1265471373637386240

私は、このような人間観(人格観)を持っていますので、政治的な立ち位置についての固定した「右・中道・左」という分類を大変窮屈に感じます。

それを述べたのが、次のツイートです。

https://twitter.com/6nhjhmwFce4Zm5O/status/1267287949827125249

政治的「レッテル貼り」は息が詰まる

私は、人間を論理や観念の枠に無理やりはめ込むことはできないと考えています。

さて、本日は復帰初日なので、このくらいに致します。

また、皆さまのもとをお伺いします。その節は、どうぞよろしくお願い致します。

《今回はここまで》





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