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ホル子のブラジャー紹介(8)パステルカラーのキキララブラとファンシーをめぐる色々

 今回は、前回の大人下着から一転ファンシーなやつ。つやつやサテン地にキキララがプリントされていてパステルカラーに白レース。なんと可愛いのか。大人下着が夜の鱗翅目であるとすれば、ファンシーブラはラウンド菓子のケースに詰まったコットンキャンディー。ええ大人がキキララはどないやねんと思う向きもあろうけれど、見えない下着ならどんだけファンシーでもよいでしょう。いや別に見える服でもええと思う、「大人がファンシーでドコが悪いねん(註)」である。(註:昔の関西ローカル番組内のコーナー名に「男がしゃべりでドコが悪いねん」ってのがあったのだ。朝からべかことかざこばとかが喋り倒すコーナー。)

 自分はファンシーデビューが遅かった。ポムポムプリンの尻と腹に魅せられて、サンリオショップに初めて入ったのは30代か。子どもの頃もそれなりにファンシー好きではあったが、親はファンシーを与えることをあまり好まなかった。未だに思い出すのは「うちのタマ」の無念である。子ホル子(子供時代のホル子の意)は、ある日小学校で渡されたプリントを見て歓喜した。家庭科の授業が始まるので裁縫セットを注文せよという通達だったのだが、キャラもの(女子向け)・キャラもの(男子向け)・なんか渋いスタンダードな柄、という3パターンから選べるようになっていた。当時は異性向けのものを選ぶことはほぼ想定されていなかったため、実質二択。で、女子向けのキャラものは「うちのタマ知りませんか」だった! ユーモラスで可愛いタマの絵柄は80年代当時のファンシーグッズ界を席巻しており(今も健在らしいが)、タマグッズをたくさん所有する友人を日頃羨ましく思っていた子ホル子は、「これはーーー!!」と興奮したのであった。自分もタマグッズを合法的に(?)所有できるチャンス! なのに結局子ホル子が選んだのは、タマでないスタンダード柄のほうだった。なぜ! 別に親に指示されたわけでもないのに親の好みを先取りしてしまったのであろう。その後、タマ裁縫セットを使う友人たちを見るたび「やっぱりタマにしたらよかった~~! なんでタマを選ばへんかったんや~~!」と後悔し続けていた。

 親がファンシー忌避気味であったのは、財政事情および、ファンシーよりはシンプルで有用なものをという親心と嗜好ゆえであっただろう。日本語化した「ファンシー」は定義が難しいし指し示す範囲も広いけれど、ひと言でいうなら「有用性と関係の無い可愛さ」だと思う。我が家は有用性重視であった。だがキキララはときどき与えられた記憶があり、学習デスクの下に敷くマットという大型アイテムもキキララだった。キキララとなると正統派過ぎて、ファンシーグッズというより伝統的文様のひとつみたいな認識だったのかも。このブラジャーのプリントも完璧である。パステルピンク地にちりばめられたキキララたちは、可憐な白いレースの下でティーセットを運んでる。その合間にお花の模様。ティーポットの柄までお花模様で可愛くてマカロンまでピンクとミントのパステルカラー。さすがサンリオの重鎮だけあり完成されたファンシー、幾何学的ファンシーだ。こんな可愛いもので拙乳(乳をへりくだっていう謙譲語)を包んでよいのかしら。そうそう、ファンシー好きでありながらファンシーに腰が引けてしまう一因としてはそんな気持ちもあるんだった。

 ところでこの間、島村麻里『ファンシーの研究』(ネスコ、1991)を読んでみた。当時(ちょうどタマ裁縫箱の頃だ)のファンシー状況が分かって面白かった。バブル期のハデ婚なんかもファンシーの例として挙げられていて。そこで印象的だったのは、ファンシーの力を認め自らのファンシーに惹かれる心も認めつつも、ファンシーの氾濫を嘆く口ぶりのアンビバレンス。まずは、これは女子供の文化を論じるときはちょっと見下しの視線を入れねばならないというアレかな、と感じた。私もかつて「BL」とか「ロリータファッション」とかの少女文化について語るときそういう語り方になりがちだったので(読者として想定される「大人の男」に合わせようとしてたんやなあ)。でも単にそれだけではなさそう。本書で面白かったのは、ファンシーを求める側よりも、ファンシーが70年以降の内需拡大策の一つであるという企業側の事情に注目していたところ。そうして作り出された大量消費にうかうか乗せられてよいの? みたいな警戒が著者にはあったのやなと思う。ファンシー化は「その業種が生きのびるための最後の切り札」ってくだりなど面白く思うと同時に、今やその究極形態みたいになっとるなあという感想を抱いた。商業主義化した「推し活」の後押しもあり、厳しい競争の中でいろんなものが何らかのキャラとコラボして付加価値つけなあかんみたいになってる昨今、消費の洪水としてのファンシーからはちょっと距離置きたい、みたいなんは私もありまして。あちこち可愛いもので溢れるのは愉しいし大人がファンシーを嗜んでも奇異がられなくなったのも嬉しいことだけれど、タマ裁縫箱にひっそり憧れたり「こんな可愛いもん……ええんかな?」と思いつつ服の下のキキララを愛でたり、自分はそんなささやかなファンシーでええかな、と大人ホル子は思うのだった。まあ好みの問題ですが。

 ところで私はさーもんさん(仮)と「ファンシー&ゴリゴリの民」を名乗っている。ファンシーも好きだがゴリゴリしたものも好きなので。ゴリゴリというのもなんなんだかよく分からないが、とりあえず非ファンシーなもの全般を指す(無骨なロックとか血の出る漫画とか)。しかし、もはやファンシーがゴリゴリを包摂しているというか、いや、ファンシーがすべてを包摂しようとする力自体がもはやゴリゴリであり、ファンシー=ゴリゴリであるような気もする。何を言っているのかよく分からないが、とりあえず、肛門までもファンシー化させたポムポムプリンの功績はゴリゴリのファンシー魂として賛美したい。


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