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夫との馴れ初めについて

 夫との馴れ初めっすか? いやー。
 いや別に内緒ってわけじゃないんすけど、なんか惚気みたいになっちゃうから恥ずかしいなー。いいですか?
 
 いや、つまんない話すよ。最初は単なる友人で。たまに遊ぶかなー、くらいの。
 あるとき、うちの家電が潰れたんですよね。ケーブルが切れかけてんのに使い続けてたら、そこから急に発火したんすよ。こわかったー。家燃えちゃうとこでした。
 で、買い替えなきゃってなって電器屋についてきてもらったんです。彼は機械に強いので。ん? 男の人だから?――ってわけでもないと思いますけどね、はあ、まあ。
 でもまあたしかに彼は頼れるんすよ。私は、色が可愛いやつにしようかなとか適当に選んでたんだけど、ちゃんとスペック?とか性能とか比較して探してくれて。この人に相談してよかったなあって。そうなんすよ。しかも、最初の店ですぐに買わず、一番値段の安いところで買おうって提案してくれて、何店舗か回って店員さんとも交渉してくれて。自分は節約とか価格交渉とか苦手なので有難かったですよね。
 でも、結局どこの店もあんまり価格変わらなくて、じゃあ彼が会員カードを持ってる店で買おうってことになったんです。
 そのカードを出すと5%オフになるとかで。彼はそういうお得なテクニックよく知ってるんすよ。で、ちょっと遠かったけれどその店に移動して、目当ての家電を見つけてレジに行って、彼が会員カードを財布から出そうとしたんですけれど――

 ――見つかんなかったんですよね、カードが。
 なんか、入れてたはずなのに財布ん中に無かったみたい。「あれっ」って。

 店員さんは優しそうなお姉さんでした。「いいですよ、ごゆっくりお探しくださいね」って言われて、彼は財布の中の捜索を始めたんですが、いろんなポイントカードや会員カードや診察券は出てくるものの、探してるカードは出てこない。ずっと「あれっ、あれっ」と言いながら財布の中をごそごそしてる。たくさんあるカード類を一枚ずつ精査し始めたけれど、どれも探しているものとは違うみたい。
「あ、これ閉店した店だ」
「これももう無い店のだ」
「出張先で行った店だ、もう二度と行かないな」
 とうに期限の切れてるクレジットカードもあるし、レンタルビデオ屋はチェーンごと倒産したやつだし、潰れたラブホのポイントカードは、昔の彼女と行ってたやつかなあ。さっきまで頼れる人のはずだったのに、財布の捜索を始めた彼は、深い森に迷い込んだ探検家みたいになってしまいました。小銭入れも開けて紙幣の間も捜索して、黒い革の財布の中を、まるで濁った沼を掻き回すみたいにして、次に掻き出し始めたのは溜め込まれたレシート。
「これじゃないな、これじゃない、これじゃないな、これじゃない」
 毎日のコンビニやスーパー。おにぎり、惣菜、アクエリアス、ミンティア、スパイシーチキン、ピュレグミ。仕事終わりに行ったらしき居酒屋。営業中に寄ったらしき喫茶店。本屋。カプセルホテル。いつのレシートだか分からないものが化石のように小さく圧し固められた状態で続々出てきました。爪楊枝。なんかの切れ端。ガムの包み。なんか錠剤。公共料金の支払いの控え、それは大事なやつじゃないの? だいぶ前に話題になった映画の半券。サマソニのチケット半券。あ、今年のサマソニ行ったんだあと思ったら四年も前のサマソニなんすよ! 誰出てたときだっけ?
 ――何の変哲もない黒い革財布から、彼の過去と生活とゴミクズが、次から次から次から、湧き水のように湧き出てくる!!! 

 財布の中身をぜんぶレジ台にぶちまけた彼は、
「ない、ない、ない」
 と言いながら今度は尻ポケットや胸ポケットやスマホカバーの中もごそごそし始めて、ゆっくりお探しくださいねと言ったものの店員さんも困った顔になり始めました。
「ああ、冷や汗出てきた、尻がぐっしょりだ」
 と呟いたんでいやそこまで焦るほどのことでも無いだろと思ってふと見ると、本当にズボンの尻のところの色が変わっちゃってました。静かにパニックになってたんですよ。えーって思いながら、でもべつに5%くらいのことだし、いいですよ普通の価格で買いますよ、って支払い始めようとしたら、なんか液体が落ちてきた。パタパタと、レジの白い台の上に小さな水溜まりができていました。見上げると、彼はポケットを裏返しながら冷や汗をとめどなく流しているんです。

 その汗がまるで、夏の終わりが降らす激しい夕立の雨粒のようだった――
 
 ……それが馴れ初めですかねえ。
 え、なんでかは上手く説明できないんですけど。なんか、そのときに、自分はこの人と一緒にいるのがいいんじゃないかと思ったんですよね。
 一緒に暮らそうと思った決定打? うーん、強いていえば、初めて家に遊びにいったときかな?

 まず、家の中にパンツが飾ってあることにびっくりしましたね。それは飾ってあるんじゃなくて単に置いてあったらしいんすけど。干したやつを畳んで片付けるのが面倒だからって、なんか至るところにパンツ広げてあったんで飾ってるのかと思って――ってそんなことはどうでもよくて。家に上がると彼が、珈琲でも淹れようか、と言ってくれたんす。ちょっと良いドリップパックみたいなのを出してくれて。お、いいなって。
 ケトルが沸騰したんで、お湯沸いたよって言うと、彼は「しばらく待つんだよ」って言いました。
「珈琲は沸騰してすぐ淹れては、苦味が強く出る。風味を出すには90℃前後のお湯が一番いいから」
 って。そうなんだ、よく知ってるなって感心しました。私もよく珈琲飲むんですけれど、いつもケトルを強火にかけて沸騰させてすぐ注いでたんすよ。 
 待つ間に、濃い藍の光沢のある小袋から取り出したドリップパックをユニオンジャックの模様のマグカップに装着し、ちょうど適温になった湯を彼は、ケトルからゴボゴボ注ぎ込みました。

 ――ゴボゴボ!?

 ドリップパックに勢いよく注がれた湯は、その勢いで滑らかな粉末を抉って横溢し、横溢した湯は粉末を含んでマグカップの内と外に垂れ流れ、まるで、土砂災害に見舞われた翌朝の山麓のような珈琲が運ばれてきました。カップの中には盛大に粉が混入し液体中をちりちりと舞っていました。試しにひと口飲んでみますと、口の中に胡麻化しきれない量の粉が堆積したので、舌をウゴウゴさせて指でチマチマ除去しました。彼もマグカップを口に運び、首を傾げ、
「粉が入っちゃった」
 と言いました。

 そりゃそうであろう! 考えたら分かることではないか! 最高だ!と私は思いました。そのとき、この人と一緒に暮らすべきだな、と思ったのでした。

「ええー、そんな感じの人なんだ、旦那さんって」
 御桜先輩は、とりとめない私の話を打ち切り、少々呆れた調子で言った。
「意外」
「そうですか」
「しっかりした人かと思ったら意外に抜けてるんだねえ。そこがよかったの? 母性がくすぐられた、みたいなこと?」
 母性……? いやあ、まあ、どうですかねえ、と私は曖昧な返事をした。母性、なのであろうか。
「結婚してからはどうなの?」
「まあ、上手くやってますよ。ほら私はお金の管理とか苦手なんで、夫は節約家なんで助かります。でも、こないだ夫が顔洗ったあと、洗面の水道が出しっぱなしでしたけどね。はは。水代が心配。節約家なのに、朝の慌ててるときとかそうなっちゃうんすよね。や、でも、朝じゃなくても、風呂を沸かしたはずが湯舟の栓を閉め忘れてたとかありましたわ」
「そっか、そういう男性を支えてあげたいタイプなんだ」
 関心を失ったらしい御桜先輩は手短にまとめた。私が人を支えるタイプでないことは、いつもさんざん私のミスをカバーしてくれている先輩はよく知ってるはずだが。
「そういやね、経理の香坂さんも結婚するらしいよ、ついに。おめでた続きだねえ」
 もうちょっと夫のことを惚気たい気もしたが、次の情報が提示された。あの香坂さんか。時間外業務報告書を持っていくときくらいしか会話しないが、あの人のことはなぜか少し気になっていた。もっと喋ってみたいような。こっちも夫がいるわけだから、恋愛とかそういうのではないけれど。
「よかったよねえ、あの人も、ほら」
「ええ」
「いつも皺だらけのワイシャツ着てさ」
 そう言われれば香坂さんのシャツはなんだかヨレヨレだったな、と気づく。ヨレヨレのシャツにいつも笑ったような細い目、その目尻に皺が浮かんでいる香坂さん。もうおじさんなのに思春期の少年みたいに変に細い手足の香坂さん。
「昼も適当なもんばっか、ペヤングとかばっか食べてるけど、これでちょっとはパリッとして食生活も健康になるかもね」
「はあ」
「いやほんとにね、香坂さんをどうぞよろしくお願いします、って気持ちだわ」
 アンバランスな香坂さんの生白い手足が、年齢に見合った健康さに肉付いたところを想像したら、なんだかちょっと寂しくなり、恋でもないのに失恋した気がした。

 でもさあ――帰り道に私は想像した――どんな人だろう香坂さんと結婚する人は。もしかしたら、香坂さん以上に皺の刻まれた服を着てる女の人かもしれない。皺皺服同好会で知り合った皺皺服同志かもしれない。香坂さんとは元々ペヤング友達で、今後も二人は昼食にペヤングを食べ続けるかもしれないし、なんなら夕食もペヤングかもしれない。二人の甘い新居には、ペヤングの空容器が積み上げられている。なんでだらしない男の人が結婚すると、これでちゃんとするねとか支えてもらえるねとか、奥さんがだらしなくないこと前提のように言うんだろう。奥さんは香坂さん以上の、超絶皺服ペヤンガーかもしれないのに。

 そんな空想をしながら、たどりついた自宅のドアを開けた。散乱した靴を踏み分けて部屋に上がる。いつもながら玄関の靴の散乱っぷりは「何人来てるんだ」と思うほどだが、二人だけの家だ。私も、夫に負けず劣らず片付けるということができないのだった。バッグの底からはしょっちゅう、いつか買ったまま忘れ果てていたグミの袋や丸薬のように固まったティッシュが出てくる。ぺしゃんこになった化粧ポーチを発掘して「えらく年期の入ったポーチだねえ」と御桜先輩に言われたときはちょっと恥ずかしかった。だから、夫の財布から四年前のサマソニが出てきたとき、私は電撃的な運命を感じたのだ。あのとき覚えた感情は、ちょっぴりだらしない男の人を可愛く思う気持ち、などではなかった。そうだった、それは母性ではなく、たとえるならば少年漫画で、主人公が思いがけない好敵手に出遭ったときの、「俺より強いやつがいた」という感動であった。

 まだ新婚半年しか経っていないにもかかわらず両者が散らかすため床がほとんど見えないリビングから部屋着を拾い上げて着替える。この部屋着は袖が焦げている。揚げ物を作ろうとしてうっかり炎が上がった。あれは危なかった。どうも私は火関連のドジが多い。料理もしょっちゅう焦がすし。結婚して数日の頃、結婚したからには妻っぽいことをするべきではないかと考え夫のワイシャツにアイロンをかけてみたが、見事に焦げ目がついたため、以降アイロンは触っていない。
 一方、横に落ちている夫の部屋着にはいつも何らかの液体の染みがついている。夫はしょっちゅう食べこぼしている。飯時にTVニュースを観て世界の動向を知る、のはよいのだが、その間食事への注意が留守になり汁やらなんやらをポタポタこぼす。汁気のあるものを食べるときに、器で受けるか、顔の位置を調整するかすればよいのに、考えれば分かることではないか、と思うが、私もまた「考えたら分かることでしょ!」とこれまで何度言われてきたことか。私は子どもの頃を思い出す。
 子どもの頃、母が火にかけている最中の鍋に、手で触れて火傷をした。熱されている最中の鍋は熱い、という知識はあったにも関わらず、なぜ触れてしまったのか。熱さに泣きわめき氷で冷やされ「考えたら分かることでしょ、熱いものに触ったら火傷するって」と叱られながら私は自問した。考えたら分かるはずなのに、頭では知っていたのに、フラフラと熱された鍋に吸い寄せられたそのとき、それが熱いということを忘れてしまっていたのか。それとも私は、熱いとはどういうことか、知りたかったのか。指の先が水膨れになった。

 思えばこれもまた火関連の失敗である。いやいっそ、こんなに燃やしたり焦がしたり火傷したりするのは、火タイプの能力者なのかもしれないな。ただしその能力を制御できないタイプの能力者だ。私はいつか家を燃やすだろう。炎に包まれる私たちの部屋。床に散らかした衣類や紙クズにまたたくまに引火し、ちゃんと片付けておくのだったと後悔する。そのとき、パタパタと降ってきた彼の冷や汗が、あるいは、ドリップパックから横溢し続ける粉末混じりの湯が、燃え上がるそれを消火してくれるのでないか。彼が流しっぱなしで放置していた水道の水が洗面台から溢れ出し、私の炎上を鎮めてくれるのでないか。あるいは、私は浴室へ走る。夫が沸かしてくれていたはずの風呂の湯。それを汲んで消火するんだ。浴室のドアを開ける。湯舟を覗く。栓は締め忘れられ、そこにはただ、乾いた湯舟だけがあった。

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