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人肌温感スマートフォン

 同じ床で、同じ夢を、見るための眠りに落ちたかと思った彼女が、つないでいた手をそっと離した。

 不意にてのひらからぬくもりが離れたことで閉じかけていた俺の目も開き、どうかしたのかと隣を見遣ると、夜更けの闇の中スマートフォンの青い光が彼女の横顔を照らし、彼女の眼は一心にその画面に注がれていた。なんなんだよ、と思った次の瞬間、俺も半ば無意識にSNSを開きバズってるポストにぶら下がるコメントを延々スクロールし、むかつく知らんやつにリプライを飛ばしていた。
 2008年、日本でiPhone発売、Android発売、日本語版Twitter始動。あの頃からか、おかしくなってしまった。日がな俯いて覗き込み撫でさするのは機械ばかり。機械を通じて人間に出会えるかと思いきや、人間の打ったらしき文字はあってもそいつの顔は見えてこない、誰も彼も同じような文体で喋りやがってよ、AIと変わりない、むなしい、人間がいない。こんなんじゃダメだ、もっと温度をもった人と人との触れあいがあるべきだろ。温度を、生きた他者とのふれ合いを、ふれ合いの驚きとぬくもりを、取り戻さなければならない。

 と思ったので、人肌の体温と感触をもつスマートフォンを開発した。画面側は可読性のために透明処理を施さざるを得なかったが、画面を操作する際に指の腹に感知される感触はちゃんと人間の肌の質感と温感を備えているし、画面閲覧時に裏側を支える側の手にも誰か他人の肌と接しているようなぬくもりが得られる。勿論人肌の有り様には個人差があるがそこは考慮せず平均的なそれを採用した。類似の商品はこれまでにもあったかもしれないが、単にすべすべさせただけでなく全体的に細かくささくれたような粗めの肌理を再現している。スクロールの際の利き手人差し指には、その肌理によるかすかな抵抗感が感じられる。ツルツルしたこれまでのスマホの画面とは違い、そのかすかな抵抗感が他人の肌というものの本質であろうと思う。さらに肌理ばかりか、産毛の感触や、小さな擦り傷痕や、黒子や疣によるひっかかりも人肌を模しており、そこに他者が顕現しているようで思わず居住まいを糺したくなってしまう。

 と思ったはずであったが、三日もすると完全にこのスマホに馴れてしまった。まるで本物の生体のように感じた人肌温感スマホは、単に手触りがちょっと生き物っぽいだけの電子機器でしかなくなり、四日目にはもはやなんの新鮮さも感じることなくまた半分寝ながらむかつく知らんやつにしょうもないリプライを飛ばしていた。スマホはただの自分の延長に戻り、それは人肌の手触りであるゆえにいっそう自分と区別がつかなくなった。ただの人肌ではダメなんだ。

 ただの人肌ではダメなんだと考え、次に開発したのは粘膜っぽい触感のスマートフォンであった。粘膜に接するのは、ただの皮膚に接するよりも接触時に緊張感を必要とするのではないだろうか。実際、タップするたびに画面が人差し指の腹に吸着するようでいちいちびくりとし、こちらがびくりとするのに反応してスマートフォンも小さく震えて湿り気を帯びる。この不快こそが他者性ではないか。スマホを手にするたびその湿り気に軽く驚かされスマホを手放すと表面がわずかに糸を引き粘液が指に付着する。しかし、この先起こることが俺には見えた。粘膜スマホにも三日あればじきに馴れてしまうだろう。皆、スマホで湿った指を適当に拭いながら普通に画面を見続けるだろうし、なんなら湿った指拭い用グッズがスマホアクセサリ売り場に追加されるだけだ。

 いっそ、内臓のようなスマホを作れないものだろうか。人に内蔵された内臓こそ人にとって他者であると思う。他人の内臓も自分の内臓も基本的に日頃触れる機会はない未知だ。内臓をかき分けてそのずっと奥へ到達することができたなら。画面をタップする。指は画面に吸い込まれてゆく。赤黒く蠕動する画面に吸い込まれた指は、三六〇度から包み込む内臓の弾力にきうきうと締め付けられながら進み、その内側を掻き分けて掻き回して向こう側へ突き抜けてやりたい。その奥にあるはずの誰かの心に触れたい、喰い込みたい、突き刺さりたい。ひどい臭気と血液が充満し臓物の脈打つ中を、掻き分けて、掻き分けて、先へ進むと、光が差す広場が拓けていた。手が何か硬質なものに触れ、それを掴んだ。掴んだものはどうやら、明朝体の点だった。点の下に丸みをおびた部分がある。「お」ではないか。隣接して、折れ曲がった縦棒が立っていた。「く」、此処が奥ということか。広場では、まだキッズスマホも持たされていないような小さな子供たちが駆けまわって「の」を転がしている。その周囲の草地では思い思いのひらがなやカタカナがのんびりと草を食んでいた。内臓の長いトンネルを抜けるとそこは文字牧場だったのだ。木蔭で鈍重な「ぬ」が休息していた。

 俺はしばらく文字牧場を散策した。ひらがなカタカナゾーンの隣では、英字のアルファベットやハングルやアラビア文字やデーヴァナーガリーといったかなんといったか見慣れぬ文字たちも草を食んでおり、その大方は読めないものの、愉しげで美しい光景であった。牧場を過ぎて街に出るといくらか店が並びカフェがあった。そういやしばらくスマホを見ていない。ここで休みがてらスマートフォンをチェックしよう、と思い店に入った。結局スマホを見たくなってしまうんだなあ。なぜ正式名称の片仮名表記はスマートフォンなのに略するとスマホと「ホ」にしてしまうのだろう。そういやさっき「ホ」たちも牧場でのんびり仔ホに授乳していてかわいかったな。カフェはゆったりしたカフェで、テラス席にはしんにょうの長椅子が数台置かれていた。漢字店舗なんだな。薔薇紅茶を嗜みながらしんにょうの上では「首」の形になった人や「庶」の形になった人たちが思い思いに足を投げ出し休んでいた。「点を持ち帰らないでください」の貼り紙がある。たしかにしんにょうの点って持っていきたくなるよな。店の奥は薄暗くなっており雪・雲・電等あまかんむり寝台コーナーとなっていた。しかしこうして見るとやはり表意文字は感情負荷が高い。重いなあ、と思いつつもよりによってとりわけ感情負荷が高そうな「霊」の寝台を俺は選んでしまった。「雨」とその雨の下の横棒の間に入り込むと、さすがに快適にぴったり身体が収まった。快適な隙間にうつぶせに寝そべりながら、俺はスマホをスクロールし始めた。

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