モモコ、姉になる
ついに姉になりやがった―――。
モモコの嘘には既に馴れてしまったが、何故姉にまでなる必要がある?
母は呆れ果てながらしばらく、インターフォンの前に立ち尽くしていたという。
母が、最初に神田モモコの家を訪ねたのは、今から一年以上前のことになる。
初回、母は、その若い女に対して、別段何の印象も持たなかった。
モモコは、子供が急に熱を出して医者に診せることになったため、今あいにくお支払いできる持ち合わせがないのだと、済まなそうに説明し、後日、販売店まで代金を支払いにくることを約束した。
そうですか、お大事に、と軽く挨拶して、母はスクーターで去った。
後々、あんなに頻繁に「子供が急に熱を出す」ことになろうとは、予想だにしなかった。
モモコの家は、われわれの住む下町をやや離れた新興住宅地にある。本来、そこは、母の担当エリアではなかったのだが、前の担当が腰を痛めてパートをやめてしまったため、母と他数名の集金員が、その人の担当エリアを分担することになったのであった。このエリアは、我が家からは、けっして近くはない。 近くはない一軒のためにわざわざ集金に出向いても、相手が不在であること、或いは、持ち合わせがないと言って断られることは、しばしばあることであり、それが一、二度であればさして気にもならないが、二度三度と続けば否応なしにその相手に対する苛立ちの感情が芽生えてくる。集金される側からすれば、月に一度顔を合わせるだけの集金のおばちゃんが自分に対し何らかの感情を継続的に抱いているとは思いも寄らぬことであろうが、集金する側としては、癖のある客に対しては、案外強い特定の感情を抱くようになるのであった。
とりわけ、集金員に強い印象(勿論悪い意味での)を与えるのは、「この時間に来てください」と時間を指定しておいていざ行ってみれば家にいない、という客、しかも、一度のみならず何度もそうした無駄足を運ばせる客である。
翌月、電話で都合を聞いたところ、モモコはおっとりとした口調で、
「27日の夕方4時以降なら家におりますから」
と言ったので、母は、27日の夕方4時以降にモモコ宅を訪問したのであった。 ところが、インターフォンを押せど、返事はない。 携帯電話もつながらないので、母は、その日は諦めて引き返し、翌日、同エリア内の他の家を集金したついでに、もう一度モモコ宅にも寄ってみた。インターフォンを鳴らすと、果たしてモモコは出てきた。
「昨日いらっしゃると聞いたので、お伺いしたんですけど」
との母の言葉に、モモコはやはりすまなそうに、
「申し訳ないです、昨日は子供が急に熱を出して、お医者さんに行くことになって」
と説明した。 先月のことをぼんやりと思い出しながら、よう熱を出す子やな、と母は考えた。
「そうでしたか、大変でしたね」
とねぎらいつつ、母は手際よく伝票を繰った。
「では、今月分3058円お願いします」 。
数秒の沈黙ののち、モモコは言った。
「それが、昨日子供をお医者さんに連れていって……、お医者さんに行った帰りにお財布を落としてしまって、警察には届けたんですけれど、……今、一円もないんですよう」
はるばる訪問して集金できないことは集金員たちにとってはそう珍しいことではない。何度も訪問したのに客が不在であった場合は、当人に販売店まで代金を持って来てもらうシステムになっている。だから、そのときは腹立たしく思いはしても、後に販売店まで代金を持って来てくれさえすれば特に問題はないのである。このときも、数日後、モモコ本人がちゃんと金を払いに来たという連絡が販売店からあった。
しかし、モモコは、そのどこか奇妙な言い訳の仕方が、母に、すっきりとしない印象を与えたのだった。
翌月の集金日は、その年初めての真夏日であった。 やはり事前に電話をかけ、25日の日中なら在宅であるという約束を取り付けた母は、熱されたスクーターに跨り、決して近くないモモコ宅まで赴いた。 インターフォンを鳴らすも、またもモモコは不在であった。 無駄足もこう二、三度と続くと行き場のない憤りが芽生える。況や、炎天下である。
とはいえ、相手が不在なのではどうしようもない。母はもやもやとした苛立ちを抱えながらも一旦家に帰り、夜にモモコ宅に電話を入れた。 相変わらずおっとりとした口調で、モモコは電話に出た
「神田さん、25日に来るようにと仰ったんで今日伺ったんですけれども。いらっしゃらなかったようですけれども」
「どうもすみませんでした、明日の夜ならおりますので」
「では明日お伺いしてよろしいですね」
翌日は流石に、約束通りモモコは家にいた。「確かにいただきました」。 母はひと月分の新聞代を徴収した後、自分の娘と同じ年頃であるこの女に、ついつい説教めいたことを言った。
「こちらも都合がありますから、おられると言っておられないというのは、困ります」
すると、モモコは、母にとって馴染みのものとなりはじめた申し訳なさそうな口調で、言った。
「本当にすみません、あのう、昨夜は……実家の母親が倒れて、急に戻らなくちゃいけなかったものですから」
子供の次は、母親が倒れたというのである。 よう倒れる一族やのう! と言いたくなったのを抑え、 「大変でしたね。そういえば先月なくされたっていうお財布、見つかりました?」 と尋ねてみた。
「それが……、警察にも届けたんですけど、やっぱり見つからないんですよう」
その翌月も、翌々月も、モモコは、実家の母親がまた倒れた、夫の母が具合が悪い、また子供が熱を出した、と理由をつけては不在であり、やっと捕まえたかと思えば、やはり何らかの理由をつけて、今持ち合わせが1000円か2000円しかない、などと言い、支払いを拒否するのであった。
新興住宅地の一軒家に住むこの若い母親が、金に困っているようにもちょっと見えなかった。集金に来るとモモコはいつも、派手ではないが流行のデザインの洋服を纏って現れる。金がなくて支払いを拒否する家は時々あるが、モモコに限ってはそういうわけではなさそうだった。実際、持ち合わせがないと言った月でも、その一週間以内には、モモコはきっちり販売店まで代金を持ってきていた。また、集金仲間の話によると、モモコの夫は、名のある企業に勤め、それなりの収入がありそうだとのことだった。
そうこうしているうちに、夏と秋が過ぎ、冬のみぞれの中スクーターを飛ばして数度無駄足を踏まされた母は愚痴をさんざん家族にこぼし、モモコの名は集金員の家族もよく知るところとなった。まともに集金できたのはここまで一、二回のみという勝敗状況で、冬も明け春が来た。
その月の集金日は連休前であった。 何日か前に電話で在宅日を尋ねたところ、「連休前の夜でしたら家にいます」という返事であったのだ。集金鞄を用意してスクーターに乗ろうとしたときに、母は、何度もこの女の言葉を信じては無駄足を踏まされてきたここ何か月の苦い経験を思い出し、念のため、訪問する前に電話を入れた。 果たして、モモコは電話に出た。勇んでこれから集金に行く旨を告げると、モモコは言った。
「あ、申し訳ないですう、これから夫の実家に行くことになってしまったんですよお」
「あらそうですか。では、急いで伺いますね」
「いえ、もう今すぐに出なくちゃいけないんで」
今夜なら家にいると言ったでないか! しかし、ほらやっぱりこれだ、事前に電話で確認してよかった、と母は思った。
「では、明日お伺いしますね。明日の夜ならご在宅ですか?」
「それが……、夫の実家に長い間泊まることになって、夫の実家は遠いんで、連休明けまで帰ってこれないんですう」
連休明け、母は改めてモモコ宅を訪問した。インターフォンを鳴らすと、モモコは不在であった。 携帯電話に電話をすると、 「今、買い物に出てまして、10分ほどで戻りますう」 とのことであった。
いったん家に帰るのも面倒であるので、モモコを待つ暇をつぶす間、母は、モモコ宅の隣家の老婦人に話しかけた。老婦人は、やはり小奇麗な一戸建ての庭でガーデニングの最中であった。
「今日も集金? お疲れさま」
以前にも、外出中だというモモコを待つ間、ガーデニング作業中だったこの婦人に、やはり庭仕事を趣味とする母が話しかけたことから、少し言葉を交わすようになったのであった。
「お隣の神田さんが今日もいらっしゃらなくて、待ってるところなんですよ」
「そう、いつも大変ねえ……あ、これよかったら、また種が余ったからお裾分けするわね、ちょっと変わったお花なのよ」
「有難うございます。……あの、神田さんって、しょっちゅうお出かけされてるんですか? いつ来てもいらっしゃらないことが多くて」
「ああ……、お隣さんのことは、よく分からないのよねえ」
「そうですか、なんだかこの間の連休もずっと、旦那さんのご実家に帰っていらしたとか聞きましたけれど」
「あら、そうなの?」
老婦人は、訝しげに首を傾げた。
「連休中はずっと、そこの公園で、神田さん、お子さんを遊ばせていらしたけれどねえ」
モモコがついに姉になるという事件が起きたのはその翌月である。
季節は初夏になろうとしていた。モモコ宅に集金に通い始めてそろそろ一年が経つ。
いつも通り母は、指定の日時にモモコ宅へ集金に訪れた。期待せずにインターフォンを押すと、珍しく応答があった。 今月はちゃんと約束を守ったか、と安堵しつつ、「K新聞の集金です」と告げると、インターフォンの向こうの声はこう言った
「あー………、すみません、あたし、モモコの姉なんですよお」
姉の話によると、妹は現在不在であり、姉である自分がその間の留守番をして子供の面倒を見ているということであった。
「妹は、大阪まで、友人の結婚式に行ったんです」
しかし、その抑揚の乏しい、おっとりとした喋り方は、紛れもなく、母がここ何ヶ月かですっかり聞き慣れてしまった、モモコ本人のものであった。
「そうですか、では、夜に改めて集金にお伺いします。何時頃帰られますか」
「えっと、それが、大阪のかなり遠いところなんで、かなり遅くなると思うんです」
「構いませんよ、お帰りになったら連絡いただけるよう、伝言お願いできますか」
「えっと、あ、……妹は、今夜は泊まってくるって言ってました」
金が払えないわけではないだろう、ひと月に一ぺん玄関先まで出てくることがそんなに負担であるわけでもないだろう。
なら、何故意味のない嘘をつく?
何故、毎回毎回、子供や母が倒れたり、3000円やそこらの金が無いと言ったり、姉のふりをしたりする必要がある?
母はスクーターを転がしながら、頭の中もぐるりぐるりと回り続けていた。
腹を立てるべきなのか笑ってしまうべきなのか、判断できず茫然としたまま帰宅すると、娘が母を迎えてうきうきと訊いてきた。
「モモコ、ちゃんと家におった?」
モモコはその度重なる虚言エピソードによって、集金員の家庭内ですっかり有名人になってしまっており、娘はあたかも連続小説の続きでも知りたがるように今月のモモコがどんな嘘をついたかを知りたがるのだった。
「おった………けど………」
「けど?」
母は叫んだ。
「姉になりよったんやああああああ!!!!!!!!」
モモコが「新聞を止めてほしい」と言ったのは、その翌月のことであった。
その月、モモコは珍しく、一回目の訪問で捕まえることができた。 機嫌よく、母は3058円を徴収した。そのとき、モモコが言い出したのだった。
「あのう、あたし、今月いっぱいで新聞代とか払えなくなるんです」
「え?」
「それが……離婚をすることになったんです、そうしたら、母子家庭になってしまうんで、この家も売ってしまわないといけないですし……、あと、子供もずっと入院中で医療費もかさんでますし、貧乏になるんです」
突然の身の上話に、母は、 「まぁ、大変ですねえ」と返すしかなかった。
まあ、離婚するのだかなんだか知らないが、新聞を止めてくれるのであれば有難い。面倒な客が一人減ることになる。集金は出来高制であるので、一軒の集金にどれだけ時間をかけたところで給与が上がるわけではなく、手間を取られるだけなのである。
だが、その次の月の伝票にも、神田家の名があった。例によって母は、指定された時間にモモコ宅を訪れた。例によって、モモコは不在であった。例によって携帯電話もつながらなかった。
母は、今年も強くなり始めた日差しの中、汗ばみながら、ぼうっと、不在の家を見上げた。
こうするのは、モモコ宅を担当して以来何度目のことだろう。 離婚をするので売り払わなくてはいけない筈の家には、新しく、車庫の上のこまっしゃくれた日除けの屋根みたいなやつが増築されていた。
手持ち無沙汰になった母は、例によって隣家の庭へふらっと立ち寄った。老婦人は涼し気な格好で、庭に水を撒いているところであった。母が声をかけると、老婦人は顔を上げた。
「あら、また集金? 暑い中お疲れさま」
老婦人の足元では、夏の花が開き始めていた。先日貰ったのと同じ種が育ったものかもしれない。母はといえば、あれからなかなか種を植える余裕がなく、種はまだ種のままであった。
「今日も神田さんお留守だったのかしら? 大変ねえ」
老婦人は苦笑いをした。
「ええ、色々お忙しいみたいで。……あの、神田さんのお子さんって病弱なんですか? 入院なさってるって聞きましたけれど」
老婦人は、また怪訝な表情になった。
「本当に? お子さんならいつも、そこの公園で遊んでるのを見るけれどもねえ」
家に帰り、母は、受話器を握った。 そして、禁じられていた番号をダイアルした。 腰を痛めた前担当の集金仲間から教えられていた、モモコの夫の仕事先の電話番号である。 販売店からは、顧客の家庭にもめごとを起こすようなことはしないでくださいと止められていたのだが、知ったことではない。 数回の呼び出し音と取り次ぎの後、モモコの夫が電話口に出た。(これが、あの女の夫の声か……)と母は、よく分からない感慨に耽った。モモコの夫は、確かにモモコより若干年長らしい、落ちついた声であった。しかし、同時に、どこかその妻を思わせるようなぼーっとした喋り方をする人物でもあった。 人の好さそうな声のその男に向かって、母は、早口で訴えた。
「ええ、そうなんです、毎回、おられると仰った時間におられないので、困ってるんですよ、それにいつも1000円しかないとか、2000円しかないとかで、お金もなかなか払っていただけないんで、ええ、ご主人からもっとお金を渡しておいていただけると有難いんですけれど、あ、でも、離婚してしまわれるんでしたっけ、ええ、奥様そう仰ってましたよ、それにお子さんも入院されてるみたいですし大変ですよねえ………あ、そういえば、いつか倒れられたっていうご主人のお母様、もう大丈夫ですか?」
「離婚」「入院」といった言葉が出るたび、受話器の向こうの空気が徐々に変わってゆくのが伝わってきた。人の好さそうな夫は終始、 「はあ……、はあ」 と抑揚のない相槌を打ちながら、圧倒されたように母の訴えを聞いていた。
次に母は販売店に電話をかけ、捲し立てた。
「とにかく嘘ばっかりなんですよ。子供が倒れたとか入院したとか言ってぜんぜんお金を払わないし、この間は、新聞を止めるとか言って結局止めてないし、申し訳ないですけど、あの家は、私はもう担当できません」
それからしばらく後、販売店から、神田家はもう今月限りで新聞を止めると言っており来月が最後の集金になるので、その一回だけ我慢してほしい、という連絡があった。 最後の一回、母はモモコに電話をかけ、いつもの通り、在宅日時を尋ねた。
「確実にいらっしゃる時間を教えてください」
母が厳しい声で念をおすと、モモコは妙に畏まって答えた。
「はい、確実に、確実におりますから!」
その月、指定の時間に、モモコは確かに家にいた。母は何ら支障なく3058円を徴収することができ、モモコはどこか神妙な面持ちでそれを支払った。
「長いことありがとうございました」
と、最後にモモコは言ったのだという。
その数ヶ月後、母は買い物途中に、偶然モモコを見かけた。通りの向こうから、若い母親が男の子の手を引いて歩いてくるのが見えたかと思えば、久々に見る顔であった。
向こうもほぼ同時にこちらに気付いたらしく、何を思ったか、不自然に顔をそむけ、あからさまに母から隠れるようにして歩いてきた。
母は手を振り、わざと大声で呼んだ。 「神田さーん、神田さーん、ひさしぶり!」 母は満面の笑顔で頭を下げた。
モモコは、嫌そうに顔を上げて母を見ると、弱々しく笑い会釈を返して去った。