ワールズエンド老人会しりとり
どうやら世界は終わるらしい。
というフレーズで始まる話をいくつ読んだだろうか。物理書籍で電子書籍でどこの誰が書いたとも知らないインターネット上の拙い投稿小説で。いつもなんだかよく分からない理由でご都合主義的に世界が終わった。
ともあれどうやら世界は終わるらしい。
本当にそのときが来たならどんな気持ちになるんだろうとこれまで幾度となく想像した。実際は、虫歯があるだろうなあと思って歯医者に行ったら案の定虫歯になっていたときのような、勉強していないテストで赤点を取ったような、その程度の感慨だ。これまで目にしたたくさんの物語に追いついたような追いつかれてしまったような、気の抜けた感じだけがある。思えば今までも、人生で何かが起こるときはいつもそんな感じだったかもしれない。そして世界の終わりに、やはりたくさんの物語で見てきたように、僕たちはふたりきりだった。
「日帰りで出かけた先で突然の大雨か吹雪で足止めされる展開みたいだな」
僕は思わず言った。この廃墟の大きな硝子窓も汚れて外界はぼんやりとしか見えないが、暴風の中ひっきりなしに何かが壊れる音が聞こえてくる。
「仕方なく一泊することになって一軒だけ営業している旅館にたどりつきがち」
君が応じた。
「都合よく、翌日の仕事も学校も休みなんだよね」
「そして旅館は一室しか空きがなく同室に宿泊する羽目になりがち」
「風呂入ってる間に旅館の人に布団くっつけて敷かれがち」
「それ見て『パッ』と一瞬目を合わせたのちにいそいそ布団ひき離しがち」
僕たちはぶよぶよしたひとり掛けソファの上にそれぞれ膝を抱えながら、声を合わせて笑った。
「って、それはラブコメあるあるじゃないか。脱線しちゃったな」
「ごめんごめん、世界の終わりあるあるだったよね。でも、もうだいぶ出尽くしたな」
「地下鉄の通路はかつてのまま残存していがち」
「そこに潜んでいた生き残りの人類と出会いがち」
「生き残りの人類は何らかの器官や能力が退化あるいは進化していがち」
「世界規模で猛威を振るった伝染病から主人公だけ免れがち」
「伝染病に適応してニュータイプになりがち、全身が緑色」
「それはないない」
「人類は滅びてしまうのに誰に読ませるでもない日記を書き始めがち」
「あるある」
「赤みのかかった月が昇りがち」
「パンを焼きながら待ち焦がれがち」
「隕石がゆっくりとゆっくりと近づいてきがち」
「世界が滅びてしまうのにあえて普段通りのルーティンで過ごしてるやつがいて健康とか美容のこだわりを語るんだ」
僕たちはまた同時に笑って息を吐いた。それぞれ茶色いブランケットにくるまってこうしてとりとめのない話を続けるのは昨日までの延長のようで、こうしてとりとめのない話をしながら終われるのならそれは幸福なことに思えた。テレホタイムの終了とともにチャットルームから退室していたあの頃も、ずっとこんなふうに、気の済むまでとりとめなくなっていたかった。
「いやあ、こんな感じ、西暦2000年問題以来だな」
君はいつもののんびりした口調で薄く笑う。もっともあのときはたいしたことは起こらなかったけれど、と。もう太陽も現れなくなったか窓の外は掻き暮れて時間も分からない。廃墟の中の照明も点かない。しかしネットカフェだったこのフロアは、どういうわけか辛うじてコンピュータの電源は生きていて、そのモニターの青い光に君の横顔がぼんやり浮き上がっている。ふと立ち上がった君がカップを二つ持って戻ってきた。珈琲を出す機械もまだ辛うじて動くようだ。
「……の分も淹れてきたよ」
君が僕の名を呼んだ。名とはいってもハンドルネームである。電子の砂漠で出会った僕たちは、その後生身として対面してもう何年も一緒にいるのに、ついに親につけられた名前で呼び合うことが無いままだ。本名から掛け離れた、当初は音声で呼ばれることすら想定していなかったおかしな記号、世界の終わるときまでこの名で呼ばれることになるとは。もうまもなく僕たちは死ぬだろうがそのときも、このおかしな記号で互いの名を呼び合うのだろう。
しかし親がつけた名と自分がつけた名のうち、自分がつけた名こそがアイデンティティを示すものと考えない理由はなかった。僕たちが出会った頃のインターネットは、さながら仮面舞踏会のようだった。それぞれ呈示したい人格とそれに相応しい(あるいは相応しくない)名を思い思いに装着し、実体の年齢も性別も外見も分からない。それでよかった。しばらくして巨大匿名掲示板がインターネットを席巻すると、皆の仮面は一様な名無しさんになった。さらにその後、写真投稿型SNSがさかんになれば人々は加工フィルターという半物理的かつお仕着せ的仮面を競って身につけた。電子の歴史は仮面の変遷の歴史かもしれない。だがそもそも生身同士の交流が素顔の交流であるのかといえば、そういうわけでもあるまい。日々すれ違う僕たちは、それぞれの頭部にそれぞれの意識を格納し、互いにそれらに直接触れることはできない。意識はいつも皮膚に、肉に、生体に覆われ隔てられていて、人の数だけ隔てがある。むしろ電子の砂漠で文字列として出逢ったことで、直接神経を接続し直接意識に触ることができたような、そんな興奮があった。
そう、もちろんそれも幻想だとは思う。だけれども。その後に君とはリアルと呼ばれる生活も長年ともにしてきたけれども、こうして青い画面だけが光る終わりの部屋で言葉をやりとりしていると、年齢も性別も外見も失い、チャットルームやBBSに明滅する文字だけの存在に還元されたかのようだった。実際は、十年、いや、三カ月、いや、数十年、いや、三年、三分、三秒、どれだけ経っているのかしかし、はじめから時間などなかったかのようだ。僕たちはずっとデジタル信号の文字だった。
「どうも」
僕はティーカップを受け取って口をつけた。飲み物はひどくぬるかった。
「teacup.」
「teacup.だね」
君は笑った。
「老人会かよ」
そう言いながら君の顔は、闇に紛れているせいか、年齢というものをもつ人には見えないのだった。
「老人会だから回想法でもしようか」
「回想法しりとりしよう」
僕らが最期にやる遊びには最適に思えた。しりとりは僕らの好きな遊びのひとつだった。議論や互いの好きなものの紹介や私生活の打ち明け話やネットミームでの戯れ……チャットルームでひととおりの話題が尽きると、誰からともなくしりとりが始まりしりとりしながら誰かがあるいはみんなが寝落ちることがままあった。いやそもそも、あそこでの会話そのものがしりとりのようなものだった。自分の打った文字列に反応して、ネットの闇の向こうから他者が言葉を返してくる。そのたびに、空間が不意に新たに切り開かれるような、たとえるなら、深夜の高速道路で先へ進むごとに道が延びゆくような感覚があった。ヘッドライトの光が延びた道を眩く照らす。その感覚が得られれば、たぶん話題など何でもよかった。実体としてともに過ごしてのちも、ときどきその感覚を思い出したくて僕らは、この遊びをして、言葉だけになった。
「じゃあ僕から。ネットスケープナビゲーター」
最初に使ったウェブブラウザだ。
「タグ」
さんざん手打ちした。
「goo」
そういえばメールアドレスを持っていた。
「Windows95」
「ずいぶん遡ったね――ゴノレゴ」
「また『ご』かあ……仕方ないな、5ちゃんねる」
「ルーター」
「縦読み」
「mixi」
「インターネットエクスプローラ」
「ライコスダイアリー」
「林檎姫桃湖の新ほーむぺーじ」
「個人サイトは無しだろ」
「いや、個人サイトこそインターネットの華だったろ」
「そうか、まあいいか。じ……人力検索はてな」
「ナコ」
「こ~こはど~この箱庭じゃ?」
「JavaScript」
「東風荘」
「wikipedia」
「ISDN」
「ぬるぽ」
「ガッ」
ガッ。突如凄まじい音がして突風が吹き込んだ。飛来物が衝突して窓ガラスの一部が割れたのだった。僕らはソファから飛び退いた。飛来物は人間のような形をしており、その掌がガタンガタンと窓ガラスを打った。
「イーロン・マスクのゾンビだ」
君が言った。掌の痕を窓に残しゾンビは風に攫われていったが、続いて同じような姿をしたものが何体もガラスにぶち当たってきた。罅が大きくなった。
「ザッカーバーグもいる。走馬灯かよ」
本当かは知らない。ともかく割れた箇所から外気が流れ込んだ。ひんやりしていた部屋に、熱気と異臭が漂った。僕らはソファから引きあげフロアの奥へ退避した。奥の仕切りの向こうには個室ブースが並んでいる。いずれここにも外に充満した有毒物質が侵入してくるだろう。時間の問題であるのは分かっているが、突風とゾンビの襲来に晒されるオープンスペースよりは静かな場所で終わりたかった。個室ブースは二人には狭いから、僕らはひとりずつ、隣り合った個室ブースに入った。かつて8時間ナイトパック1500円だったブースだ。ここから「ネカフェなう」と書き込んだこともあった。目の前のコンピュータを起動すると、ネットワークは生きているらしく、モニターに見馴れたロゴが出た後、利用し馴れた短文投稿サイトにログインすることができた。同時に君のログインも確認できた。僕らのアカウントの他は、AIによるとおぼしき投稿だけが流れてゆく。AIの投稿の間を縫うように、僕たちはリプライ機能を用いてしりとりを再開した。「ガッ」の「つ」から。
「つ旦」
「Yahoo!pager」
? あ、そうか。ずっと頭の中で「つたん」と読んでいて、しまったと一瞬思ったが、君は「お茶」と正式な読みをしていたのか。
「Yahoo! geocities」
「zoom飲み会」
「苺きんたま」
「魔法のあいらんど」
「Dos攻撃」
「キリ番ゲッター!」
喉に違和感を感じる。そろそろこの部屋にも有毒物質が流れ込んできたのか。喉が痛い。もう声は出せないかもしれない。まだ文字をタイピングすることならできる。とはいえネットワークの反応も重くなってきた。まるで古い回線のように。
「ダイヤルアップ接続」
………
「腐れ外道掲示板オフ会」
……
「It'a True wolrd」
………
「Dreamweaver」
「バーチャル美少女受肉」
…… ……
「クリック」
……
「くねくね」
……… ………
「NAVERまとめ」
……………
指先が痺れてきた気がする。目も霞む。タイピングしながら、だんだん何を打っているのかもよく分からなくなってやがて瞼が重くなっていった、テレホタイムの寝落ちのようだ。次で終わらせるつもりで送信した。
「MAILER-DAEMON」
ぼんやりしてゆく意識の中で、
「ンョ゛ハー゛」
とリプライがついたのを確認した。閉じた目の奥で光が見えた。
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