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ゴキブリ

「うわあっ、びっくりした! ゴキブリだと思ったら斉藤さんでしたか!」

 午前3時、左隣で寝ていた男が両手で私を押しのけて飛び起き、大きく見開いた目を伏せた後でハアハアと呼吸を整えながら言った。
 他人の家では深く眠れぬ私は、断続的に浅く眠っては覚醒してを繰り返し、ちょうど目を覚ましていたところだった。
 それにしてもひどい台詞ではないか。
 仮にも恋人と呼ばれる相手から、「ゴキブリだと思ったらあなただった」と誤認される人間がどれくらいいるのだろうか、念のため注記すれば彼は無類のゴキブリ好きでもなんでもなく一般的に嫌われる類の虫は人並みに嫌う人だ。数時間前まで睦み合うていた相手にいきなり撥ねつけられ寝台からずり落ちそうになった私に、少しずつ正常な見当識を取り戻した彼は、照れ笑いながら説明した。
「びっくりしました。昔のバイト先の厨房にいて、ゴミを捨てようとしたらゴミ袋からゴキブリがうじゃうじゃ這い出してくる夢を見てたんです。振り払いたいけど、ゴミ袋で両手がふさがっていて、そうしてるうちにそいつらが右腕に這い上がってきて。それで目を覚ましたら、右腕に斉藤さんの身体が触れてたんで、ゴキブリかと思って」
 事情は分かったが、夢の中のゴキブリと自分が重ねられていたことが分かったところでどうすればよいのか。彼は話すと落ち着いたらしく、たいして意味のないことを数言喋ってまた寝た。

 彼から悪夢の話を聴くのは初めてではなかった。互いの家を行き来する間柄になってしばらくの頃、
「そういえば昨日、斉藤さんの夢を見ましたよ」
 と知らされた。初めての夢報告だった。
「へえ、どんな夢だった?」
 懇ろになり初めの人の夢に自分が登場したことを知らされるのは嬉しいものだ。その人の心に己が場所を占め始めたことを客観的に実感させてくれる。
「斉藤さんが家に来てくれる夢です」
「現実と一緒だ」
「そう、ソファで話してただけなんですけどすごく楽しくて。それから斉藤さんがシャワーを借りるって言って、部屋に僕一人になったと思ったら、いつの間にかキッチンに実家の母親が立ってて料理をしてるんです。母親は、浴室のほうをチラッと見て、『こんなことで試験に受かろうなんてね』って呆れた口調で僕に言うんですよ。ちょっと意地悪な表情で。いやな夢でした、やっぱ試験がプレッシャーなんですかね」

 歳は変わらぬはずだが、同じ職場に私の方が先にいたという理由で彼はなかなか敬語を崩さない。親密な仲であるのであればくだけた口調でいいではないかと思うし、二人になるとくだけた口調になることもあるが、油断すると敬語に戻ってしまう。
 少年少女にものを教える小規模の教室で、私は雑務をしながら時折生徒の相談に乗ったり質問に応えたりする役割をしていた。彼は非常勤の講師として働きながら大学院に通い、ある資格の習得を目指していた。試験というのは、先に控えるその資格試験のことである。彼の仕事ぶりは生徒からも上司からも信頼が厚く常勤講師にと望まれてもいたが、彼は資格が取得できればここを辞める。同じ非正規でも、特に目標もなく居続けている私とは違う。彼と同時に入ってきた常勤の男性講師もいたが、そちらは早々と問題を起こして職場を去っていた。生徒の一人と恋愛関係になり、それがインターネットの口コミサイトにも書かれたので、会社としても見過ごしておけなくなったのだった。

「しかしまあ、いけないことだけど気持ちは分かるよね」

 いつだったか、辞めさせられたその講師の話題になったとき私がそう言うと、彼は意外なほどの全否定を示した。
「いや、全然分からないよ。生徒に手を出すとか考えられない」
 部屋でくつろいでいたときで心が解けていたのか、このときはくだけた口調だった。彼の部屋よりひとまわり狭い私の部屋は、薄い布団を延べるともうスペースが無く、卓袱台周りのわずかな余白に窮屈に座り茶を飲んでいた。
「もちろんそうだけど、でも、お互い好きだと分かってしまったら我慢できなくない?」
「それでもせめて卒業まで待つべきでしょう。生徒との恋愛って、恋愛に見えても非対称な関係に基づいた搾取だから、絶対アウトだよ」
「けど、アウトかどうかの境目ってあいまいじゃない」
「あいまいな場合はアウトですよ」
 私は卓袱台の上のリモコンに手を伸ばし、観るともなく流していたテレビの音量を意味なく上げたり下げたりした。彼は厳然と言った。
「そもそも、僕は生徒を好きになるなんてことは絶対ないから分からない」
「好きになるって感情の動きだから、それはないって言いきれなくない?」
「いけない感情だと分かってるなら、僕は理性で制御できますよ」
 自分だって、ママに知れたら嫌がられるようなことだと思いつつ私のような者とつき合ってるくせに、と私は思った。もちろんこれは自立した大人同士の関係であるから倫理的にアウトである生徒との関係とは違うだろうけど、とはいえ彼が、本来なら仕事と論文と先に控える試験の勉強で手一杯であるはずなのに、私とどうにかなってしまったことをどことなく後ろめたく感じていることは、ふとした折に伝わってきた。あるとき、「ダチとふざけて視てもらった占いで、女性関係の失敗さえしなければ成功するって言われたことがあるんですよ」というエピソードを脈略なく語ったことがあった。私と一緒にいながら、その状況をどこかまずいと感じていて、そんなことを思い出したんだろう。失敗の女性関係って私のことかい、と突っ込んでもよかったが「そうなんだ」と笑って終わった。べつに教師と生徒でもなく、既婚者同士でもなく、世間に憚られる関係ではないはずなのに私たちはどこか後ろ暗かった、彼にとって私は後ろ暗かった。一点の傷も未だないすべすべした人生にいつのまにかあいていた虫喰い穴の暗さだ。
「そうかなあ、感情ってそんなふうに、理性で制御しきれないものだと思うけどなあ」
 私が言うと、彼は再びくだけて揶揄う口調になった。
「こだわるなあ。斉藤さん、もしかしてこれまで男子生徒と何か、あったりしたんじゃないんですか、最初の、誘ってきたときも、手際よかったし」
「それはないけど」
「本当かなあ、まあ斉藤さんにはいろいろあるんでしょうね、僕では分からないことが」

 彼はしばしば、戯れ半分ではあるけれど、私が世馴れた大人で、自分は純粋で清廉な青年の側であるような言い方をする。齢は変らないのに。私たちの関係の始まりについてもまるで、大人の淫奔に不本意ながら誘惑されたように言って揶揄う。しかしそれを否定するほど清い人生でもない気がした。そういえば感染症のときもそうであった。

 あるとき生殖器系に不調を感じたので婦人科へゆくと、性感染症の陽性が出た。ひとりが治療してもパートナーが保菌していれば性交渉を通じて感染させ合いが続く事態を防ぐべく、彼を呼び出し顛末を説明し検査へ行くよう頼んだ。職場からやや離れた、人の少ない喫茶店の隅で、彼は額を押さえた。
「ははあ、仕方ないですね。ピンポン感染になってはまずいってことですね」
 検査の必要性を彼は合理的に理解したものの、どこか不機嫌そうだった。
「ごめんね、忙しいのに」
「いや、謝らなくていいですよ。もしかしたら、僕の方が以前に感染していてうつした可能性もあるわけですからね」
 そう言いながらも彼はどこかで、病菌を持ち込んだのは私の側だと前提している風情であった。感染症の侵入ルートは不明だった。私は直近の心当たりがなかった。彼も同様であると言った。可能性は五分五分だった。だけどこの関係において、忌避すべき異物を招き込むのであれば、常に私の側だった。そう思われている気がした。
 思えば彼の部屋へ行くときも、どこかで私は秩序を乱す異物のような気分だった。実際、簡素でありながら整然と衛生的に保たれた部屋に住む彼に、持ち物の乏しさの割にいつも雑然とした部屋に住まっている私のだらしなさは、しばしば迷惑をかけたと思う。たとえば、生徒の親から職場で貰った果物を一緒に食べようと持ち帰ったとき、寝台に腹這いのまま齧りつこうとした私を、「ちょっと、そういうのは嫌なんだけど」と制した後で丹念にシーツを点検する彼の姿に、私は己の退廃的習慣を恥じた。
「や、いいんですけどね。ただ、甘い汁がついたら虫が来るから」
 彼はフォローするように言った。
 やがて検査結果が出、彼は異常なしであった。双方等しく心当たりはないものの、感染の由来は私の放埓の結果であるような了解が暗に形成された。
「この間はちょっと不機嫌になってごめんね」
 と、陰性であった安堵からか彼は平静を取り戻していた。
「斉藤さんはそりゃ、いろいろあるんだろうけど、深く追及してもしょうがないから何も言いません。それよりすぐ治る症状でよかったですよ」
 彼は、私が世馴れた穢い大人の側であり、自分は純粋で清廉であるかのような言い方をしたうえで、私を赦すような言い方をする。そして、自分がそんな言い方をしていることに気づいていない。でもその言い方に抗弁するほど清い人生でもない。幸い感染症はごく軽微なもので、処方された膣錠数錠と内服で症状は治まった。じくじくと湿潤する中に錠剤を押し込みながら、こういう作業はいつも私がひとりでするのだ、と思ってみた。

 懇ろになりはじめはなし崩し的であり、「交際しましょう」と言葉を交わすような手続きはしなかった。ある頃から、帰る時間が妙に合うようになった。本来の終業時刻は、雑務を行なう私よりも非常勤講師の方が早いはずだが、出ようとすると「今帰りですか、僕もです、じゃあ駅まで一緒に」と声をかけられることが増えた。何度か続くと意図的であることが分かった。こちらも時間を合わせるよう意図し始めた。駅までの道づれであったのが、理由をつけてひと駅分ともに歩くようになり、理由をつけてまわり道をするようになった。
 決定的なことは何も言わないが、時折「最近は帰り道が楽しみで」「このままずっと歩きたいですね」などと中高生のようなことを言う。まっすぐに開かれた目が夜目にも眩しく、交感神経優位の興奮状態と思われた。両者おかしなテンションだった。一方で、自分への好意で興奮状態にある人に傍にいられるのは、落ち着かず気の退けることであった。一回抜けば落ち着くであろうと考えた私は、まわり道の途中、用水路沿いの小さな公園に誘い、その公園が周囲の道から一段低い場所にあり日が落ちれば誰も通らないのを幸いに、ベンチに寄り添って相手の下着に手を入れた。彼は陶然と目を閉じた。陶然としてしばらくは、譫言のような言葉を洩らしつつ刺戟に身を委ねていた彼は、突然
「うわあっ」
 と叫びその場から飛びのいた。
 弾かれて私は手のやり場を失った。
「ゴキブリだ!」
 目は明晰に見開かれ、譫言のような口調は通常に戻っていた。ベンチの下から、羽根のある何匹もの黒い虫が這い出し足もとに集まっていた。ベンチの後ろの街灯の仄かな明かりを受けどの背も粒子の荒い金色に光っていた。用水路から這い出してきたのか、あるいは暗さに目が馴れていなかっただけで、ここに座ったときから囲まれていたのかもしれない。男は慌ててズボンを引き上げ、私たちは小走りに公園を出た。

 そんなことはあったが、その日を境に、互いの家を行き来する付き合いが始まった。職場に内緒でささやかな交流を続ける日々は愉しく、できれば長く一緒にいたい、愛想をつかされたくない、他に相手もいないし、と思う一方でときどき、他の人と激烈な恋にでも落ちて手ひどく裏切ってはくれないだろうか、とも思う。できれば、手を出してはいけない相手に懸想して苦悩してほしい。配偶者のいる人やいっそ年端もいかぬ子を好きになり、制御できない感情に振り回されればいいのに、やむを得ず嘘をつき罪悪感に苛まれてくれればいいのに、と思う。ひとりくらい彼に思いを寄せる生徒がいるのでなかろうか、そんな子を焚きつけたらどうなるだろう、と空想することもあるが、だがもしもそんなことがあったとしてもきっと彼は、そんなふうにはならないのだろう。もし他に心を移すことがあったとしても、道ならぬ道はそっと退け、私には正直に話し正直に別れを告げるのだろう。そんな正直さに早々に耐えられなくなり、嘘をついたり裏切ったりするとすれば私の方なのであろう。いつも、何か匿したり嘘をついたりするなら私の方だ。

 そんなことを実際に本人に言ってみたこともあった。彼の部屋で眠る前、話のついでにふと、軽口めかして絡んだ。
「相手が私一人だとつまらなくないですか、浮気とかしてもいいのに」
 卑屈な軽口に彼はきっぱりと、
「今は斉藤さんがいるんで、そういうことはしないですよ」
 と答えた。
「でも、どうしようもなく誰かを好きになってしまうことってないんですか」
「今は彼女がいるから他の人は好きにならない、って日頃から思っていればそんなことならないです」
 他の人に目移りしないと言われるのは本来嬉しいことのはずであるのに、私は不満であった。腹の底に黒い汁が溜まるような不服を覚えた。
「あなたは本当に理性で感情を制御できるんだね、私はそういうのが分からないんで」
 彼は少し早口になった。
「いつもそんな言い方をするの、ずるいですよ、自分だけは感情に忠実で、純粋で、僕は道徳や倫理に縛られた不純なやつ、みたいな言い方をいつもするよね」
 と彼は言った。
 それから数言交わしたが、本格的に言い争うようなことでもなかったのですぐに話題は変わり、彼は寝息を立てた。翌朝、浅い眠りから目を覚ますと、他人のベッドの中で私は一匹の大きな毒虫になっていた。

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