大変むつかしい問題です。定説のない『天寿国繍帳』の文字配列を推理。そして聖徳太子のお名前、ミミノミコト。
法王帝説、の天寿国繍帳銘文。
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注目点は、この複雑な長文の、ど真ん中に聖徳太子のお名前があること。そこにとことんこだわりました。
すると、太子の名前の右横に母間人、
左横に橘妃の名前がきます。三尊配置になる。
ほぼ同時に亡くなり神格化された、膳
妃の名前は、銘文のどこにもない。孫娘のために繍帳を作らせた推古帝の意図は明快です。
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法王帝説、の天寿国繍帳銘文。
真ん中に「トヨトミミノミコト」の聖徳太子の名前九文字をはさみ、左右に196字、全部で401字。が、いまのところの結論。
難しいです。
現在パーツの亀などが残る、鎌倉時代に法隆寺の庫から発見され解読された繍帳は400文字で、100匹の亀に4字づつ刺繍されていた。これは、正確な記録と評価できる。
(大元の全体の構図は、聖徳太子のお名前9文字をはさんで、左右に7✖️7の49匹の亀、196文字。196✖️2+9、で全401文字。上宮家消滅のとき、それは失われた。記録された銘文により、法隆寺再建の折に聖徳太子追善のため、400字の繍帳が作成され、大切に保管された。)
しかし、鎌倉時代に作られたレプリカの断片が色あせているのに対し、元の断片はほぼ原色を保っている。つまり、ほとんど公開されず厳重に秘蔵されていた。
製作意図からすれば、橘妃は自分の立場を誇示するため常時展示しはしなかったか?
つまり、鎌倉時代発見されたのは、伝承していた銘文を元に作られた偽作ではないか?誰が?現在の法隆寺に建て替えた、天智天皇。上宮家を消滅に追い詰め、蘇我本家を殺害し、その後も迷走しながら、多くの敵を生み出しつつやっと即位した天智には、新法隆寺は聖徳太子信仰を利用する頼みの綱であった。
仮説としては、弱いです。
聖徳太子のお名前 推理編
聖徳太子のお名前を記録した、最古の資料は、「天寿国繍帳」銘文でしょう。そこには、トヨトミミと記録されています。トヨトは修飾ですから、ミミ、が本名となります。
古代、ミミ、はよくある名前です。美美、またよく聞く有能な人として耳、でしょう。太子の兄弟には、クメがおられます。このメは目とすれば、耳と目の兄弟で、自然な発想です。
で、仮に、耳が太子の名前として仏の御名のなかで関連付けるとすれば、四天王のなかの、多聞天、です。
多聞天は、うしとら、の方位の守護神です。
うしとら、艮は丑寅。
丑は動物では、牛ですね。
牛と混同されやすい字に、午、ウマがあります。
艮を、牛虎、と書いて、ウマトラと誤読する。もうわかりますね。艮が、ウマやトラと誤認されたらウマヤト、です。
太子の時代の外交では中国ばかりが語られますが、蝦夷との外交が常に親密でした。
日出ル国、日立の国という認識には蝦夷がかかわってくるでしょう。畿内より東は、国としての統一性がなくとも、蝦夷の世界です。また、太子15才の時、関東で大災害があったのか、蝦夷が大挙畿内に、平和に移住します。
太子伝では蝦夷の服属は、太子の人柄に感服してと、語られます。
蝦夷の服属は、飛鳥王権の軍事改革につながったはずです。旧来の軍事に依存していた物部氏の没落の背景として考えられます。
うしとらの王としての聖徳太子信仰。そこから変異したのが、ウマヤト伝説。と、私説です。