学校でウンチができない深刻な抑圧
昔から、家の三ヶ所に御札を貼って神祀りしました。
玄関、台所、便所。
台所には三宝荒神、あらみたま。
便所には、みずはのめ、水の女神。
便所の女神には花を絶やさない。
赤い花の少女はいつもやさしい、にぎみたま。
便所ではみんなおちついていられる。
赤い花の少女が笑ってくれる。
便所で泣いても、わかってくれる。
だのに、御札がはがされてしまった。
女神は花の少女の手を引いて去る。
女神は水に帰って流れ去る。
花の少女はさびしくてかなしくて。
子供たちに手折られてしまう。
そしてここはどこ?
学校のトイレ。
みんなせわしなくあわてて出入する。
しおれてしまった赤い花。
こんこん、花子さんいます?
赤い花は涙をふいて返事する。
うん。
だのに子供たちは逃げてゆく。
🐢🐢🐢🐢
わかってあげて!お願いです
いまでも
学校でウンチができない子がいる
なぜ?
学校はウンチを許さないと
ウンチをしたら汚いと
抑圧されている
ウンチをするのは恥ずかしくない
と
なぜ大人は語ってあげないの
こんな大切なことを
毎日のようにウンチをガマンする
それだけの学校生活
拷問です
わかってあげて!
学校でウンチができない子を!
文部科学省の排便指導の概要を調べてみると、おそるべき非科学的な指導が書かれています。
〈毎朝早起きして、家で排便をしましょう〉
排便は、便意をもよおしたとき、近くにトイレがあれば、ガマンせずにしましょう。
という、当たり前のことがなぜ書けないのか。文部官僚と教育学者ども。
大阪は子ども虐待の相談件数が一番です。
あまり重視されませんが、子どもの便秘罹患率も、大阪が最悪です。
人情のまち大阪は、子どもには冷酷なのか。
ならば、大人にも冷酷になってゆく。
日本人のゆがんだケガレ意識の歴史調査も、残された課題です。
一週間、学校でウンチできない問題を語ってきました。
そんな折、勉強のできない子を、学習障害として精神科の治療対象者とみなすべき、という記事を見ました。
ちょっとまって。
その前に調査すべきことがあるのではないですか。
たとえば、私の時代は、蓄膿症の鼻たらしが多かった。鼻がつまると、頭もぼうっとして集中できなくなる。蓄膿症はへりましたが、いまでも慢性の鼻づまりの子がいます。その発見と治療が先でしょ。
そして、半数におよぶ、ウンチ恐怖。
はっきりいって、学校は勉強する場ではなくなっています。
その抑圧の原因がなんであるにせよ、集団ノイローゼ、集団強迫神経症としと、根本的カウンセリングが必要です。おそらく、この百年以上、学校は文化国家の教育機関として許されない抑圧をはらんできたのです。
子供たちの根本的な生理が、かくも安易に無視されてきた。
排便指導の大切さは、おおくの教師が気づいている。しかし、ウンチは牧歌的な呑気さで絵空事のようにうけとめられる。
これは、明らかな病理です。心身を蝕む病気であり、虐待です。
今日は一日、学校でウンチ問題を調べ思案してました。私自身のつらい記憶であり、今も深刻な事実です。
かつて、いじめはガキの遊びと無視されていた。やがて自殺した子供の父母が裁判に訴え、学校の責任があきらかになる。
ウンチ問題も、登校拒否や心身疾患の危険をはらむ。当然学習障害となる。
反響では、女性のほうが真剣です。ウンチのおふざけは日常茶飯のことでしかたないという意見もありました。しかし、ガマンしている子を救わないでいていいはずはない。
学年にかかわらず、半数の子供が学校でウンチをしたくない、というのはどの調査でも共通している。
ウンチをしてなにか言われても平気な子と、ウンチをしたくても出来ない子が、半々に別れる。となると、そこには決定的な要因があると推測されます。よくあることでは済まされない。
半数の平気なグループが、あとの半数に影響を与えないのも、不可解です。思想信条の問題ではありません。ウンチをがまんするか否かです。がまんしないのが楽で、解決は簡単です。なのになぜ解決されないのか。つねに半数の子供が束縛されている。
なぜ半数の子供が、学校でウンチができないのか。あたりまえのことが、抑圧される、子供たちの心理は、社会のゆがみの写し絵ではないか。
私自身アルチュウから生き延びてきた経験から、事実を語れない偏見抑圧から自由になることが生きるための唯一の方法だと学びました
事実を語れない社会。
そのなかで、子供たちの心も抑圧されていくのは、あたりまえです。
学校でウンチができない子供たち。
それを語るに値しないと無視する大人たち。
私たちがいかに病んでいるかを、示す事例でしょう。