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聖徳太子『維摩経義疏』の心に残る一節。如来と乞食。
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写真、法隆寺五重塔内部東面彫像、維摩経、場面。
聖徳太子「維摩経義疏」義疏(ぎしょ)=注釈書。より、きまぐれに抜き書き。中村元、訳。
如来と乞食
善徳菩薩が維摩居士に瓔珞を施す。維摩もまたそれを受けている。それは維摩をして財施を実現させるという意義をあきらかにさせ、その集会に居合わせた人々の間にある不平等の心をなくしようと欲するのである。何となれば、如来は敬うべき者のうちでの最上の者である。乞食は愛すべき者のうちの至極の者である。尊いと卑しいの差異はあるけれども、福を生ずるという点では異ならない。ゆえに瓔珞を分けて二分して、その一半を如来に奉り、他の一半を乞食に施したのである。そういうわけであるからには、如来は尊いからといって如来に多く奉る理由もないし、また乞食は卑しいからといって少しく施す理由はない。