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摂津名所図絵の曖昧な説明。見えていなかった亀井水
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誤解を生んだ江戸時代のベストセラー🐢🐢🐢🐢
写真は秋里籬島の「摂津名所図絵」(1798年)の四天王寺俯瞰図。この文献は江戸時代の大坂研究の基礎資料としてかならず参照される。当時の大ベストセラー観光ガイドである。
このなかで、亀井について、二つの石槽があるとは言及せずに、亀井ともいえば影向井(ようごうい)ともいうという曖昧な説明になっている。
江戸の戯作者であり役人でもあった、大田南畝は、一年間の大坂赴任にあたり、摂津名所図絵を買い求め、亀井堂にも参詣する。日記「蘆の若葉」で、板はめの下の亀の形の石から水が流れ亀の首の上に賽銭箱あり、と不可解な説明をしている。
こうした不可解を解明してくれるのが幕府老中の大坂堺の二都巡見記である。そこには、亀井は板でおおわれていて、中央四尺四方の穴から覗く、とある。つまり亀井=亀形水盤は見えていなかった。影向井の先端しか見えないのを、亀の頭と理解していたのである。
南畝の言う賽銭箱は板の上に置かれていたわけである。
明治時代になり、影向井と亀井は正しく二つの石槽と記録される。さらには影向井が失われたあとでも、影向井に言及する文章が大正時代に書かれる。