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アルチュウの体験。ひねくれものでも断酒はできる。と、親鸞の横超の思想。
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絵は、本願寺第三世覚如「善信聖人絵」より、法然(右)と親鸞。
現代語訳の横に原文を鉛筆書きした、十代の私の痕跡。浄土を信じることはできなかったが、善悪にとらわれない何かを、、、、
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断酒会で、正月に酒をふるまう寺社はけしからん、などと話していて、ふと亡き小杉先生との会話を思い出した。
私・ひねくれものでも断酒はできますか?
先生・(一言で)あたりまえや。
病気を治すのに、性格は関係ない。病気を理解して、治療する。試してみて、いいものは取り入れる。
クリニックに通院し、断酒会に出かける。酒のない一日をすごし、習慣化してゆく。なんの不思議もない体験であった。
性格の良し悪しは関係ない。
ただ、アルコールで障害を受けた脳は、理解力が低下している。酒の無い場所を選び、足で覚える。明快な原理である。
親鸞の、善悪の超越。それは、高く越えるのではなく、横に越えると表現される。私は私のままでしか生きられない。その苦しみを自覚したとき、生活が回り舞台のようにスライドする。
アルコール依存症を直すために、アルコールをもちいてはならない。
善悪を越えるために、善におごり、逆に、悪に居直ることはできない。
弥陀の本願が言葉として習慣化されれば、生活の場面は、横にスライドして、見えなかったものが見えるようになる。
アルチュウは性格破綻者だ、という絶望から、社会を横滑りさせる。断酒会を知ることで、足で習慣化する。
例会出席・一日断酒。南無☺️
親鸞は、聖徳太子の夢告を得て、法然の弟子となる。晩年は、聖徳太子和讃を沢山のこし、聖徳太子への思慕を広めた。無論、亀井水のことも讃歌に記録しています。