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綺麗な人 後編

 代筆屋、女たちにとって代筆屋の屋台は立て付けの悪い告解室のようなものだ、などと揶揄されるそれは、しかし私にとっては天職であった。人の感情を文字に起こすことのなんと難しく、なんと楽しいことか。
 私の才能はまさに、この仕事にうってつけであった。
 代筆屋の客は文字の読み書きができない人たちだ。もちろん自らの感情を、意志を、願いを、完全に言葉にすることなどできない。しかし私の才能は、それらを完璧に汲み取って文字に起こし得た。
 私は書いたものを客に渡して、彼ら彼女らがそれを胸に抱くのを見るのが好きだった。その時だけはあらゆる人が十全の喜びを湛えていたから。
 仕事の内容は母さんといえども教えなかった。母さんも知ることは望まなかった。裕福な暮らしではなかったが、満たされた日々だった。
 父はこの頃、すっかり家に寄り付かなくなっていた。私の世界は母さんと、客と、文字だけで完結するようになっていた。その生活が幸せだった。これ以上は望まなかった。
 ただ、この生活が続けば良かったのに、ある日、母さんが病気になった。
 病院に行くお金なんてないから、病名は分からない。でも、日に日に衰弱していく母さんは、医療の素人が見ても、明らかにその命が長くないことを悟らざるを得なかった。体力のない母さんには瀉血治療も難しい。薬を買うにもお金がいる。代筆屋は、少ない収入ではないものの、通院代、薬代には全く足りない。せめて、栄養のあるものだけでも、買えるくらい、稼がないと。
 私は代筆屋として働くと同時に、ある工場でも働いた。縫製工場だ。寝る時間を削って、以前よりずっと忙しく、真剣に働いた。そんな私を母さんは心配した。
「アレナ、大丈夫なの?私を大切に思ってくれるのは嬉しいけれど、どうか無理はしないで」
 私を見つめる母さんに微笑んで頷いた。
「大丈夫だよ、母さん。全然辛くないんだ。少し待っててね、栄養のあるもの、買うから」
 母さんの悲しそうな瞳をやけにはっきり覚えている。
 私は母さんに長く生きていて欲しかっただけだ。母さんが手の届かない所へ行ってしまうのがたまらなく怖かった。
 母さんに、もっと、時間を。
 その一心で私は働き続け、栄養のあるものを買い、母さんに食べさせた。しかし、虚しく母さんはだんだんやつれていった。それを見るのは辛かった。
 ある日、工場で仕事をしていると、工場長に話しかけられた。
母の容態を尋ねる言葉に私は少し俯いた。
 工場長は美しい人だった。時々、こうして働く人に声をかけて回り、労いの言葉をかけていた。優しい人だった。
私は母さんの様子を思い返し、その様子を伝える。
工場長は無言で頷いた。悔しそうにその唇から息を漏らす。
 工場長は私の悲しみを、我が事のように噛み締めた。事実、彼は何もできない自分を責めていた。何か話題を変えねばならぬと思って、まずい言葉が口をついて出た。
「工場長こそ、お嬢さんはお元気ですか」
 みるみる彼の顔が強ばっていった。しまった。そう思った。間違えた。酷く引きつった顔をした彼に
私は何も言うことができなかった。彼の娘の話は彼の口から聞いたことはない。もちろん、他の誰かから聞いた訳でもない。彼には娘がいる。「なんとなく」そう思った。それだけの事で、それだけの事が、何より彼の心を刺した。
 謝罪の言葉を私はできるだけ、感情を消して言った。愚かだった。母さんに教えてもらったことを守れなかった。
やがて曖昧な返事を残して工場長は去って行った。その背中に、私は、謝ることすらできなかった。
 その日は逃げるように家に帰った。
 家に帰って、母さんに話を聞いてもらった。教会で神に懺悔するように、俯いて、吐き出すように話す私を母さんはじっと見つめていた。
 話し終えると母さんはゆっくりと口を開いた。
「その出来事を心に刻みなさい。あなたの一言は人を喜ばせることも、傷つけることもできるのです。言葉は取り消すことができません。一言、一言、丁寧に選びなさい」
 神託のように告げられたその言葉に、神性が宿っているように感じた。私は両拳を握りしめてその言葉に頷いた。私にとって母さんは神だった。
 それから程なくして、母さんが死んだ。その日は工場が休みの日だった。ベッドの横でずっと母さんを看病していた。私は不孝な子供だったと、今思う。
 今際の際に、母さんは静かに言った。
「アレナ、よく聞いて。あなたは優しい子です。優れた子です。どうか、長生きして、あなたの好きなことをして、幸せになって。……あなたの母になれて、私は幸せでした」
 そう言って微笑んで、瞳を閉じて、動かなくなった。
 病院に行く為に貯めていたお金で、雨の中、母さんの葬式をした。こんなことの為に、貯めたお金じゃなかった。
 棺の中の母さんはやはり綺麗で美しかった。
 葬式の後、バッグに自分の荷物を詰め込み家を出ようとすると、父が来た。隣には知らない女がいた。
「ほら、新しい母さんだよ。綺麗だろう?」
 女の顔は覚えていない。取るに足らない、むしろ、醜い顔だったように思う。腹の底が透けて見えるような、低俗な女だった。
 彼らを拒絶する言葉を早口で捲し立てて、父の制止する声を無視して走り出した。
 工場をやめて、別の土地で生活を始めようと思っていた。新しい部屋は既に見つけてある。
 工場に着くと、工場は燃えて無くなっていた。工場長が抱えていた借金を苦に、工場ごと、焼身自殺したらしい。
 涙が溢れてきて、私はその場に崩れ落ちた。感情のタガが外れたように泣きじゃくった。今までせき止められていたものが、溢れ出た。人の命というものは、どうしてこうも、軽々と失われてしまうのか。私が美しいと、綺麗だと思った、最も愛した母さんは手の届かない所へ行ってしまった。辛かった。悲しかった。苦しかった。
 泣いて、泣いて、母さんが昔してくれた話を、不意に思い出した。
 人には魂があるという。魂は、死んでも残るのだという。そうならば、母さんは完全にいなくなってしまった訳では無い。きっと、彼岸で綺麗で美しい人にふさわしい扱いを受けているはずだ。幻想かもしれない。私が狂ってしまったのかもしれない。構わない。
 私は立ち上がって歩き出した。此岸に残った私が行うべきは母さんという、綺麗で美しい人がいたという事を後世まで残し、伝えることだ。母さんを、誰かが覚えている限り、母さんの魂は在り続ける。人々の記憶の中に、母さんが留まり続けるように、本を書こう。母さんについての本を。
 新しい部屋で私は机の上に紙とペンを広げる。母さんが褒めてくれた私の文章で、私の人生で最も優れた文章を書こう。
 題名は、「綺麗な人」。
 この世で最も綺麗で美しい人を書くのだから。
どうかあなたに覚えていて欲しい。綺麗で美しい、母さんがいた事を。

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