ハニ族の棚田
チームラボ代表猪子氏の言葉がぐるぐると頭の中をまわりつづける。
曰く、
有史以来人々はレンズによって何かにフォーカスしそこに立ち上がるイメージに熱狂し新しいモノの見方を獲得してきた。その歴史がアートそのものである。光学的なレンズを通しアウトプットされた写真や映像然り。広義には視覚というレンズを通し意識を一点に集中させる装置である絵画における額縁や、瞬間を固定化させ人の視線を集中させる彫刻作品然り。しかしレンズを通して世界を切り取る行為はある種の暴力にもなりうる。現実と分断し理想の美を提示したり観客の自我を投影させたりすることは、実体験と過度に乖離した観念的なものの見方に依存する世界を作り兼ねないし、そうなる事で人々が幸福になるのかということに対しては懐疑的である、と。さらにこの考えに至る経緯をタイのハニ族の作り上げた棚田を見渡した時の体験に例えている。圧倒的な環境は年齢も国籍も越えるものである、と。
ではその圧倒的なものの実体はなんなのか?圧倒的な情報量なのか。圧倒的な歴史の積み重ねなのか。考えるにきっとそれは言葉になる前のクオリアなんだろうと思う。コンテクスト偏重主義なアートシーンと対極にある原初的な体験。宗教的な体験にも似たものだと思う。だから猪子氏は光や音や物性の中で生身の身体性を伴う表現を考え制作し続けていると言う。表現という行為においてロマン主義的な視座の中でノイズとして切り落とされがちな一見意味をなさない現実との差分こそ世界を世界たらしめているそのものなのだという強いメッセージがそこにある。
コマ撮りという表現はひとの手が介在する事で宿命的にノイズを含む。コンピュータを使ったアニメーションとの決定的な違いはそこだ。実写の映像においても広告映像の場合はあらゆるノイズを消し去り無菌化していく傾向があるが映画などは人間社会の澱のようなものに焦点をあてるのが常ではある。なにかと比較されがちなそれらのジャンルや手法は
ロマン主義の宮崎駿に対して現実主義の高畑勲の存在の構図に似ていると思う。
分断を煽るように何かを否定しながらモノをつくる事は結果ニ原論的なパラドックスに自らはまり込む事にもなりうる。多様な視座を持ちながらやはり多様な世界を行ったり来たり。それを繰り返していく構えをとりつづけるのが良いのかもなというのが今のところの自分の落としどころだ。
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