よくなくなくない

100均でグラスを2つ買った。急場凌ぎの備品として購入したごくシンプルな形のグラス。作った人には申し訳ないが棚に並んだ数あるデザインのものの中からどれひとつもなんの思い入れも持てないままひとまず初動時に使えれば良いか位の気持ちで。思えば僕のこの態度が全ての原因であった。

週末の休日を返上し新たに借りた仕事部屋の片付けをした。作業が落ち着いたころ急に空腹を感じはじめた僕は買いだめておいた食材群の中からレトルトのグリーンカレーを取り出して電気湯沸かしポットにねじ込み、アイリスオーヤマのパックご飯をキャンプ用のシングルバーナーで湯煎した。ガスの開通がまだこれからなのだ。
一見侘しい食事だが山で食べるものに比べたら水も使いたいだけ使えるしカトラリーだって充実している。何より新しい事務所で食べるはじめての食事としては贅沢なオードブルなんかよりよほど祝祭感に溢れているではないか。なんて事を思いながらバーナーの火を止めて10分程ご飯が温まりきるのを待つ事に。冷蔵庫の中にはアイスコーヒーのボトルが冷えている。レトルトのグリーンカレーの辛さを少し甘いアイスコーヒーで洗い流す。それは人間が感じる最上級の幸福のひとつであろう。来るべきその幸福の時を華やかに演出すべく買い出しの際に手に入れたグラスを洗い清め冷えたアイスコーヒーコーヒーを満たし万全の態勢で温まったご飯とカレーを迎えようと思い立つ。
そうしてグラスをシンクにならべ洗剤をふりかけたスポンジを握り混んだ時に僕はその事に気付いたのだ。グラスのぽっこり膨らんだお腹の辺りにはバーコードと製造元と思しき英数字が印刷されたシールが貼られていた。危ないところだった。下手すると面倒な事になるのを僕は知っている。
正攻法はガラスが割れぬ程度の湯に20分程浸け込みシール全体に水分をしっかり染み込ませふやかしてから指もしくはスポンジで擦ることだ。殆どのシールはこれでやっつけられる。稀に指で擦った時に紙の部分だけがベロンと剥げシールの糊の部分がそのまま残ってしまうことがある。商品がお店の棚に何年も置かれたまま糊が硬化してしまったような値札のシールの場合には稀にコレがおきる。だが心配は要らない。改めてもう20分程度追加して湯に浸けておけば硬化した糊にも水分は必ず浸透して最後には指でこそぎおとせる状態になるものなのだから。ただしこの方法には時間がかかるという欠点がある。僕に残された時間は長く見積もってもあと7分間。もし今湯につけシールを剥がす方法を選択し工程の第二フェーズに突入しようものなら確実に持ち時間を超えてしまうだろう。それが何を意味するかと言えばホカホカに温まってスタンバイされたご飯が刻一刻とまた冷えていく事に他ならない。それは避けたい。だから選択すべきはなるべく紙を破らないように端から慎重にシールを引っ張るドライタイプの方法だ。時間は多少かかるが落ち着いてやれば大抵のシールはなんとか剥がれるし、もし糊の部分が残ったとしてもすかさず今剥がしたシールの糊面を素早く残った糊部分に叩きつければ万事解決するのが常。いわゆるペトペト剥がしだ。しかもこの方法はいつでも前述のウェット方に移行する事も可能なアジャイルでフレキシブルな方法論である。選択に迷う余地は何もない。僕はスポンジをシンクに戻しグラスのシールに爪を立てた。思惑通りに剥がれはじめたシールだがここで慌ててはいけない。焦って先を急いだが為に途中から紙の薄皮だけが剥がれてしまいペトペト剥がしがままならない状況になるのだけは避けたい。
ゆっくり爪を立てて糊をグラスの表面から剥離させる事に集中する。反対方向からも同じように。一定のテンションを保つ事に全神経を集中させているうちにその瞬間はいきなり訪れる。指先が感じていた緊張は一気に和らぎテンションは解放されシールは見事にグラスから剥がれている。
だがよくよく見れば僅かにグラスの表面に糊が残っていた。爪で引っ掻くと糊は剥がれず伸びていく。然るべきは例の。
剥がしたシールの糊面をグラスに残った糊にペトペトと叩きつけた。以上。
の筈だった。だが今日のシールは違っていた。ペトペトやった方のシールの糊が見事にグラスの方に移っていたのだ。シールの側には既に再ペトペトするだけの糊も残っていない。
僕は動揺した。ここまでの時間を考えるともう水に浸けている時間は無いし、そもそも一般人が宇宙に旅行しAIが人間の能力を凌駕するこの時代にシールの糊が剥がれないなんて事があり得るのだろうか。コンマ何ミリのズレも許さない技術を実現した同じ人間が作ったシールの糊が剥がしたシールからまたグラスにくっつくなんてことがあるのだろうか?わざとか?些細過ぎる攻撃で揺さぶりをかける新手のテロか?糊テロ?
そんな思いに駆られているうちにふと思い出す。100均でグラスを選んだ時の無感情さを。そういう消費態度を見透かされたが故の糊テロに相違ない。
これはおそらく間違いない。




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