なめらかな社会とその敵
いつ頃からか人にお薦めされた事は極力やってみようと思うようになった。お勧めの漫画。お勧めの食べ物やお薦めの場所。
以前は自分がノーマークだった情報に触れた時に根拠なきままそれを拒否する気持ちが発動していたように思う。だが筋肉が衰え上げていたガードが自然と下がり段々と殻が融解し外部を受け入れる謙虚さが生きる為に必要になったという事なのか。
あらためて謙虚に生きるってどんな事なんだろうかと考える。反対の事で言えば自分が世界の中心だと思ってるような人と話すとどこか居心地が悪かったりする。謙虚じゃないなと思う。かなりの割合のおじさんと意外に若い人と話す時にもそういう場面は多い(きっと自分もそうなのだろう)。だから謙虚さはそれとは逆に自分を無くす方向にきっとあるんだと思う。自分の外側にある一次情報。それに触れる事。人と会う。足を運ぶ。やってみる。するとWEB上で見かけた情報で知った気になっていた事がどんなにもったいない事だったかを思い知らされる。
先日友人の度重なる誘いに根負けしてついにロードバイクデビューを果たした。かつてオートバイには乗っていたし旅の醍醐味も知ったつもりでいたので自転車で得られるものはその延長線にあるものと勝手に想像していた。更にあの自転車乗り達のメカ嗜好な空気に馴染めなさを感じていたし独特のカラダに張り付くファッションが受け入れられなかった。だがただ一度のリアルな自転車旅で自分の中にあったバイアスは今きれいさっぱり霧散している。というより新しい体験によってもたらされた感覚によって何かが上書きされたという方が正しいかもしれない。
早朝から袋に入れた自転車を抱えて山手線で竹芝へ向かう。フェリーを下船して友人に車輪をフレームに取り付けてもらい小さな島の港をひと回りした時の胸の高鳴り。乳酸が溜まり悲鳴をあげる筋肉を感じながら山道を登り切り長い下り坂の先に海が見えた時の爽快感。目的地のキャンプ場の芝の青さ。帰り道は自走で帰宅する事になり夜の東京の真ん中を自転車で走り抜ける異体験。
鈴木健さんの著書「なめらかな社会とその敵」を読む。膜と核のアナロジーについての考察がストンとおちた。
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