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「生き瞬」にこだわる

私は、「このために生きてきたー!」と思える瞬間のために生きている。

(「このために生きてきたー!」と思える瞬間、という言葉は長いのでここからは省略形を使いたい。=「生き瞬」でどうだろうか…。恥)

「生き瞬」は、帰宅後キンキンに冷えたビールを飲む時かもしれないし、ライブを最前列で観た時かもしれない。

しかし私が想像しているのは、もっと圧倒的で神や宇宙が見えるくらい衝撃的で感動的な体験といったスケールの大きなものだ。

もちろんまだそんなスケールの体験はしていない。


私が「生き瞬」にこだわるのは、かつて私が何度も死のうとしたからだと思う。

今はたくさんの助けがあって病状が安定し、日常的に死を考えることは減った。

それでも、生きるのは辛くないし楽しいことも多いと明るく生きている今でさえ、生きたい理由よりも死にたい理由のほうが多い。

しかしもう自分では死なない。あることを境に生きると決めた。

寿命を全うするまでの受動的な生ではなく、周りの人のためでもなく、仕方なく生きているという消極的な生でもなく、自ら生きると決めたのだ。

(生きると決めたのには、ある出来事が大きく影響を及ぼしている。そのことについては、次回以降に書こうと思っている。)

その決断が正しかったかどうかはまだ分からない。

しかし、あのとき死んでいればよかったと思うような人生には絶対したくない。

だからこそ、「生き瞬」を求めているのだと思う。


私には、「生き瞬」に出会うための唯一方法だと思ってきたものがあった。

それは「今」の自分を変え、自分にしかできない大きな仕事を達成することだった。

死にたい理由が多く、何も成し遂げられず生産性もない、人に支えられてばかりの「今」の自分では、「生き瞬」に出会うことはできないと思ってきた。

私にとって「生き瞬」は、高い険しい山の頂上に行かなければ出会えないものだった。

そして頂上に行くためには、毎日のように直接的な感情が溢れ、スリルや感動、困難や挫折を味わう中で努力を重ね、そして成功するというイメージがあった。

そういうイメージができていた一方で、その山は何でもよかった。というか、何を山にしていいのかさえ分からずにいた。


そしてここ2年ほどで、自分の考えに変化が起きてきた。

「今」の自分を変え自分にしかできない大きな仕事を達成しなくても、「今」の自分のままでも、いつか「生き瞬」に出会うかもしれないと思いはじめた。

ハードで辛い思いをして高い険しい山に登らなくても、道端の草花を見て「生き瞬」に出会うかもしれない、そういう思いが芽生えはじめたのである。

そう思うまでは私の中で「生きる」とは、ギラギラして心が擦れるような荒く厳しい強いイメージだった。

しかし「生きる」ことは、もっと日常的で穏やかで安定しているイメージも持つようになってきた。


こんな風に考え始めたことは、自分にとってあまりにも大きな変化だ。どう対処していいか分からないでいる。今文章にしてみて自分がいかに「生き瞬」にこだわってきたかを感じ、さらに混乱している。

まだまだ書く必要があると思う。でも今日はここで終わり。


次回は、「生き瞬」のための唯一の方法だと思ってきた「登山方式」と、新たに生まれてきた「道端の草花方式」についてさらに書いていきたいと思う。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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