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自分の作品はなんだろう

自分の作品として世の中に見せれるものは何があるだろう。これまで生きてきて、自分を表現するものとして提示できるものはなんだろう。正直、何もないかもしれない。正確にはあるが、自信がないから見せれるものはないと言えるだろう。この文章もそうだ。たくさんの人に見られるのは恥ずかしい。これも正確には評価されるのが怖い。他人にどういう印象を抱かれるのか、考えると耐えられない。だから、考えないためにそもそも見せない。こういう考えで長く生きてきた。おそらく17歳くらいにそういう考えに至り、今も続いている。詳細には、このnoteの存在をリアルの知り合いには誰にも教えていない。匿名だから、投稿できるのだ。この文章と現実の自分とが結びつくとどんなに恐怖だろう。どこの誰かもわからない他人だから、読んでほしいと思える。なぜなら、文章は自分の考えたままを表現できると思うからだ。

現実では、外見、身振り手振り、視線、話し方など人を判断する材料が多いし、その多くは本人は無意識だ。自らが意図しないところで判断されてしまう。言葉では言い表せない雰囲気もそれに含まれる。そこには素敵な可能性はあるのだが、どうも私はそこで判断されることを快く思わない。自分にあった時、他人がどういう反応をするか予想がつかないからだ。これは経験不足が原因かもしれないが、人間関係が怖い。他人がどういう反応をし、どういう印象を持ち、そして今後どういう関係を築くか、その過程では常に評価がつきまとう。カテゴライズとも言えるだろう。この人は怒りっぽい、優しいとか。そういうものはそれこそ本人が意図しない無意識な部分であるはずなのに、本人が表現した結果として見られてしまう。また、どういう印象を持つかも受け手の経験から推測されるもので、個人によって評価がゆらぐ。大勢の受け手がおおよそでは同じ印象をもっても、小さな差異によって個人の経験によって、全く逆の評価をすることもある。噂で聞くほど悪い人ではない、みたいなことだ。このことがあるから現実での印象は当てにならないし、私を評価する材料にして欲しくないと思っている。

では、私はどんな人かと聞かれたら、頭をのぞいてくれ、そして判断してくれと言いたい。これはあくまで理想である。頭とは私の考えていること、表現したいと思っていること、世の中に発信したこと、例えばこのnoteである。加えて、文章を理解してほしいということだ。繰り返すが理想である。私をこのnoteだけで判断してくれというのはものすごく乱暴で、頭が痛くなることかもしれない。実は私もそこには葛藤があって、私の頭だけで判断してほしいが、そこに例えば点数をつけられるとたまらない気持ちになる。その点数が私の評価そのものになり、価値になる。他人とも簡単に比べられるし、弁解の余地がなくなる。ノンバーバルという評価しずらい部分を排除してほしいと臨んだのは私なのに、そこに逃げ道を求めるのはとても卑怯である。理想と現実というか、事実私の作品だけで評価してほしいと思いたいのは甘えである。そこには可能性があるからだ。詳しくいうと、評価されていない作品には無限の可能性があり、いくらでも過大評価できるからだ。自分の外見うんぬんは常に晒されているので、その存在も忘れがちになるくらいだ。その点、作品は現実の自分と切り離され、さらに評価の土俵にも立っていない。だから、居心地がいいし、このままでいたいと思っている。

自分の作品はなんだろうとずっと考えていれば、いつまでも幸福なのである。

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こういち
お昼代にするつもりです。お菓子買ってあげる感覚でお願いします