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決めることの難しさについて
こんにちは、かんばらです。
最近ある人との対話を通して感じたことを言語化しようと思い、書きました。
抽象度の高いこと、不確実性の高い世の中に対しての耐性はそれなりにあるのかなとおもっていたのですが、その具体化や意思をどこに持つのか、そんな内容になってます。
人間というのは生涯”無知の知”と対峙する生き物
2019年11/24、僕は2019年11/23に戻ることは出来ず日付を跨げば、2019年11/25を生きることになる。
毎日が刺激だらけでその度に疑問が起きググればある程度のことは出てくる。
誰かが書いた記事やら呟きとやらを確認しながらそれっぽいことをそれっぽく理解して仕事に活かしたり私生活に活かす。
絶対という答えはない。
それを知りながらも少ないなりに自分の脳のキャパシティをフルに活用しながら生きている。
仕事であれば自分の考えた仮説のために集めたそれっぽいデータとともに提案資料に詰め込み相手に説明する。
人生もそんな行動とあまり変わらないような気がする。
絶対ということがわからないなりに何かを信じて生きる。
それがデータの時もあれば思想、宗教のような時もある。答えかどうかわからないのに。
そもそも答えってなんなんだろうか。
16世期に地動説、天動説の議論があった時あなたならどちらの説を信じるのだろうか。
16世期の議論だけじゃなくこの21世期に生きる僕たちの前にもあらゆる議論がある。
答えはないかもしれないが無知なりにそれらを追求すること自体がワクワクするし人類の発展に寄与するのであれば、人間はその時代時代にあったテーマに対して対峙していく生き物、ただそれだけのような気もする。
だから今に希望を持って生きる。
(皮肉っぽく言えば”そう思いたいだけ”かもしれない)
横展開と縦深掘
採用担当の仕事をしていると自分の周りにはあらゆる情報が流れてくる。
「採用単価を下げる方法」
「優秀人材を採用した事例」
「どう採用を会社全体でできるか」
そして都度都度キャッチーな言葉が流行る。
スクラム採用、ティール組織etc.
それらは分野が変われば他の言葉に変わり、様々な事例やHow toに埋め尽くされる。
それ自体が悪いことではない。
それらの中には試す価値がある情報もあり、どう取捨選択するかは担当者の思考プロセス次第で決まる。
でも大事なのは、それらと並行して目の前の事象に対して深掘することなのではないか?と気づかされるタイミングがあった。
世の中の情報のキャッチアップは必要だが、なにかが足りない。
こなせているように思えて進化がない。
それが”個人の意思”なのではないかと思う。
意思ある深掘、これを実行者としてできている人はどれほどいるのだろうか。
決める勇気は捨てる勇気と表裏一体
決断とは、読んで字の如くなにかを断つこと。
そんなことは誰でもわかっているはず。
で僕も頭ではわかっているつもりの1人であり、
実は捨てきれない人間の1人でもある。
あらゆる可能性を信じ不確実性の世界に生きる1人の動物として、選択が曖昧になりあれやこれやと手を出すことも多かったし、今でも根本的には変わっていない。
断たないことは選択肢が広がる良さもありながらも断てないことで失うこともある。
それが深掘する行動、意思ある行動への1歩目なんじゃないかとなんとなく感じている。
問いに問いで対話する行為
幸いにも周りの人たちにも支えられ深掘者との対話をする機会が都度都度ある。
そしてそのたびに思うのは深掘してればしてるほど自分の深掘レベルが足りないこと。
ここの乖離がその人との距離になり疎遠になるということさえも日々起こっていると感じる。
それも別に悪いことじゃない。
大事なのは、自分が深掘したいことが何か?ということだと思う。
対話とはお互いの深掘しているものがあって初めて成立するものなんだろうなと考えている。だから問いに問いが生まれる。
そんな会話を多くしていきたいなーと思う。
その先にあるもの
深掘の先にあるものはなんなのか、想像すらできない。
[思考は現実化する]のナポレオンヒル流に言えば、自分がなにを想像しているのかに概ね紐づいた結果になるのかもしれない。
そうだとすれば、僕にとってもなにを想像し目の前の事象に意思を持てるかが大事なのかもしれない。