ちょっと長い感想文
『すずめの戸締まり』を観て
自らを描くクリエイター
公開初日の朝、池袋のIMAXレーザーGTにて視聴した。同じスクリーンには20代~40代のお客さんが多いように感じた。期待に満ちた顔をした者、知り合いと談笑しながら上映を待つ者、眠気が顔全体から溢れている者。いずれにせよ、この時間に鑑賞するということは、きっとそれぞれの中で”新海誠”(あるいは新海誠が生み出した作品、敬称略)と向きあったことのある人たちだと互いに知っている。
私は新海誠というクリエイターを一言で表すと、「絵でコンプレックスとトラウマを昇華する描き人」だと思っている。多くの人も似たような言葉で言い表している。しかし、そこには揶揄したニュアンスが含まれることがよく見受けられる。私は、どちらかというと称賛の意味でこの表現を使いたい。というより物語の深みを追い求めると自らを題材に物語るのは必然だと思っている。
昔から自己のコンプレックスや苦しい思いを作品として世に晒すことは行われてきた。寺山修司の『田園に死す』は、その代表的歌集・映画である。「エヴァンゲリオン」シリーズの庵野秀明氏も作品にそれが色濃く出ているクリエイターの一人である。エヴァンゲリオンに出てくる多くのキャラは庵野氏自身のことであるという多くの評論で述べられてきた。また、庵野氏の言葉には「人間ドラマはそうそうやれるもんじゃない。全然知らない他人を描くことは生優しくない。(⚠意訳)」というものがある。要するに、真摯なモノづくりを意識すればするほど素材は自分のことしか残らない、と私はこの言葉から解釈した。新海監督も似たような考えではないだろうか。正直に言うと、彼の直接的な言葉を多くは知らないため断言はできないが、自分のコンプレックスを晒し、自分の見た光景を舞台にし、自分の好きな宇宙を描く、それが副産物として”自分の救い”と”世間の共感”を生んでいると推測している。エゴイズムの先が偶然にも救済に繋がっているイメージだ。
しかし、最新作『すずめの戸締まり』では、少し違う試みと覚悟を感じた。
想起される具体的な他者
『すずめの戸締まり』で描かれた主人公「すずめ」は、十数年前に東日本大震災で母親を亡くした少女だった。つまり、確実に現実世界で存在する”他者”をストーリーの中心に置いたのだ。無論、新海監督もあの日からこの話を作るまで心理的ステップが必要だったと述べているため、監督自身の境遇も重ねることもできるだろう。しかし、今回はこれまでになく主人公と類似度が高い体験をしていた人たちがいる。上記の、「〜だと、自分しか描けない。」という文脈からは、この作品はズレがあるように感じる。ということは、想像するに彼は自分のコンプレックスを前面に出すことを抑え、事実に則した誰かを構築した。つまり、他者を物語る、そこから何かを救うことに挑んだのではなかろうか。
震災との向き合い方
ここ数年、本作と同様に震災と向き合うフィクション作品が少しずつ増えてきた。記憶する限り、私が初めて出会ったのが、ここでも同じく庵野秀明総監督の『シン・ゴジラ』だった。あの作品も庵野監督にしては珍しく、他者と社会を描く傾向が強く、他者(日本国民)に捧げた一作だとも捉えられる。それ以降、第44回日本アカデミー賞監督賞の『Fukushima 50』、中野量太監督の『浅田家!』といった当時実際に起きたことの伝記的作品や、瀬々敬久監督の『護られなかった者たちへ』といったフィクションかつ現在の被災地を捉えた作品まである。その中でも今年は、あくまで主観的なものだが、「災害で失った人・街を想う」作品が多かったように思う。直近だと、北村龍平監督の『天間荘の三姉妹』がそれに当たる。この作品は、のんさん演じる孤独な主人公が交通事故で臨死状態になり、「もう一度現世に戻って生きる」か「天へと旅立つ」か決断を下せるまで三ツ瀬という町にある旅館「天間荘」で過ごすという物語である。そして、この町にはとある秘密がある(プチネタバレ注意)。
三瀬は、震災による大きな被害を受けた町であり、犠牲となった人々が当時の記憶のまま生活をしていたのだ。その後、大切な人を失った今を生きる者たちがどのように前を向き明日を歩むのか、というところに焦点があてられていく。
ここで少し厳しいことを言う。私の『天間荘の三姉妹』への率直な感想は、「ただ痛みが再発しただけで何も救われない」だ。そして、『すずめの戸締まり』にも同じようなことを感じた。これらの共通の原因として、それぞれ作品の構造に2つ問題点があると考えている。
まず一つ目は、「東日本大震災」をテーマにしていることを公開前に周知していなかったことにある。双方ともに、作中ではかなり直接的な災害描写を挟んでいた。また、震災での喪失感を煽る演出もいくつか見られた。『すずめの戸締まり』に関しては、公開前から地震描写と緊急地震速報が作中に流れることをSNS等で発信していた。しかし、あの震災を彷彿とさせる作品だとは私の知る限りほとんど言及はなかったと記憶している。新海監督自身が東日本大震災と向き合い、ひとつの作品として形にするまで時間的・心理的ステップが必要だったと言うのと同様に、観客側にも向き合うステップが存在する。例えば、警報音やその地震は日常的に起こってしまうため少し慣れているが、津波や被害に遭った町・光景を見るのは苦しいという人がいても何らおかしくない。言わずもがな、そのステップの途中にある方々も観客として多くいたはずである。しかし、ノーガード状態の彼らはこれら作品を観ることで癒えていない心を抉られてしまうのだ。
二つ目は、登場人物たちの喪失の乗り越え方である。これは問題というと少し大袈裟で、私が受け入れられないだけかもしれない。再び『天間荘の三姉妹』の話に戻る(大ネタバレ注意)。のんさん演じる主人公は、最終的に天界にいる震災被害者たちの、現世に残した人らへの思いと言葉を受け取り、三瀬に今も生きる人々へそれらを伝える役目を果たす。その行動により、本来聞くことができない亡くなった人々の思いを知ることができ、遺族たちは救われたような面立ちとなり、この物語は幕を閉じる。『すずめの戸締まり』では(再び大ネタバレ注意)、すずめが震災当時に生活していた場所へ戻り、彼女はそこにある扉でしか行くことができない「常世」に行く。「常世」は、いわゆる”あの世”のような場所で、時間という概念がない、全てが同時に存在する?世界である。そこですずめは、過去に常世に迷い込んだ自分に出会い、親を失ったその少女と今の自分に「明日のすずめ」があることを説く。ここで2作品に共通している点を考えたい。それは、喪失を乗り越えるための行動が現実では不可能であることだ。もちろん、世の中の物語ではそういった展開になることは多々ある。『君の名は。』、『天気の子』だってファンタジー的な解決法で終わる。そのため、この手法自体が直ちにいけないわけではない。では、2作品ではなぜそれが受け入れられないのか。それは、登場人物の境遇が具体的な史実に沿っているからだ。つまり、どういうことか。今、我々が生きる世界を”現世”と敢えて呼ぶとすると、それぞれの作品で提示する困難・喪失は”現世”をモデルにしながら、解決法は存在するか分からない”あの世”のモノを使う必要がある、と言ったところだろうか。リアリティラインが揃っていないのである。Q&AのAがファンタジーであっても、それが何かのメタファーであったり、『天気の子』のように本質はファンタジー外にある場合は特に当てはまらない。むしろ個性として記憶に残りやすい。しかし、両作でそういった様子はなく、一定数の人は共感はできても誰も実現はできない、ある種の宗教性を帯びている印象を持った。そして、少なくとも私は救われなかった。
ただ、二つ目の話に関しては何度も言うように私を含めた何割かだけが受け入れられないというだけかもしれない。宗教に沿って言うと、宗派の違いみたいなもので、合わない映画だったな〜、でこれだけなら済ませられる。しかし、これに一つ目の話が混ざるとそんな悠長なことは言ってられない。もし、美しく躍動感ある映画を期待して観に来たとある観客が、まだ乗り越えきれていない過去を半強制的に突きつけられ、提示された救いの手法も飲み込めなかったとしたら?作り手側の意図したことが効かないどころか、全く真逆の結果となるのは目に見えているだろう。「良薬は口に苦し」どころか、効くかどうか予想がつかない錠剤を毒草に包んで飲ませたようなものかもしれない。誇張抜きで創作物を通じて震災と向き合うというのは、実はそれだけで観客の心に危険が迫る行為なのだ。そのため、物語の着地方法はかなり慎重にならなければならない。新海監督が怠ったとまでは絶対思わないが、そこを十分に考案できなかったのは否めないだろう。
映画の役割
新海誠監督はおそらくは相当な覚悟を胸に今作を手掛けたと思う。観客側も評価も、レビューサイトを見る限り全体的には過去作の中でも高い方だと思う。しかし、動揺や戸惑いを隠せられない人たちが一定数いるのも事実だ。監督の覚悟とメッセージが社会にとって、そして被災者にとって100%効果的だったとは言えないだろう。では、彼は作るべきではなかったのか?私は、それは決して違うと擁護したい。
映画や小説を含めた創作物全体が持つ役割とは何か。その問いに様々な人が解答を出してきた。その中で、とある人物の言葉が強く残っている。(誰かは思い出せない。。。)「フィクションは読者や視聴者をちょっぴり傷つけるためにある。そして耐性をつけて、現実では致命傷にならないようにする。」というような主旨の言葉だ。失恋、喪失、恐怖、時の流れ、などなど、様々なことでこの世界の我々はストレスを感じるし、生きるのが辛くもなる。しかしそのとき、予め架空の世界で起こったことに自身を重ね、軽傷を負った経験があれば、その部分の皮膚は強く再生しており尖った刃物でも受け止められるかもしれない。ある意味、教養を持つことの重要性と似たようなものだと考えられる。そのため、フィクションに触れて傷つく機会を過度に恐れて無菌状態を作り出すことは、長い人生を踏まえると健全だとは言えないだろう。そして、作り手も傷つけること恐れてはいけない。
その上で、『すずめの戸締まり』は恐れず覚悟を持った作品だと言っていいと私は思う。自身のトラウマに注力する傾向にあった新海誠が、果敢にも他者の傷に関心を向けて彼なりの答えを提示した。そして、傷をつけるという点でフィクションの役割は十分に果たしている。ただ、それが”十分”以上だった。作り手は傷つけること恐れてはいけないが、傷つけることの恐ろしさを過小評価してもいけない。作品が一生のトラウマを無闇に抉っていいわけがない。このバランスはこれから先、特に震災に関しては、ずっと議論されるべきポイントになっていくと思う。そして今作『すずめの戸締まり』に関しては、作品の中身だけでなく、作品の周知方法など広報レベルでも問題があったと考えている。そのため、クリエイターはもちろん、映画に関わる者たちすべてが考えていかなければならない。
草介とすずめは、そこで生活をしていた人を想像し彼らの分を背負って扉を締めた。映画も同じだ。観客は色々な人生を経てスクリーンの前に座る。そして、最後まで席で鑑賞した後も人生は続いていく。そんな一人ひとりのことを想い、公開に臨んでほしい。
P.S.
公開から2週間近く経ってあんまりこういう感想とか意見がなかったのでとりあえず書き留めてみました。あんまり肯定的には書いていないけど、個人的にはめちゃめちゃ快でも不快でも、なんでもない感じです。でも、『ルージュの伝言』が流れたときはニヤニヤしちゃいました。『けんかをやめて』が流れたときは寒いなって感じでした。お返しします。