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『先生の白い嘘』を観て

 主演の奈緒さんがインティマシー・コーディネーターの導入を希望したにも関わらず監督側が採用しなかったことで物議を醸した本作品。観て感じたことを以下、駄文として記す。観て直ぐに書き始めたため、適宜修正をすると思う。

前提

 鳥飼茜先生のマンガ原作は映画公開前から読んでいた。原作では現実社会の悶々とした不条理、とりわけ女性が受けうる様々な暴力的抑圧が描かれている。主人公の原美鈴先生を筆頭とした女性たちが、早藤という男に尊厳を人質にされながら翻弄される。この光景を前に、どうか現実ではこれ以上同じことが起こらないでと願いながら、読み進む過程で鳥飼先生が志す人々のカタチを噛み締める作品である。

いち実写化映画作品として

 正直に言うと、思っていたよりもマシであった。「原作に忠実」という免罪符を手に原作のただコピペを行った映画や、商業的成功だけを見て都合よく改編した作品など、反吐がでるような実写化作品らに比べると幾分見ていられるな、というのが割と序盤から持っていた印象だった。もちろんそれでも褒められるレベルにあるわけではない。ただ少なくとも(本編を見る限りは)原作を酷く侮辱するような態度ではなかった。合理的な説明はすごく難しいのだが、個人的な感覚として、ヘンテコ演出がなかったことや役者陣の演技が鬼気迫るものであったことはやはり大きいと思う。また、120分ほどの尺制限を踏まえ、登場人物や出来事を減らし、美鈴先生を中心に物語のコアを残す物語のスリム化への苦労も伺えた(そもそも120分に留める必要性は?という気持ちも強くあるが)。普段何気なく観た映画としてなら、観る価値がない、とは言わないであろうクオリティだった。

 ただである。これは下げきったハードルは越えたというレベルの擁護でしかない。役者や技術スタッフの名誉は保たれるクオリティではあったのは事実である。その反面、そんな功労者達に対して胸がつかえる思いを持つのは避けられなかった。やはり、先日の記事はどうしても頭から離れない。奈緒さんの迫真の演技に心を揺さぶられようが、それ以上にカメラに捉えられた姿を巨大なスクリーンで観ている罪の意識にかき消されるのだ。

不均衡の普遍化

 この作品は何を訴えていたのか。原作単行本2巻巻末に書かれている萩尾望都氏の推薦文の中に、強く感銘を受けた言葉があるので紹介したい。以下に抜粋する。

男達よ。ページごとに谺する、女の叫びを聞くが良い。
女達よ。目覚めよ。それが痛い目覚めであっても。

先生の白い嘘(2)p.193-194より抜粋

 この文章は、本作の主題と意義をとても端的に明快に捉えられていると思う。ここで書かれていることを独断でもっと咀嚼して言うと「男女の違い」を受けとめろということだ。何の違いか。それは「力」だ。地球上では性によって身体的、社会的なところで差があるのは(あるべき形ではないのがほとんどだが)自明であろう。美鈴先生はこれらの違いを早藤から暴力を受けきるという形で受諾していた。彼女から間違いなく叫びが漏れ出ていた。そして、目覚めた。強烈な疼きと傷が伴うとしても。
 我々は悲しくも男女のどちらかに分類される。ジェンダーの分類議論でも起点は男女にある。そして例えば、個人差はあるにしても一般に筋力は男の方が強い。たったこれだけでも二項の均衡は大きく崩れ、社会生活での生存戦略は全く違うものになる。このことを理解している人はどれだけいるだろうか。自分よりも力がある人が少数か、大量に街を歩いているか(しかもその力に無自覚)で、何もかもが違ってくるはずだ。このことに対する叫びもきっと存在するが、聞こえていない(聞いていない)人は少なくない。それだけではない。そもそも男女でなくても1対1の間には必ず「力」の差はある。我々は全く同じ人などいないのだから自然なことであろう。組織に所属する人間ならば、その組織構造によって持つ力は決定されるし、順位もつけられるかもしれない。つまり、私は、あなたは、この物語における「男」にも「女」にもなりうるのだ。この不均衡が至る所に潜んでいることに監督・プロデューサーは認識を向けられていなかった。その上、「叫び」が明確に向けられたにも関わらずにだ。

映画製作のあるべき

「奈緒さん側からは『インティマシー・コーディネーター(性描写などの身体的な接触シーンで演者の心をケアするスタッフ)を入れて欲しい』と言われました。すごく考えた末に、入れない方法論を考えました。」

https://encount.press/archives/644934/より引用

 三木監督はインタビューにおいて、インティマシー・コーディネーターを入れない方法論を考えたと述べていた。彼の言う方法論とはスタントコーディネーターのことではなかろうかと推測する。スタントコーディネーターとは、スタントの安全面に責任を持つ役割の方々のことを指す。スタントコーディネーターが本作品自体に関与していたのはエンドクレジットにて確認できた。

 李相日監督作品の『流浪の月』はインティマシーシーンを完全にスタントとして扱い、アドリブを一切許さないものとして撮影が行われていた。そうすることで、役者が不必要に役へ入り込んで何らかの事故が起こることを防いでいた。もし本作でも同じようにインティマシーシーンをスタントと解釈しているのであれば鳥飼先生の騒動後のコメントにて述べられていた、撮影後のスタッフから受けた説明に「一応のところ安心した」という言葉もこの存在から来ているかもしれない。確かに一応のところ、役者を守る枠組みは作られていた可能性はある。
 ただ、『流浪の月』は2年前の映画である。インティマシーシーン、とりわけ性暴力を彷彿とさせるシーンの取扱いはこの2年でも活発に議論され、製作としてあるべき姿は日々更新され続けている。スタントコーディネーターが果たせるのは事故リスクを下げることであり、全く無いわけでは無いが、役者の心的な尊厳を守ることに関与できる場面は多くはないだろう。

 また、SNS上の『先生の白い嘘』の感想コメントでは鑑賞時に不安な気持ちに陥る可能性を警告する方々を見かける。漫画原作でも性暴力を直接的な表現で描かれていたが、実写となるとやはり一つ一つのインパクトが強い。
 2021年に公開された映画『リスペクト』では、男性から女性への暴力を直接描かなかったことが話題になった。観客がスクリーン上に映る性暴力シーンを見ることでダメージ受ける、またはトラウマを呼び起こすことを防ぐためだ。
 もちろんハリウッドのスタジオも多くの不均衡と問題を抱える場所である。何もかもを見倣えと言うつもりはさらさらないが、日本映画界はもっとハリウッドのインティマシー・コーディネーターを導入なども含めた動向に関心を向けても良いと思う。特に、製作と役者、製作と観客のパワーバランスや関係性を適切ものに修正しようとする意識はこの国でも不可欠なはずだ。

 そして、役者の露出に頼るシーンや強烈な暴力シーンはどこまで必要なのだろうか。不本意にシーンを消費されることなど、どこまでワンシーンが人々に影響を与えてしまうかを想定しているのだろうか。
 奈緒さんはSNSで、”傷つく覚悟”を持っていたが、今は”傷つかない覚悟”の重要性を感じていると述べていた。製作側には、彼女らの傷口の大きさをコントロールできる立場にあることを意識していただきたい。決してインティマシーシーンの存在や力を蔑ろにしているわけではない。不均衡に無自覚のまま、役者、観客に向き合うことがある種の暴力へと繋がるのである。


願っていた

 本作品はこの社会を変えるパワーを十分に持っていた、はずだった。あるべき製作環境の水準を新しく打ち出すのに相応しい、はずだった。
 冒頭でも述べたように今回の実写化では美鈴先生と早藤の話を中心に物語が纏めらているのだが、これによって新妻ら他キャラクターの葛藤は大きく削がれている。鳥飼先生が救いたい人物、怒りを向けたい人物はもっといるはずだ。その中で1つ1つ要素をピックアップして紡いだ物語は何のためにわざわざ作られたのか、何のために役者たちは魂を削る演技をしたのか、それらの意義を再び製作に関わるものは熟考すべきである。そして、堂々と原作者並びに原作ファンへ披露する事が出来なかったこと、本件の事案は原作に対する最大の侮辱であったこと、これらを製作トップ陣並びに業界は大いに悔やむべきである。

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