鎌田順也 追悼文集 【城山羊の会 山内ケンジ】
鎌田君が亡くなったのは昨年23年7月だから、一年になるのか。当時、驚きと悲しさと同時に、余りにも信じられないから、これはなかなか鎌田君の不在を実感することはできないのではないか、と思ったし周囲にもそう言っていた。だって毎週の様に会っていた仲ではなかったから。ナカゴーとほりぶんの公演の時にちょっと挨拶したり一言感想を言ったり、それから鎌田君の方から僕がやっている城山羊の会に、たまあに来たりした時は目で挨拶したり、そんな感じであったから。そして案の定、鎌田君の不在は、時が経つにつれてじわじわと、まさに今頃、僕にのしかかっている。この一年、ナカゴーもほりぶんもなかったし、これから先もないのだ。つまらない。途方に暮れる。しかもこの一年、なんだか演劇がつまらない。これは、鎌田作品を観られなくなったからつまらないのか、それとも、それとは関係なくつまらなくなっているのか。たぶん両方な気がする。いや、立派なというかよくできた舞台は最近だっていくつかあるし僕の知らないところでそういうのはもっとあるんだろう、でもそれはそれとしてそう思うのだ。あと、全体にチケット値段が上がっているのもこれでいいんだろうか、と思う。いや、よくはないよ。
鎌田作品に初めて出会ったのは、墨井鯨子さんが出演していて、彼女に「面白いからぜひ観てほしい」と言われて上野のぜんぜん知らない小さな劇場で観た『バスケットボール』(既に再再演だったらしい)っていうやつだ。女子高生が何人かトイレで話したりするもので鎌田君もちらっと出ていた。面白かったけど、目からウロコ的な驚き、というものではなかった。でも誰にも似ていないモノだし妙なパワーがあるし、それに作演出家がこんなに巨漢、肥満体というのも初めてで印象に残りはした。それが2011年。で、その翌年の2012年だ、王子小劇場で観た『黛さん、現る!』で僕は完全にナカゴーのすごさに驚き魅了され、これは今後追いかけなければならない、と思いました。
実際には全てを追いかけられたわけではないが、その後、『黛さん、現る!』に勝るとも劣らないどころか全くテイストの違うものすごい傑作、『ホテル・アムール』、ほりぶんの『得て』を観ることになり、更には『まだ出会っていないだけ』や『ひゅうちゃんほうろう』『もはや、もはやさん』などなどなど一生忘れないであろう作品の数々。ため息が出る。出た。
鎌田順也(としや)君は享年38才だ。活動期間はせいぜい十数年だろう。今、作品リスト(だいたいのモノ)をもらって眺めているのだがとにかく驚異的な数だ。年に新作を7〜8本はざらで(私などは多くても年に二本)、テアトロコントやENBUゼミナール発表会もやっていたし、1つの公演で二本立てが珍しくなかったから、ほとんど毎月一本発表していた?ような年さえある。
更に驚くのは、この多作を『ナカゴー』と『ほりぶん』という劇団の形はとっているけれど、いつも同じメンバーではなく、出演者の人数はひとりから数十人まで何種類もあることだ。
これはどういうことかと言うと、要するに鎌田君は1日24時間、絶えず新しいものを作りたくて仕方がないのだ。そして一人でも多くの、いい、と思う役者に出てもらいたくて仕方がないのだ。なので、作品も俳優もあまりにも多くて整理、区分けするために「本公演」とか「特別劇場」というようなほとんど鎌田君の中だけでしか通用しない公演の肩書きを使っていたフシがあるくらい。でもまあとにかく、それができるのは、鎌田作品に出たいという俳優が回を追う毎に増えていったということがある。それぐらい魅力のある公演群だったのだ。
その他にもユニークさに驚くことばかり。例えば劇場も、まあ、下北界隈の劇場に比べて、安くてスケジュールが取りやすいということもあったかもしれないが、少なくとも僕には鎌田作品のおかげで初めて知った小屋ばかりで、その隠れ家的な場所でとんでもないものを観た、という優越感を得ていた的な。後で知ったのだが、これらの劇場がある北区江東区界隈は鎌田君の家の近辺であった。そういうところも好き。
そのことに関係するわけだけれど、彼は自分でできることは可能な限り自分でやっていたのだろう、本番で音響を彼がやっていたことは誰しも見ているだろうし、照明、黒子、小道具、美術、あのチラシ、その他すべて(岸田賞の候補にもなった、ほりぶんの『かたとき』は紀伊國屋ホールであったからその限りではなかったかもしれないが)。でも、全部自分でやるのは単に経費節約のためだけじゃなかったのではないか。むしろそうしたかったんだろう。それによって得られる自由が重要だったのだろうし、それが自分の個性になっていることをよく知っていたのだと思う。
とにかく鎌田君の活動のあらゆる要素がユニークの塊、型破りで、他の誰もやっていないこと、というか誰にもできないことをやっていて、僕にとっては息子のような年齢だけれど憧れであったし、なんだろう救いというか、指針というか灯台みたいな存在だった。つまり、僕は鎌田君よりもはるかに大人で、大人になると大人の事情がたくさんあるわけで、いろいろ妥協したり諦めたりしなくてはいけない場面に出会うわけだ。でもそういう時に、鎌田君のことを思うと、ものすごく自分が情けなくなり、つまり、鎌田君はあんなに見事に好きな事を自由にやっているのに、一体僕はなにをやっているのだ、と思い直し、なんとか踏ん張り、かろうじて生きて来れている、というこの数年でした。
そういうわけだから、灯台を失った今、僕は演劇への興味を失っているし、先ほども言ったが途方に暮れている。でも、僕なんかよりもはるかにはるかに途方に暮れているのは ナカゴー、ほりぶんの劇団員&常連俳優たちであろう。完全にみんな船に乗って航海していたのだから。鎌田船長の元で。しかもものすごいスピードで。普通の劇団ではないよ、あのセリフ、あの演出、あのしつこさ、あの繰り返し、あのパッション、あの体力と消耗、あの大団円に青春の全てを懸けていた俳優の諸君。諸君らは船長がいなくなり、どうするのだろう?港に戻るのだろうか?それとも他の船に乗るのか?でもあなたがあんなに輝いていたのは鎌田号に乗っていたからだ。他にあんな船があるわけがないんだ。(僕が演出をして諸君に出てもらい鎌田作品を上演することも何度か夢想したことがある。一本ならできるかもしれない。でも一本が限界だ。体力的にも再現の精度的にも。それでは意味がない。あの異常なサイクルで発表されることも含めて鎌田作品なのだから)
じゃあ、やっぱり港に戻るか?陸地へ。陸地はつまらないよ。特に今の日本はつまらない。面白いことなんかひとつもない。ゴムボートを出してしばらく漂流するか?それはまあ、しばらくならアリかも知れない。でもちゃんとライフジャケットは付けておかないとダメだ。僕の船はとてもスピードが遅いから、だいたい同じ速度でついていける。双眼鏡で遠くから見守るよ。なんで遠くからかっていうと、ゴムボートとこっちの船の間をちょうど鯨が通るからなんだ。ザバアっと出てきて潮を吹く。
城山羊の会 山内ケンジ
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