ヨコハマ
週の真ん中だというのに駅前の繁華街は異様に賑わっていた。ソープ街の串焼き屋に一時間、ドブ川沿いの串カツ屋に三十分、随分とせっかちにハシゴしたのはアルバイト先の同僚である五十半ばの上戸の意向によるものだった。酒手を稼ぐ為だけに会社勤めとは別にバイトをしている上戸は、氷の入った巨大なジョッキに焼酎と水を半々で注ぎ、鰐のようにガブガブと呑んでは出された食い物をあっという間に平らげ、さらに一杯呑んでしまうとさァ次だと立ち上がった。勘定は俺がビールを一杯呑む間にすでに済んでしまっていた。気がつけば俺は東口のタクシー乗り場に引っぱられていて、次の瞬間には深夜の十五号を驀進していた。バブル期の生き残りといったような雰囲気を纏う上戸は、ダブルのスーツに身を包み、灰色の薄い頭髪をなでつけていた。
タクシーの中でも上戸はひどく饒舌だった。ホントはねKさん、韓国クラブに行きたかったんですよ、うちの店に来るスッチーなんかも、ほらグレーの制服着てる子たちね、けっこう来るんだよね、ステップが決まってるんだな、まァ憶えちゃえばすぐだから、え、ディスコ? まだあるんだよそういう店が、こんど連れてってあげるから、それは六本木なんだけど、きょうは横浜だから、ぼくね、こっちに来る前に住んでたんですよ、十七の頃から通ってたんだ、山下公園で少し喋ってさ、ぼくは免許持ってなかったから友だちの車に乗って、週に三回は行ってたね、もう四十年前ですよ、でも当時は呑んで運転してもよかったからさ、ねえ運転手さん? ラーメン屋なんか行くとね、運ちゃんがラーメン啜りながらビール飲んでんだから、いや法律上はダメだけどさ、ゆるかったんだな、捕まってもどうってことないんだから、おれもいっぺん歩道に突っ込んじゃって、ちょうど交番が目の前にあったもんだから焦ったけど、たまたま警官が巡回でいなくてね、修理屋呼んでセーフだったけど、両方の前輪から火が上がっちゃってさ、光と音のエレクトリカルパレードだったなァ、あ、運転手さん、瑞穂埠頭のさ、米軍施設の手前あたりね。……
不意にタクシーが停まった。繁華街からは離れ、ビルや店もない単なる橋の麓といったような場所だった。車から出ると、巨大なネオンが光るバーがポツリとあった。重い戸からは薄暗い店内が透かし見えた。バーテンは寡黙というよりは鈍重といったような印象だったが、註文を聞き漏らすことなく馴れた手つきで酒を運んできた。テーブルにはあらかじめ上戸が一万円札を置いていて、註文のたびに鈍重そうなバーテンが会計をしていった。チーズとキスチョコをつまみつつ窓から海と煌びやかな横浜の夜景を眺めたが、むさい男と二人ゆえ何の感慨も湧かなかった。昔バンドをやっていたという上戸がジュークボックスに小銭を入れているのを見ながら、俺は近ごろ男をつくって出て行った居候の女やアルバイト先にいる女子大生なぞをこの店に連れてくる空想に耽った。「シェリー」が流れていた。九曲入れたから、聴いたら出ようと上戸は言ってバーボンを煽った。ここね、きょうはあのバーテンしかいないけど、ふだん女性がいるんですよ、おれが十七だったから、たぶん当時二十三くらいだったと思うけど、死ぬほど綺麗でさ、ドキドキしながら通ってたな、音楽かけて踊ってさ、いい時代だったよね、Kさんにも、味わって欲しいんだよね、まだ名残りのある店もあるからさ、おれが連れてきたいんだ、小説の題材にもなると思うんだよな、ここも映画とかに使われてるんですよ、舘ひろしのさ、何だっけな、あ、そうだそうだ、次が決まったよ、バーテンの兄ちゃん、車呼んでおいてもらえる? まだ、三曲目の「明日に架ける橋」のイントロが流れ始めたばかりだった。
警察署の横につけてくれ、と上戸は運転手に言った。外に出ると、上戸は小便がどうにも我慢できぬらしく警察署に駆け込んでいった。ふりかえると中華街の門があった。すぐ近くでサイレンが鳴っている、警察署前の路地がにわかに騒然としているようだ。便所から出てきた上戸は、警察に訊いたのだろう、駄目だ、と漏らして頭をかいた。上戸の肩越しに消防車が見えた。雑居ビルに入っている一階の飲み屋から出火したらしかった。ケーブルカーってとこ行きたかったんだけどさ、すぐそこが燃えちゃったから閉めたらしいんですよ、まァとりあえずタクシー乗ろう。中華街の入り口にいた車に乗り込んだ。小汚い、浮浪者の臭いのする快活な運転手だった。会社の重役のような風貌の上戸が、わたし実は警察関係なんですよ、警視庁の人間でね、と言うと、あァ、神奈川県警とは犬猿の仲の、と乗ってきた。でもね、警察の人間は自分が警察とは言わないですよ、この辺の警官は夜は酔っ払ってますからね、色々と不味いんじゃないですか、まァプライベートくらい、ねェ、でもさ、やっぱ一般の警官には銃は持たせちゃいけないよね、きのうもあったんですよ、自殺する為に銃持ってるようなもんですねェ、ここらは物騒だけど銃は持っちゃダメだね。繁華街の交差点で車は停まった。着きましたよ、バーバーバーです。……
角の店に入ると、初老のウエイターに一度出され、外の階段から二階に案内された。外套を剥がされ、隅のテーブル席についた。酒が運ばれてくると同時に、角にいたバンドのジャズ演奏が始まった。老舗らしいジャズハウスの給仕に若い女が三人もいるのは意外だったが、シンガーはさすがに年増だった。他のテーブル席に坐る客はプレイに反応してしたり顔で笑ってみせたり、目を閉じて軀を揺らしたり、声をあげたりしていた。初老の集まりといったような客たちは、どうやらシンガーと古参の仲であるらしく、歌が終わるたびに自分のテーブルに呑みに来ないかと誘っていた。二千円もする果物の盛り合わせが妙に苦々しい味に感じてきて、俺は、ほら上戸さんも誘ってみなよ、と冗談ぽく言ってみた。バーボンにすっかりやられていた上戸は言われるがままに大声でシンガーを呼んで、周りのジャズ・マニアの訝る顔も意に介さず俺と上戸の間の席にいざない、言葉を尽くして俺のことを褒めちぎりながら紹介した。シンガーは俺のことをジッと見つめ、昭和から来たような人ね、と言って笑った。俺は自分の癖毛がすっかり伸びて、往時のマッカートニーのようになっているのじゃないかと考え反射的に髪を掻いた。鼠色のタートルネックのセーターと黒いジーンズと黒のウイングチップを穿いていた。こんな場ではいささか野暮ったい格好かもしれなかった。恥をかいたような気がして黙ったままビールを一息で煽った。シンガーの女は子どもにするように拍手して、わたしも一杯呑みたいな、と言った。せっかちな上戸はすでにバーボンのダブルを二杯干しており、それじゃ店を変えませんか、ぼくらの街を案内しますよ、とそう言った。女を挟んでいなければ、余計なことを言うな莫迦、と上戸の肩を小突きたかった。シンガーは露出の多い衣装を着ていて、どう考えてもそのまま呑みに出かけるような格好ではなかった。まして横浜を出てドブ川をこえてゆくなぞ論外だった。だからシンガーが、いいわよ、と快諾したのには愕いた。これが七十年代のノリですから、と上戸は俺を振り返って莞爾と笑った。莫迦ねわたしはもうちょっと若いわよ、とシンガーは緋い唇を尖らせて着替えに向かった。胸元の拡がった赫いドレスから覗く汗ばんだ乳房の白さが目の奥に残った。上戸はいつの間にやら支払いを終え、車もすでに下に呼ばせてあるらしかった。
俺たちは十字路で待機していたワンボックスの黒塗りのタクシーに乗り込み、助手席の上戸が運転手に逐一指示を出した。俺は暗く静かな車内で、懶げに外を眺めるシンガーをちらちらと見ていた。露出の多い赫いドレスから別人のように地味な服装に変わっていたが、なぜか返って若く、せいぜい三十半ばくらいに見えた。あの、と俺はかすれきった、童貞少年のような声で話しかけた。名前、なんて呼んだらいいですか、おれは上戸さんにはKって呼ばれてます。シンガーは大して面白くもない景色から目を離さずに、カンナ、とだけ低い声で呟いた。俺は無理に連れ出したことに気を悪くしているのじゃないかと考え、歪んだ月を映すドブの流れを見つめているカンナにこれ以上話しかける気を失ってしまった。上戸は助手席で、シートベルトがなければ運転手にしな垂れかかっているに違いない格好で眠ってしまっていた。黒塗りのタクシーはすでに高速を羽田口で降りて、環八に合流して繁華街に向かっている。俺は何とかこの重々しい沈黙を打破しようと上戸の肩を揺すぶったが、ぼくはショートスリーパーだから眠りが深くて蹴られても起きないんだ、と豪語していた通り、禿げかけた頭をはたいても身じろぎもせず、射殺されて死んだかのように運転手の方に軀をのけぞらせていた。
わたしね、と交差点の信号で”青い鳥”という玩具屋を見つめていたカンナが突然喋りかけてきた。むかしこの辺に棲んでたのよ、ちゃんぽん屋さん、潰れちゃったんだ、よく食べたなァ、ママの彼氏に連れられてね、スナックで働いてたんだ、わたしのママ、彼氏の方は、何やってたんだろ、たぶん何もやってなかったと思う、ずっと家にいたから、それで二人でママを店まで送ってってね、自転車の後ろに乗って、帰りにちゃんぽん食べたなァ。堰を切ったようにカンナは喋り続けた。堂々とジャズを歌い上げていたシンガーとはまるで別人のようだった。少女じみた独白のせいか歳がさらに若く感ぜられた。それでも手の甲などを見ると四十は越えているに違いない。気がつくとカンナは俺の肩に頭を乗せ、歌うような独白もプツリと終わっていた。泣いているのかと思ったが、眼を覗き見るとただただ虚ろなだけだった。顔をそむけられなかったから接吻してみると、カンナは飴にしゃぶりつくように俺の歯を舐めてきた。また十五号を横浜方面に向かわせ、水門通りの辺りで上戸を降ろした。何を言ったのか分からないが、俺がいくら揺さぶっても起きなかったのに、カンナが耳許で何か囁いた途端に跳ねるように上戸は目醒めた。上戸は俺に眠ったことを陳謝し、一万を超える乗車賃を払うと足早に帰っていった。
陸橋をこえて西口のロータリーまで廻ってきた。タクシーを降りると、カンナは迷うことなく工学院の方に歩き出した。この先に中学の同級生がやってるスペイン料理屋があるんですよ、と声をかけたが無駄だった。狭い、スナックが林立しているうねるような路地に入り、ハイヒールの音だけが虚ろに響いた。半ばに黒い車が停まっており、太いマフラーを巻いたヤクザの老人が出てこようとしていた。ドアの前には髭面の大男が待機していて、すり抜けられるほど路地は広くなかった。俺は老人が店に入るまで端に寄っていようと考えたが、カンナは構わず開いたドアに手をかけて通りぬけてしまった。残っていたら殺されると思い、追従するように頭を下げながら車の脇を通った。遠くで振り返ると、老人は店に入ったらしいが大男は突っ立ったままいつまでも俺たちを凝視していた。大理石ふうの螺旋階段を上がっていくカンナのすらりとした脚を見つめながら、俺は眩暈を伴うひどい疲れを感じていた。四時間前に、上戸と二人で薄汚れた串焼き屋で呑み始めたのが遥か遠い記憶のようだった。部屋に入るなり、そうそうこんな感じ、とカンナは歌うように言った。どうやって入れたんだろうね、わたしまだ小学生だったのに、背は高かったけど、どう考えても可笑しいじゃない?
似てたんだァ、と眠っているとばかり思っていたカンナが不意に言った。俺は悪趣味な色をしたソファに沈みながらビールを飲んでいた。毛布のないツルツルとしたシーツで寝るのが好きじゃなかった。似てたって、何が? カーテンを開けて、朝の光をジメジメした部屋に入れようとした。だが窓の外には隣接するビルの室外機があり、埃っぽい空気が流れ込んでくるだけだった。似てるのよ、あの叔父さん、ママの彼氏に、もう何十年も前のことだけどさ、何か顔見たらピンときちゃって、歌どころじゃなかったな。俺は小便をしてからベッドに戻った。何だ、おれに似てたのかと思った、実はおれもけっこうロリコンなんだよ。カンナは鼻先で笑い、男はみんなそうなんでしょ、いいよ、わたしはファザコンだし、パパがいなかったからかなァ。ビールを渡そうとすると、カンナは嫌々と首をふった。ファザコンだから、いい齢こいて少女じみた仕草をするのだろうか。じゃあさ、何でおれなわけ、ホントは上戸さんがよかったんじゃないの? 疲れが、ドッと染み渡るように襲ってきた。アパートに帰って、自分の匂いのするくたくたの布団に倒れたかった。ねえ、まだ時間あるんでしょ、こっちきてよ、若いから、まだ平気でしょ。朝の光が恋しかった。夜勤明けに店の外に出た時の、肌を刺すような寒気と眩暈のするような眩い朝の光が。顔洗ってきなよ、口濯いでさ、寝起きの女とはおれキスできないんだ、ほら、朝ってうんこ食ってるのと同じくらい菌がいるって言うだろ。カンナは枕を投げながら罵倒の言葉を浴びせてきて、からからと笑った、それから啜り泣いて、また笑い、開いたままの景色のない窓を見て、歌いたいな、と言った。
駅に向かう背広を着た会社員や揃いのマフラーをした高校生の群れの間を並んで歩いた。俺たちは姉弟のような親密さで肩を寄せ合っていた。ロータリーを廻り、信号を渡って駅前に広場に向かう途中、西口も変わったなァとカンナが呟いた。浮浪者が溜まって宴会をしていた円形の縁石はいつの間にか撤去され、いまはだだっ広い空間にポツンと樹木があるだけだった。カンナは俺をふり向いて頷くと、樹木に向かって泰然と歩いていった。俺はタクシー乗り場の傍のガードレールに寄りかかった。行き交ってやまない朝の群衆の河の中で、唐突に太い歌声が響き渡った。少女じみた先程までのカンナとは別人の、昨夜見たヨコハマのジャズシンガーがそこにいた。訝るような、感心するような顔つきでカンナを見やる他人どもの流れの向こう岸から、俺はたったひとりの孤独な観客として、親愛を込めた惜しみない拍手を送り続けた。
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