雨夜ノ月の歌
天空橋で月見をしてきたらしい男女で店は俄かに賑わいだした。いつものように外国人や肉体労働者も多い。満月は見えたろうか? 俺も店に向かう路すがら、何度となく空を捜したが、ビルやマンションに巧妙に匿されているらしく目にすることはなかった。たしかに天空橋まで出れば遮るものはないだろう。赤い橋に佇む人々、海老取川の揺らめき、黒く拡がる東京湾、それらを隈なく照らす今夜の月は格別の意味があるらしい。慢心か憂愁か、俺にはその歌が妙に儚く感じられるのだ。レジにいる新人の白石が、雪崩れこんで来る客足に対応しきれず、夜勤の相方である倉科に怒鳴られている。かつては大手企業の人事部長として手腕をふるった五十六歳の貫禄ある男が、あたふたと同級生であるベテランの倉科の指示通りフロアを駆けずり廻っている。倉科の方も、バブルの時代は営業でこの一帯の工場町場の仕事を一手に引き受け、月に百万を稼いでいたのだという。そして今週、新たに六十七歳の寿司職人が入ってき、違う店のベトナム人留学生の女にぶっきらぼうな、まるで慣れ親しんだ友人に対するような口調で調教されていた。引継ぎの時に、口の訊き方がなってなくてすみません、と俺が謝ると、いやァ、あまり若いもんと喋る機会がないもんですから、勃起しちゃいましたよ、と照れていた。これが俺の職場だ。……
にいちゃん、いい躰してるね、いや、たまにじゃそんな腕にはならないよ、おれだって若い時分はなァ、はは、ここが本職かい? 勿体ないね、にいちゃん、鳶やらない? 八本目のビールで胡麻塩頭の親方は気分が良さそうだ。俺は曖昧に笑った。向かいで丼をかっこんでいた屈強な男が振り返る。冗談じゃないよ、本気だぜ、この人は社長なんだ、この辺りを仕切ってる。この大男の頬も赫く染まっている。いや、おれ高所恐怖症なんすよ、鳶なんておれには……。親方も大男もそれきり何も言わなかった。こいつは男じゃないな、そういや女みたいな顔してやがらァ、これは肉体労働者たちの言葉じゃない、俺の自意識の言葉だ。たしかに俺は鳶などやりたい訳ではなかったが、自分が機会から尻尾を巻いて逃げた男に感ぜられた。俺は小説を書きたい、しかしこの掃溜めでアルバイトを続けるより、鳶のような男臭い職場の方がよほど世間に……、そう、畢竟、俺は世間に抗っているような欺瞞の素ぶりを見せて、逃げているだけなのである。以前から度々紹介を受けている出版関係の営業も、書店員の職も、口実を設けては退けている。客席を汗みずくで駆け廻る年嵩の後輩たちには、少なくとも全盛の、満ちみちた満月の季節があった。全盛を終え、老いと共に欠けてしまった月と、昇る気配すら見せぬ月とを比べることはできない。俺の恥は、いま浮き彫りだ。俺の目からまんまと逃げおおせた完璧な月、それは社会であり世間だ、囚われている側の俺が見られるはずなかった。俺はいま満月の牢のなかで俺を侮る肉体労働者たちや月見帰りの恋人や外人に向け、せっせと飯を炊いて酌をする哀れなウサギだ。月面に囚われたウサギは杵など揮うべきでないのだ。槌を握り、鶴嘴を振りかぶり、破壊しなければいけない。俺は世間を、世間を無視できぬ自意識を破壊したい。しかし俺の手には金槌も鶴嘴もなく、親方が注文したビールの中瓶が二本、泡を吹いているだけなのだ。Kちゃん、追加でもう一本、と倉科が叫ぶ、あ、ちょっと白石さん、それまだ下げちゃ駄目でしょ、お客さん糞してるだけなんだからさァ。糞という言葉にカウンターにいる月見帰りの女が顔を上げて眉を顰めた。はい、はい、と白石は直立不動で兵隊のように平謝りだ。俺は三本目のビールの栓を抜き、小さな棍棒のようなそれを力なく両手にだらりと下げた。これでは月面を破壊できぬどころか、欠くことすらできない、袋小路だ、晴れているはずなのに、俺にだけ月が見えない、道長の歌が脳裏に詠まれる、まさに、月とスッポン、俺には見えない、俺にはきょうは雨なのだ。……
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