洗濯日和

 洗濯機はベランダにある。無精な男ふたり暮らしゆえ、カバーなどなく雨風にさらされている。竿にぶら下がる洗濯バサミは風化すると砂のように崩れ、それがよく指をすり抜けて階下に落ちる。鉄柵があって外からは見えない建物の間隙に、残骸が夥しく落ちている。この空間は掃除することがないらしく、住民が落としたであろうゴミがうずたかく積もっている。中には女物の下着やキャミソールなどもちらほら見え、頽廃的な彩りを添えていた。誰かが昨夜のうちに烟草の空き箱を棄てたらしい。俺はベランダで風に嬲られながら歯を磨くのを日課としているから、新顔はすぐに判る。犯人は、隣りの部屋に越してきたばかりの、二十代半ばと思しき若夫婦だろう。旦那は髪を短く刈り、しゃれた剃り込みなんかを入れ、モミアゲから顎にかけて髭を短く生やしている。嫁は栗色の髪を乳房の辺りまで伸ばし、整った顔はミルクみたいに白い。廊下で幾度か二人と出喰わしたことがあるが、どうも田舎の出らしく、会話に聞き憶えのあるような訛りがあった。

 オンボロの洗濯機が、むかし教室で見た同級生の癲癇の発作そっくりに揺さぶられ、爆破の予兆かと不安になるような音を立てている。顔を近づけると、残り一分という表示が幽かに判別できた。蓋の表面を撫でると、雨風が運んできた砂塵で指が汚れた。少し出ただけでも凍りつきそうな寒さだというのに、隣りの部屋の窓は開いているらしく、エドシーランが漏れ聴こえてくる。風に歪んだ仕切り板に歩み寄ると、男の喘ぐような声が微かにした。ああ、おお、ああ、ああ、ちょっと、ああ。何か、水っぽい音も混じっているようだ。若いねェ、と独りごちながら、寒気による尿意を身慄いして耐えつつ、聞き耳を立てる。向いには一戸建ての横腹が見える。壁の染みが動いたと思ったのは、時々憶い出したように匍匐するヤモリだった。目を落とすと、玄関から老人が出てくるところだった。この家の老人は犬を連れて出たり入ったりするたびに、なぜか俺の方をジッと見つめてくる。そのどこか咎めるような、警戒するような目線に、俺はいつも苛立ちを感じる。
 死んだように静まった洗濯機の蓋を開けて、ゴワゴワした衣類を干していく。ふと、女の甘やかな悲鳴が上がった。俺は思わずパントマイムみたいな格好で仕切り板にはりついたが、音沙汰がない。不意に消えた洗濯機の異音を気にしたのか、それとも俺が聞き耳を立てているのに感付いたのだろうか。どちらにしても、この格好ではヤモリと変わらない。そっと柵から身を乗り出して、仕切り板の向こうを覗いてみようかしら? ふと思いつき、顔を板から離した途端、隣りのベランダから白煙が昇っているのに気がついた。目と鼻の先に、旦那か嫁のどちらかがいるらしかった。不意を突かれたせいで、一雫の尿が下着を濡らして太腿を伝った。何の意地か、深呼吸で尿意を押し留め、頓挫していた洗濯物を干していく。力みすぎて、手の中で洗濯バサミがポキリと折れ、破片が下に落ちてしまう。虚ろな音が路地で響く。俺は息をひそめて、仕切り板を凝視する。不意に、一戸建ての壁に向かって烟草が飛んだ。跳ねっ返り、舌打ちが鳴る。どうやらヤモリを狙ったらしいが、とんだ的外れだった。短い烟草は向かいの老人宅の敷地に音もなく落ち、隣室の窓は音を立てて閉められた。
 ひと気の失せたベランダから、堂々と吸い殻を見下ろした。種火が消えているかは判然としない。が、仮にヤモリの背を焼こうとしたのなら、火は残っているはずだ。もしも、火のついた煙草が命中し、ヤモリが柵の向こう側で斃れ、吸い殻がこちら側に落ちたならば、その火種はうずたかい塵の城に燻りを与えたろう。女物の肌着や古新聞紙、波うったポルノ雑誌、どんな塵でもいい、小さな火の気が仄見えてくれればそれでいい。あとは俺が、貯蔵してあるポーランド原産の強烈なウォッカを垂らしてやるだけだ。強慾な大家の弱りきった顔は見ものだろうし、外観が煤けてくれれば家賃が下がるやもしれぬ。冬の火脚は疾いというが、消防署は目と鼻の先にあるから二階までは舐め尽くすまい。放火魔には、むろん指にヤニの匂いがこびりついた若き夫婦が疑われるだろうし、まず目撃者たる俺が逃さない。彼らも気の毒な街に越してきたものだ。

 犬を連れた老人が帰ってきた。ベルを鳴らすと、示し合わせてあるのだろう、ドアの隙間から布巾が手渡された。老人はしゃがみこんで、犬の脚を入念に拭いてやった。ふと、老人の目が玄関脇に落ちている吸い殻に向けられた。犬を家に入れてから、老人は吸い殻を拾って検分した。なるほど口紅がついていない、一服していたのは旦那だった、いや、家にいて紅をさす妻もいないか。そんなことを考えていると、老人の首が突然グルリと廻って俺の方を仰ぎ見た。訝しむような眼差しが光る。違う、俺じゃない! そう抗議したかったが、しかし実際、両腕をダラリと柵の外に投げ出し、この真冬にベランダで階下を眺めている様はどう見ても一服しに出てきた喫煙者そのものだ。いま、容疑者は俺一人だった。老人は吸い殻を高々と掲げて、何かを言いたそうにしている。が、俺の膀胱はこの一瞬の緊張で、もやは臨界点に達していた。俺は釈明する余裕もなく大慌てで部屋に飛び込んだ。同時に、老人の嗄れた叫び声がした。便所の戸も閉めずに、足踏みしながら性器を露出する。建てつけの悪いアパートの戸が開かれる音が階下で聞こえる。決壊したように溢れでようとする尿の勢いで、性器がぶれて辺りにビタビタと飛び散った。地響きに似た音がアパート内で鳴っている。青年のような精悍な足取りで階段を上がってくる者がいるようだ。酒が入っているせいか、尿はとめどなく性器から迸った。何者かがベルを乱暴に押している。が、我が家のベルは壊れていて蚊の鳴くような音しか鳴らない。まだまだ尿は飛沫をあげている。ドアが拳で叩かれる鈍い音と憤激する嗄れ声が廊下に響いている。俺じゃない、待ってくれ、俺じゃないんだ。まるで自ら放った火を消しとめようとする放火魔のように、俺は濁りきった黄褐色の溜まりに向かって性器を顫わせ続けた。……

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