我が青春のブラックマンバ
九歳からバスケットボールを始めた。俺が入ったミニバスには一つ下の妹がすでに所属していた。通い始めは土日の早練が厭で、サボる為にあらゆる口実を使ったが、ある朝に母親が力づくで俺を引っ張っていった。どうしてあそこまで頑なに、半ばヒステリックに、むずがる俺を連行したのか。教育熱心なイメージがないからこそ、あの朝の母を、いまでも鮮明に憶えている。
俺は瞬く間にバスケットに熱中した。偶然にも、住んでいたマンションの目の前には金網のバスケットコートがあった。リングは鉄製の渦巻状のもので、枠に当たると鈍い音がした。コートは夕方までしか使えなかったが、網をペンチで切って密かな入り口を作り、夜な夜な忍び込んでは、あまり音を立てぬよう練習をした。
小六の時、初めてテレビでNBAの試合を観た。贔屓のチームは、自分のクラブ名が入っているロサンゼルス・レイカーズ。知っている選手が一人だけいたというのも嬉しかった。コービーブライアントは漫画のまま、アフロヘアの陽気な黒人という感じだった。だが試合となると表情が一変し、闘志剥き出しの毒蛇の貌が顕れてたちまちにコートを支配した。
レイカーズはその年に優勝を果たした。1988年ぶりの優勝。自分の生まれ年と重なり、何か宿命的なものを感じ、ますますバスケットに夢中になった。中学に入り、ライバル校と合併した形になり、部活のスタメン争いは苛烈になるかと思われた。が、ミニバス時代の主将が強豪校に進んだため、副将だった俺は短躯ながら何とかレギュラーメンバーに潜り込むことができた。一年時は先輩にみっちりとシゴかれた。ボールに触れず、体力作りに励む日々。教わった技術といえば手淫だけだった。レイカーズは二連覇を達成し、部屋の壁は「HOOP」や「DUNKSHOOT」の付録のポスターで埋め尽くされていった。コービー、シャック、アイバーソン、カーター、ガーネット、ダンカン、キッド。夏休みはスタムダンクの再放送を見てから部活で汗を流し、女バスの白いシャツから透ける匂い立つような肢体をちらと見やり、帰ってから存分にティッシュを使い込み、ゴミ箱に向かってシュートした。
先輩が、数十年ぶりに都大会出場を果たした。後輩から見ても、非の打ちどころのない強さだった。ジャージが紺と黄のデザインに刷新され、おのずと応援や練習にも身が入った。レイカーズは三連覇を達成していた。俺の枕の上には、空中で反り返ったコービーがダンクに向かう勇姿が貼られていた。本格的にNBAに熱中し、アメ横に入り浸り、バッシュやユニフォームを見たり、選手のカードやフィギュア、ポスターを覗いたりした。レイカーズについても、ジャバーやマジックのいた時代まで愛し始めていた。
二年の夏、俺たちは一点差で都大会への切符を逃した。糸が切れた感じだった。スタメン五人のうち、三人が部を去った。俺もそのうちの一人だった。父親は食卓で「本当にいいのか?」と静かに聞いた。俺はもう十四歳で、母親はただ困ったような顔をして黙っていた。
決め手は、2002年の日韓ワールドカップだった。俺はサッカー部に入った。また朝も夜もなく練習に打ち込んだ。女子などもう見向きもしなかった。家ではウイニーでポルノ動画を収集していた。NBAを観ることはなくなった。別れた女のように、何となく目を合わせずらかった。
高校に入り、俺はまたふらりとバスケ部に入った。笑ってしまうほど弱小で、俺は失望を感じた。どれほど自分が恵まれた環境にいたのか、初めて深い後悔に襲われた。俺は体育館を避け、中庭にポツリとあるボロいゴールで一人きりで遊んだ。たまに、補習をサボった不良が挑んできたり、先輩が練習に出ようとしない俺を叱咤しに来た。俺はアルバイトを始めていて、部活の終わりまでいることができなくなっていた。「それでいいのか?」と先輩は言った。いつだか父に言われたような科白だなと思った。俺はニヒルな顔を作ってシュートを打ちながら言った。「先輩、バスケが金になるんですか」先輩は何も言わなかった。シュートは枠にはじかれ、アスファルトを虚しく転がった。
俺は実質部活を去り、もはや誰も声をかけてこなくなった。中学で背番号を争った奴が一緒に進学してきていて、そいつだけがたまに1on1を仕掛けてきた。俺は休み時間になるとクラスの奴と下に降りて、朽ちかけのゴールを争った。上履きは底が抜け、靴下はすぐに駄目になった。高校二年。十六歳。初めて恋人ができた。十四の頃に持っていた信念みたいなものは、もうどこにも見当たらなかった。自瀆の必要もなくなり、猿のように性交ばかりする日々。それなのに、どうして俺はいつまでもこんなチンケなゴールにしがみついているのだろう? シュートを打つ。ゴールの中心をボールが抜ける。ネットが跳ね、パツッという小気味良い音がする。アスファルトに倒れ込む。地面に耳を当てて目を閉じる。何も聞こえてこない。驟雨のようなドリブルの音、後頭部に感じるあの鼓動のような揺れが好きだった。バッシュの擦れる音、鋭い笛の音、息遣い、父兄や後輩や女子たちの弾けるような歓声、そんなものが俺たちを奮い立たせたはずだった。目を開けると、生徒などいないようにしんとした放課後の片隅、矩形に切り取られた空だけが青かった。
高校三年。一国沿いの巨大な本屋に、恋人と一緒にポルノ雑誌を漁りにきていた。二階に上がる前に、漫画を物色しようと一階を廻ることにした。ふと通り過ぎたスポーツコーナー、顔を向けていた訳でもないのに軀がピタリと止まった。アフロヘアがすっかり剃られ、精悍な顔つきのコービーブライアントが表紙の雑誌が、溢れんばかりに並べられていた。「ねえ、どうしたの?」先を歩いていた恋人が訝しそうに言う。俺は雑誌を手に取った。デカデカと見出しが書かれている。一試合、驚異の81得点。泣き出しそうになった。おれは変わってしまったけど、やっぱりコービーは凄いなァ。「だれなの、それ」いつの間にか恋人が俺の腕に顔をすりつけるようにして覗き込んでいる。だれって、この人はさ、おれの神さまだよ。……
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