夢やぶられて


 アパートの階下に厄介な住民がいる。中国人の四人家族で、二人の娘はまだ幼い。母親は水商売風の化粧の濃い、五十に差しかかろうとしている風貌。父親は年齢不詳でのっぺりとした顔をしていて、体格がよく両腕には手指まで刺青が施されている。この一家が、朝も夜もなくまくしたてるような金切り声で大騒ぎするのだ。夜泣きはまだしも、父親が冷蔵庫でもぶん投げているのかというほどの物音が夜の静寂に響きわたることもあった。そんなことがあると、奥底にある大地震への恐怖からか、夢が裂かれるようにして即座に目醒めてしまう。玄関口や住民ポストですれ違えば挨拶はするが、向こうは会釈するか無視するかで声を聞いたことはなかった。いつも耳から白いイヤホンをぶら下げているから、或いは俺の声が届いていないのかもしれない。

 やはり深更だった。鉄製のドアが拳で殴られる音が浅い眠りを打ち破った。何かの間違いかと思ったが、ドアは執拗に叩かれ続けている。親父は飲みに出かけているらしかった。居留守を決めこもうとも考えたが、越してきたばかりの隣りの若夫婦を怯えさせるのも可哀想だし、何より三階の大家に目をつけられるのは避けたかった。枕元の眼鏡をかけ、スウェットパンツに足を通して玄関に向かった。覗き穴からみると、一階の中国人の母親が立っていた。もとより鍵などかけていなかった。ノブを回すなり、勝手にドアが開き化粧のはげた醜い女がぬっと暗がりに現れた。

 「水が垂れてるよ、びしょびしょだよ、これ、ほら、ねえ、びしょびしょ」

 中国女は玄関にサンダルを飛ばし、俺を押し退けて上がりこもうとした。危うく殴りつけるところだったが、旦那の太い腕の刺青が脳裏によぎり、腕をつかむところで踏みとどまった。話を訊くと、どこからか水が漏れて一階に浸水しているらしかった。このアパートにはよくあることだった。位置関係からして、風呂場以外ありえなかった。しかたなく女を家にあげた。俺は上半身裸のまま、風呂場に入った。シャワーヘッドから水滴が垂れていたが、それが水漏れになるとは考えにくい。排水管に亀裂でも入ったのだろうか? 不意に背後から、女の吐息が漏れてきた。いつの間にか靴下を脱いで、風呂場まで入ってきていた。凄い軀してるね、と女は言い、ザラザラした指で俺の背中をさすった。俺は壁に飛びのいたが、その赤茶けた壁はよく見ると瘡蓋のように膨れ上がって、その所々に亀裂のような罅が刻まれているのを発見した。これだ、これだよ、と俺は思わず呟いて女を見た。大家に言ってすぐにでも業者を手配してもらうよ。もはや中国女は聞いていなかった。よほど荒れているらしい鱗の逆立ったような指で、俺の背中や胸をさすり続けていた。

  亡き大家の嫁である現大家は、この件に関してだんまりを決めこむだろうと思った。大変ねえ、とか何とか言って他人事のようにあしらわれるのが目に見える。俺は朝一でパテを買いに行かねばならないだろう。朝のうちに埋めないと、さらに厄介な大男が乗り込んでくることになりかねないからだ。そこに泥酔した父が帰ってくれば、さらに諍いは血の匂いのする面倒なものになるはずだ。俺は今すぐにでも西口のドンキまで自転車を飛ばさねばならない。時針は三時半を廻ろうとしている。パテを塗り終えたときには、朝陽が路地の吐瀉物をすっかり乾かしてしまっているだろう。俺は徒労を憶えながら上着をきて、女を階下まで送り届けてから赤黒い空の下、環状八号線を自転車で驀進した。......


#小説 #文学 #日記 #退廃 #日常



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