不可侵領域の女
今日もまた夜勤だった。ヘルプ先の店に入ると、気のいい若きフリーターの浜辺が制服に灰色のセーターを着込んで一服していた。おはよう、どっちやる? と俺は羽織っていたレインウェアを脱ぎながら訊いた。おれ九時までなんで、Kさん前お願いしてもいいっすか? この店のバックヤードは俺の部屋よりも広い。資材棚の一番上には丸まった布団が積まれてある。L字型に長い更衣室で寝るためのものだろう。だいぶ前にここで、社員とアルバイトが性交していたのが露見して他店で笑いの種になった。俺は湿った更衣室に足を踏み入れた。まだ性の匂いが充満している感じがする。若い連中が使っているのかもしれない。深夜は誰も来ないし、鍵さえ閉めてしまえば問題ない。厨房を挟むから、客席まで喘ぎ声が漏れる心配もない。敷かれた絨毯に点在する染みを避けて奥にリュックを置いた。
「あ、財布もっといた方がいいっすよ、グエンさん知ってます? あの子、店の金盗んで馘になったんすよ、従業員の金も盗ってたらしくて、怖いっすよね、全然そんなふうに見えなかったから」
頻りにずり落ちた眼鏡を直す癖がある、小柄な女の子だった。確か十九歳くらいだったと思う。俺の知る中で、もっとも懸命に働くベトナム人だった。いつも上がると、カウンターの端に坐って鮭を三枚食べて帰った。俺が笑いながら、鮭だけそんな食う奴見たことねえよ、と言うと、グエンは照れながら頷いてずり落ちた眼鏡を両手で持ち上げたものだった。へえ、わからないもんだな、と陳腐な感想を述べざるを得ない。鮭くらい、俺が奢ってやったのにな。烟草をもみ消していた浜辺は不思議そうな顔をしたが、俺に合わせて乾いた笑い声をあげた。週に二十八時間、これが留学生の働ける時間だ。あと十時間くらい赦してやればいいのにと思う。故意に違反をさせ、学費やブローカーへの借金だけを残して帰国させる、そんな類の悪意が作用しているとしか思えなかった。
おはよう、と声をかけ厨房に入る。二十一時半だ。高校生二人が山盛りの賄いを手に快活に挨拶してくる。レジに出ると、感じのいい笑みを浮かべた女子大生が書類を書いている。若いな、とつくづく思う。俺が若いのは見た目だけで、歳に関していえば、若いね、と言われることがめっきりなくなった。浜辺が、あれ、Kさんいくつでしたっけ、と見透かしたようなことを訊いてくる。二十九だよ、と俺はボソリという。あとひと月で三十になる男が、二十九だと宣言するのは欺瞞だ、いや、二十九を迎えたばかりでも、もうおれも三十路だよ、と多少自虐めいてでも堂々と言うべきなのだ。自己欺瞞、誤魔化し、とり繕い、これらはあとで必ず自己嫌悪という副作用をもたらす、そんなことはとうから知悉しているのだが。……
男ばかりのこの職場に女子大生がいるのは珍しいことだった。それも見るからに育ちのいい、小柄で可愛らしい少女のような子が。この街にこれほど気品ある子が育つことにまず愕いた。浜辺などは、ホントに純朴なんすよ、おれなんかが喋ると穢れちゃいますよ、と嘯いていた。そりゃそうだな、とその場を肯定しておいて、しかし俺にしても迂闊には手を出せぬ、この街に似つかわしくない静謐な空気を確かに纏っていた。中条という名の子だった。一緒の空間にいるだけで心が洗われるような心地がする女などいつぶりだろう。Kです、と俺は恭しく一回り近く歳下の女子大生に頭を下げた。この無垢な少女が街の触手に拐かされることがないといいのだが、そう思った。まずは店の堕落した男連中から護らなければいけないぞ、そう使命感を抱きつつ、書類に目を落とす小動物のような中条に近づいていく。俺自身の躰からヌルヌルと這いでようとする毒蛭を圧し殺しながら。……
Kさん、五時までっすよね、九時まで働いてもいいんすよ? おれ、いつもは五時か七時なんで、軀持つかなァ、あ、一本だけいいっすか、暇なうちに。浜辺は六本目の烟草に火をつけにバックヤードに引っ込んだ。まだ二十一だがどこか老成していて憎めない男だ。俺は烟草は吸わない。たぶん、高校のころに周りの連中がみんな吸っていたからだ。恋人も吸っていた。よく廊下から繋がる外階段に出て、ひと気のない多目的室のある最上階まで登って一服していた。駅や線路、裏門の柵を乗り越えてコンビニに買い出しに行く生徒、プールサイドに群がる女生徒の水着姿なんかを眺めながら烟草をふかすのだ。鬱陶しかった。幼な顔から漂う白煙のような自意識が俺にはたまらなかった。だがいま憶い返せば彼らは青い光にあふれた情景にしっくりと符合していて、むしろリプトンミルクティーのストローを苦々しく噛みながら手摺から街を眺める自分だけが愚かで恥ずかしい存在に思えた。バックヤードからレゲエのような音楽が聞こえてくる。五分ほど経ったが、浜辺が戻る気配はまるでない。……
女子大生の中条は、特筆すべき情報が何ら得られぬまま帰ってしまった。貼りついたような微笑だけが頭にこびりついて離れない。厄介な兆候だと思った。さりとて俺の微笑も莫迦にはできない、己の与り知らぬところで女心に楔を打ち込んでいることだってままあるのだ。それも近年はだいぶ鳴りを潜めているようだが……。中条ちゃんて天然ぽいとこあるんすよ、といつの間にか戻ったらしい浜辺がまた俺の思考を見透かしたように言った。ああ、あるだろうね、と俺は小話を聞くまでもなく答えたが、浜辺は俺の相槌を意に介さず話し続けた。それはやはり有象無象の女どもが揃って舌打ちを奏でるような逸話だった。浜辺は中条がこの店の大切な看板娘で、どれだけ天使的な人間かを描写してみせた。いやあ、おれなんかが触ったらたちどころに肉が腐り落ちるかもしれないっすよ、それくらい綺麗なんです。そんなことを過剰に繰り返した。暗に、俺に手を出すなと警告しているようにも聞こえなくもない。でもさ、と俺は言った。グエンだって裏があったんだ、中条ちゃんにも意外な面があってもおかしくないよな、店出て路地入った途端に咥え煙草してたりさ、駅前の如何わしい店で掛け持ちのバイトとかしてるかもしれないぜ。浜辺は声をあげて笑った。違いねえ、でもあの子、下の話は駄目ですよ、試したんすから、何言っても真顔で、でも通っちゃうな、おれなら二万は出しますよ。俺は浜辺の肩を小突く。莫迦野郎、三万からはまけないよ、それでもフェラでさえゴムありだぜ。……
だが中条に限ってそれはないだろう、俺も浜辺もそう信じて疑わない。女どもは、だから男は愚かなんだ、と嘆息するだろう。男はすぐコロリと騙されるんだから……。莫迦をいうな、と俺たちは思う。こちとらウブな童貞じゃないんだぜ、炯眼とまでは言わないが、地雷とマグロを嗅ぎ当てることくらい朝飯前さ、中条は見紛うことなき純潔の天女、汚れを知らない処女だ! その雪白の肌を厭ったらしいナメクジがぬらぬらと這うことに興奮を憶えるとしても、俺たちは中条にだけは手を出さないと誓い合う。抜け駆けは駄目ですよKさん、と浜辺は釘を刺してくる。俺は微笑する。莫迦だなおれたちも、いやおれなんか中学生から変わってないんだ、話す内容がさ、おれらが相手にされるわけもないのによ。浜辺も愉快げに笑う。おれなんか小学生からですよ、いやでも、どんないい女だっていつかは誰かに喰われるんすから、どの雄にもチャンスという意味じゃ平等にあるんすよ、モノにするかしないかは本人次第だとしてもね。この男、どうやら本気で狩る気らしいのだ。舌舐めずりを隠しもしない。何が、誓いだ。俺はますます微笑を広げた。血気盛んな店だな、と思う。骨を鳴らす闘士は浜辺だけじゃない。小動物のような中条の純潔を穢したい男は客を含めいくらでもいる。誰もが、その中から一歩でも抜きん出たい欲望を黒く燃やしている。カウンターに前のめりに坐る客どもや賄いをかきこんでいた高校生らの舐めるような目つきを憶いだす。色に猛り狂った男ばかりだ。だがこの猛獣の檻のごとき空間で悠然と立働く中条、これは中々どうして悪い女かもしれない、と俺はまた勝手な妄想にとり憑かれる。あまりいい兆候じゃない。女たちから言わせれば、毒されはじめている。Kさん、もう一本だけもらっていいすか。返答も訊かずに裏に消える浜辺。夜勤はまだまだ続くのだ。いいじゃないか、と俺は思った。いいじゃないか、袋小路の絶望のさなかにこの程度の愉しみ、いいじゃないか。……
何観てんすか、ああ、これ知ってるわ、フレディマーキュリーやってる、そうそうラミマレック、いい演技するんだよなあ、狂った表情とかたまんないっすよね、でもこの女は嫌いだな、顔からしてヒステリック丸出しで、殴って黙らせたくなる、映画まだ観れてないんすよ、知ってました? レディオガガって曲がレディガガの由来だって、……
俺が休憩しているあいだ、浜辺は十分ごとに一服しにきては喋り散らした。それでもここは浜辺の所属する店だから文句は言えない、俺は来させてもらっている立場なのだ。自店の半分にも満たない売上のこの店に。終わったら、パチンコ行こっかな、と欠伸まじりに浜辺が言う。どこのパチ屋行ってんの、雑色? 俺は訊きながら、いつか見かけた荒んだ部屋着姿の橋本希を憶いだした。いやァ、並んでない店は信用できないっすね、やるからには繁華街まで出ないと、そういや、昨日だったかな、西口のキコーナが強盗にやられたって、非常階段で襲われたらしいっすよ、身内以外あり得ないな、案外、襲われた奴もグルだったりして、一晩で一千万だもんなァ、やってられねえな、どうすかおれたちも、グルんなって、この店やっちゃいましょうよ、Kさん他店だし、女装でもしてさ、いけそうじゃないすか?
俺と入れ替わりで、ついさっきまで隣に坐っていた浜辺が休憩に入った。ちょっと寝とくんで、仕込みとゴミだけお願いしていいっすか、と浜辺は言い残した。九時までだもんな、あと二時間で上がる俺が多く働くのは当然だ、そう自分に言い聞かせるまでもない、暇すぎてどうせやることもないからだ。一時間経っても、やはり浜辺は帰ってこなかった。ゴミと段ボールをまとめて、窓を拭いた、暗いせいで拭きむらがわからなかったが、誰がそんなものを気にするだろう? それでも指紋を拭き続けた。そもそもなぜ窓をベタベタ触るのか、犬や徒刑囚みたく外を覗こうとしているのだろうか、いい女でも歩いていたのだろうか、ボンヤリと考えながら手を動かす。こんなことが十年、いや、他のアルバイトでも似たようなことをしていた。空港にあるファーストフード店で、学生連中が終電で帰ったあと黙々とスツールの脚を磨いたことがあった、あれに何の意味があったろう。どうしてか意地になっていた。当時付き合っていた女は、何も言わずに灯りの落ちたレジに肘をついて俺を見ていた。帰りのタクシーでも、やはりふたりは無言のままだった。俺はたしかに何かに腹を立てていたのだ。五月に祖父の一回忌のために空港に寄った。店を覗いてみると、すべてのスツールは撤去されていた。回転率をあげるために、立ち食い方式になったのだろう。
五時を迎えたころには、あらかた窓は拭き終えていた。明るんできたら拭きむらが浮かびあがってくるだろう。浜辺がひとり残り、六時になれば早起きな主婦が来てくれる。俺の役目は終わったのだった。お疲れっす、ホント真面目っすねKさんは、と浜辺はやはり裏で烟草をふかしていた。タイムカードを切り、へんに癖のついた髪をニット帽にしまい、作業着の上にレインウェアを着た。帰りにジムに寄ろうとしていたが、運動靴を忘れたことに気づいた。しかたなく、脂に汚れたコックシューズを拭くために厨房に入った。熱い湯でゴムの表面を流していると、バックドアが開く音がして、まだ裏で憩んでいた浜辺が頓狂な声をあげた。あれ、中条ちゃん、どうしたの? 俺は驚いてふりかえったが、忘れものしちゃって、と囁くような声だけが聞こえてくるのだった。.......
バックヤードから浜辺と中条が話しこむ声が聞こえてくる。俺はとうに靴を磨き終えていたが、何となく戻りづらく手持ち無沙汰に突っ立っていた。これからサークルがあるんです、という中条の声がしたから、随分と早いね、と中から声を張り上げたが、思うより声量が乏しかったのか、黙殺された。自分が炊飯器の下を這う、ザムザよりも情けない油虫になったような気がした。さあ大好きな窓拭きでもおっ始めるか、そんな自嘲めいたことを考えているうちに、常連らしい客が入って来た。客の来店に感謝するのは高校一年の夏にアルバイトを始めて以来、初のことかもしれない。俺は壁に貼られたシフト表を読むふりをして、あからさまに迷惑そうな顔をして客のもとに駆けていく浜辺をやり過ごした。ふとバックヤードの方を見ると、中条が顔だけを覗かせて会釈をしてきた。お疲れさまです、もう上がりですか? 俺は一回りほど歳下の処女とどう接すればいいのか分からず、靴を忘れちゃったよ、とわけのわからないことを口走った。ジムに寄るはずだったんだけど、これで来ちゃったんだ、底が平らな方が踏んばりが利くからさ、いつもはコンバースのハイカットなんだ。喋りながらも、中条に答える術がないことははっきりと判っていたから、間断なく無意味な言葉を並べたてた。だがやがて言葉は死んだようにプッツリと途切れ、俺はただ意味なく微笑を浮かべ今度は机に置いてあるシフト表を眺め始めた。中条は週に六日も入っていた。働くねえ、遊ぶ暇ないんじゃない? そう口に出す前に、お疲れさまです、と会釈をして中条はバックドアから去ってしまった。
もはや店に用はなかったのだが、すぐに出るのは中条のあとを追うようで、浜辺の手前よけいに憚られた。上辺だけの”誓い”が脳裏をかすめたのだ。男の情けない一面だな、と思った。俺は厨房に戻り、しばらく浜辺と上っ面の談笑をした。思考だけはすでに街に出ていた。中条が駅に向かったとするならば、そろそろ出なければ追いつけない、だが中条は徒歩だろうか? 自転車ならば今更飛ばしたところで厳しい、しかし追いかけなければ苦い後悔を噛みながら眠ることになるだろう。むろん惚れたわけではなかった。居候の女いわく俺は社会的に誰に惚れる権利もないらしいのだ。そして俺もその意見を全的に肯定する、それも社会的にというより、むしろ根本となる人間的に……。ただ、ほんの少しだけ興味が沸いただけだ。好きな飲物は何か、どんな映画を観るのか、そんな小粒な質問を浴びせたくなるのはいい兆候ではないのだが、ささやかな好奇心を満たすくらい罪にはなるまい?……
水門通りの、日本で二番目に美味と自負するタコ焼き屋のあたりで、自転車を押して歩く中条の姿を認めた。何と声をかけていいのか分からず、黙って隣りに並んだ。朝日が見られるかなと思ったんですけど、と中条は会話の途切れがなかったかのように俺に微笑みかけた。全然だよ、あと一時間は暗いかもなァ。中条はよく俺の働く店に手伝いに来てくれているが、時間帯が違うため会うこともなかった。互いに識っている従業員の話をしながら仄暗い通りを歩いた。そういやシフト、けっこう入ってるね、と俺はさきほど言いかけたことをいった。遊ぶ暇ないでしょ? 中条は俺の目を覗きこむようにして莞爾と笑い、囁くような声で言った。わたし、すごい遊んでますよ。胸が騒ぐ感じがした。へえ、遊んでるんだ? 中条は何かを探るように夜明け前の空に目をやった。海もプールも二回いったし、家族旅行もしたし、花火大会も行ったんです、それにサークルもあるし......。そっかあ、と相槌をうちながら内心苦笑した。俺は何を期待していたのだろう。だけど、女は阿修羅みたいに突如として表情をかえるものだから。......
中条がシフトを増やした理由は、家族を旅行に連れていったからだった。こんどは箱根の湯に浸からせてやりたいという。俺は祖父の葬儀のときも一回忌のときも、母に旅費を負担させたことを憶いだして恥じた。どうしてか、ここ三年ほどいくら夜勤で働いても金が貯まる兆しがなかった。中条はまたコツコツと旅費を稼ぐのだと言った。祖父の骨を拾った夜、見知らぬ老婆が小遣いだと言って小袋に入った一万円札をくれた。祖父の兄の嫁らしかった。俺は次の日の朝には羽田に帰り、その足で夜勤終わりのベトナム女を迎えにいき、繁華街に出た。いつもなら二時間二千円のレンタルルームにしけこむところを、豪勢に西口のロッシェルに、それも拘束椅子のある特別室に連れ込んだ。フロントで借りた青い学生服を着させて、四回も犯した。五月の半ばで、夏日だった。ホテルから出ると烈しい陽射しが眼に痛かった。かるい眩暈を感じ、まるでおれはムルソーだな、と思った。締めにふたりでラーメンを啜り、そうして叔母から手渡された諭吉は消失した。
第一京浜沿いを歩いた。このまま土手までいけば、六郷橋から日の出が拝めるだろう。無垢な中条と並んで洗いたてのような太陽の光を浴びるのはどれだけ快いかしれない。ところが中条の家は土手に着く前に曲がらなければならないのだった。逡巡した。少しの散歩くらい、誘ってしまえば性格的に断わりはしないだろうと思った。空き缶のつまった袋をガラガラとひきずる乞食が、土手に向かって歩いていた。中条は乞食を一瞬見つめ、すぐに目を逸らした。そこです、と中条はこじんまりしたアパートを指さして言った。てっきり奥に聳えるマンションに向かっていると思いこんでいたから、いささか面喰らった。小さいですよね、と恥じらい気味に洩らす。Kさんは一軒家ですか? いや、と俺は首を振った。おれのところはこんな小綺麗じゃないよ、あばら家同然の豚小屋だよ。俺の言葉を冗談ととったらしく、中条は声を出さずに笑い、ひとり暮らしですか? と訊いてきた。いや、父親と暮らしてんだ、でも、来年には出るつもりだよ。妙にいい訳じみたニュアンスに響いた。本心だったが、そもそも金が一銭さえ貯まっていないのだ。だが中条は無邪気に、寂しいですね、と言った。出るっていっても、棲むのはこの辺だよ、この街から出る気はないんだ、と俺は言った。なぜこの街から出る気がないのか、中条は尋ねてこなかった。この街を舞台にした小説を書いているからだ、などと臆面もなく言わずに済んだことに安堵した。
何となく、むず痒いような、別れがたい感じがした。中条は、まだ一筋の光さえ顕わさない朝日の兆しをどうにか見つけようとするみたいに、懸命に空を見上げている。その表情が、俺には直視できぬほど眩しかった。ここから先は不可侵領域だ、そう思った。俺は不意にクルリと自転車を回転させながら、じゃあお疲れ、と言った。慌てて会釈をする中条を残して、ペダルを漕ぎだした。このままジムまで突っ走ろうと思った。燦然たる朝日が街を光の洪水で浸すころ、俺はエルヴィスと一緒に汗をかいているだろう。インターバルの合間、窓の外を颯爽と歩くキャビンアテンダントたちの黒タイツを眺めながら。そっちの方が、畢竟俺には似合いなのだ。……
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