愉快なエルヴィス


 ある日のうすら寒い灰鼠の曇の下、五時に夜勤を終えた俺はひと気のない水門通りを自転車で飛ばしていた。毒々しいクレアルカリンの錠剤が二錠、血中で溶けていくのを感じながら、十五号沿いにあるジムに飛び込んだ。入口のそばで競走馬のような軀をした、ドレットヘアの黒人女が一心不乱にダンベルを振っていた。汗で鈍く光る脚や脇が黒曜石じみた光を帯び、芳しい獣臭を漂わせている。一瞬、その女に黒豹の如き敏捷さで首根っこを捕らえられ、ベンチプレス台で強姦される想像をした。

 ダンベルプレス、ケーブルクロスオーバー、チェストプレス、……ベンチプレス台は年寄りと黒人女が占領していたから諦めた。あっという間に汗が噴きでた。レッグレイズをこなして引揚げようと思ったが、腹筋台に、エルヴィス・プレスリーのようなもみあげをした常連の男がいた。エルヴィスは七十を超えているとは思えない軀つきをしている。俺は笑みをつくって男に近づいた。いやァ、しばらくぶりですね。
 「でかくなったねえ、腕周り四十あるんじゃないの、どれ測ってやろう、おれ、メジャー持ち歩いてるんだ」
 エルヴィスは人のいい笑みを浮かべ、ロッカーにバッグを取りにいく。あれ、どこだろ、恥ずかしがってんだ、兄さんハンサムだから、スルスル逃げちゃう……。エルヴィスはバッグのすべてのポケットを漁った。いいですよ、おれ、もう帰りますから。言葉は咽喉元で滞った。しばらく見なかったですね、と訊くと、エルヴィスはにんまりと笑った。もっぱら梅屋敷なんだ、きょうは近くで用事があったもんだから、しかたなくね……、いいよ、あそこは、CAさんがわんさか来るんだ、寮があるからね、女ばっかだよ、おっぱいはないも同然だけどね、これは言っちゃいけないけど、あ、あったあった。………どんなもんだい? 老眼で見えなくてねえ。三十七センチか、凄いじゃない、そうそう、腹筋台からね、通りが見えるんだけどさ、七時半ごろかな、黒タイツの群れ、群れ、群れが凄いんだ! JALなんだなァ、おれ、七年くらい空港で働いていたからさ、警備員で、持ち物とかでわかっちゃうんだよ、いまのJALはスカートにスリットが入ってるんだ、こんどおいでよ、ラットプルマシンとかね、引くときに、凄い声だすんだよ、びっくりしちゃうよな、誘ってんじゃねえかって思うよ、捗るようで、やっぱ集中できないよなァ、ああごめんね、邪魔しちゃって。……

 鍛えあげられた競走馬そっくりのしなやかな脚をした黒人女が汗を拭きながら歩いてくる。ハロー、お疲れさん、とエルヴィスが軽快に挨拶する。ウインクを返す百八十センチはある黒人女の顔立ちは思いのほか幼い。いいケツしてるよな、好きなんだよなァ、サンバ踊ってるようなでっかいケツ、さァ腹筋だ、プレート抱えながらさ、キツイんだこれが、ひねり加えたりね、夏までにシックスパックだ、兄さん明日も来るんでしょ? それなら梅おいでよ、久々にぼくが追い込んであげるよ、それで、この時分くらいになったら、腹筋台から通りを眺めるんだ、黒タイツの群れ、ほんとだよ、いつかモノにするよ、自慢のシックスパックでさ。
 エルヴィスとのトレーニングは中々に愉快だ。インターバルのあいだ喋り続け、セットに入ると顔をくしゃくしゃにして限界まで追い込む。二十キロプレートを抱えて腹筋をするエルヴィスの軀は、七十にはとても見えない。いいですよ、おれもそっちいきますよ、ここと距離も変わらないし、構わないですよ、それに、黒人女よりも黒タイツの方がまだおれには現実的ですからね。エルヴィスは哄笑しようとしたが痰が絡んで咽せ返っていた。俺はほんとうにジムを変えたが、どうしてかあれからエルヴィスに会えていない。......


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